六章 冥婚の花嫁(3)
夢を見た。
小さな女の子の夢だった。生まれながらにその女の子の世界は、ほかのひととはちがっていた。女の子の目には、摩訶不思議な生き物たちが飛んだり跳ねたりする世界がふつうに広がっていたのだ。飾り立てられた街のクリスマスツリー。シャンパン色のイルミネーション。目の前を飛び跳ねる虹色の四つ首の魚を見上げて、女の子がわあ、と目を輝かせる。きらきらと光る鱗が宝石みたいだった。
『おかあさん、おかあさあん』
うれしくて女の子は繋いだ母親の手を引っ張った。
『あそこにね、今お魚さんがぱぁああってね、』
『――翅』
氷にも似た冷ややかな声が返る。ぱちぱちと目を瞬かせ、翅は顔を歪めている母親を仰いだ。マニキュアの剥げた手が翅の目を塞ぎ、耳を覆う。
『へんなものの話は外ではしないっておかあさん、前にも言ったよね?』
『へんなもの……』
『変なものでしょう!』
ヒステリックに叫んだ母親と、街に流れるクリスマスソングが不協和音を奏でる。周囲から集まった視線に頬を引き攣らせ、来なさい、と母親は翅の腕を引っ張った。
『でもお魚さん……』
『黙ってって言ってるでしょう?』
今にも泣き出しそうな母親の顔を見て、ああそうか、お魚さんの話はしてはいけなかったのだ、と翅は理解する。お魚さんの話をするのはもうやめよう。鳥さんも。たぬきさんも。翅は「へんな子」だから、自分が見ているものや聞こえているものの話はひとにはしないほうがいいのだ。そう。ひとにしなければいいんだ……。母親の手をきゅっと握り締めて、翅は目を伏せる。
『しゃべりかけているんです。何もないところに向かって』
家庭訪問に来た担任の先生が、母親にそう漏らす。お茶を出す母親の顔がみるみる蒼褪めていくのがわかった。
『みんなで運動しているときに、翅さんだけひとりでどこかへ行ってしまうこともある。……一度、専門機関に受診されたほうがよいのでは……』
先生が帰ると、がしゃん!と麦茶を入れたグラスが割れた。母が洗っている最中に取り落としてしまったらしい。しばらくシンクにもたれていた母親が、やがて低く嗚咽を漏らし始めた。
『おかあさん……?』
そっとドアから顔を出すと、『翅!』と雷のような声が落ちる。
『外ではちゃんとするって言ったよね? おかあさんと約束したよねえ?』
肩にすがりついて泣き出した母親を翅はぼんやり眺める。ちゃんと、ってなんだろう。ちゃんと、ってどうすればできるんだろう。お話しなければいいのかな? 何も見ないで聞こえなければ……おかあさんは泣かない?
『登校拒否ですって。小学生で』
『常野さんのところも大変よねえ……。シングルマザーなのにお子さんが……』
『知ってる? 翅ちゃんのお父さんっていないらしいのよ。結子さん、翅ちゃんを産んだあと逃げるように実家を出てきたって』
しゃっとカーテンを引いて、翅は外で噂話に興じる大人たちに背を向けた。……にんげんは、きらい。膝を抱えて、耳を塞いで、ベッドの下にしゃがみこむ。人間はきたない。おなかの中に悪感情をいっぱいに溜め込んで、上っ面でだけわらってる。わたし、みたいに。
だから、にんげんはだいきらい。
翅は通信教育の教材と一緒に、机に置かれていたハガキを引っ張り出した。はねへ。と下手くそな字で書いてある。差出人は「はるちゃん」。離れたところに住んでいる翅の唯一の人間のお友だち。
はやくこっちに帰ってこいよ。
たった一行の文面に、翅はうん、と律儀にうなずく。うん。もうすぐ夏休みだから。つらくない。苦しくない。夏になれば、はるちゃんに会える。
はるちゃんだけは。
わたしの見ているものをこわがったりしない。きもちわるがりもしない。はるちゃんにだけ、だから翅は見たものや聞こえたものの話ができる。この世界でたったひとりの、大事なお友だち。
『――……翅。起きてる?』
その日は、常野で過ごす最後の夜だった。夏休みが終わると、はるちゃんにはまた一年会えない。それがさみしくて、きのうから寝込んでいた翅を母親が起こした。
『おかあさん?』
その姿を見て、翅は瞬きする。夜にもかかわらず、母親はアンサンブルにスカートを重ね、顔には化粧もしているようだった。
『どこか、いくの?』
『ええ。遠いところへね』
遠いところ。遠いところってどこだろう。はるちゃんに会えなくなってしまうのは嫌だなあ……。
『はるちゃんにお手紙送れるところ?』
『いくらだって書けるわ。さあ、仕度して』
母親に促され、翅はお気に入りの白いワンピースに着替える。あざらしのぬいぐるみを持って行こうとすると、それはだめだと布団に戻された。母親に手を引かれて、部屋を出る。外は車軸を流すような大雨が降っていた。時折光る稲妻にひゃっと身をすくめて、ビニール傘を持つ母親の腕を握り締める。車のほうへ行くのかと思ったら、母親は境内の石段をのぼり、宝物庫の脇の細道を通り抜けた。
てふてふ沼。そう呼ばれる昏い沼が雨の中、無数の波紋を水面に描いている。
『おかあさん』
恐ろしくなって、翅は母親の手を引っ張った。
『翅、こっちへ行きたくない』
だってここには。てふてふ沼にはこわいお客さんが住んでいる。ずっと深い眠りについていて、翅が話しかけても応えることはない。けれど、とてもこわいものであることはわかる……。
『だめよ』
母親の答えはにべがない。ビニール傘を閉じた母親は翅を沼のほとりに立たせると、その背後に立った。母親は乱れた翅の髪を何故か指で梳くようにした。登校前に姿を整えてくれたときみたいに。
『翅。おかあさん。おかあさんねえ……』
すん、としゃくり上げる声が聞こえた。髪を梳く手が離れ、背中をとん、と背後から押された。暗い水面がみるみる近づいていく――。
「――翅っ!」
叫んで晴は飛び起きた。
息が荒い。背中にぐっしょり汗をかいていた。
「なんだ、いまの……」
部屋を見回したが、胸のあたりに頬をうずめて眠っていた少女の姿はない。乱れた布団には青い雨影が映っている。
「どこ行ったんだよあいつ……」
時計はちょうど深夜零時近くを指していた。普段翅が寝起きしている部屋を開くが、そこにも幼馴染はいなかった。背中に冷たいものが這う。――あのときも。あのときもそうだった。翅が消えて、結子おばさんの死体が沼に上がったあの夏の日。こんな風に翅は急に晴の前から消えたのだ。
「……っ」
塩水に浸していた雲外鏡をつかむと、コートだけを羽織って外に出た。清めは済んでいないが、ないよりはマシだ。
夜のしじまに簾がかるように霧雨が降っている。傘を忘れたことに気付いたが、取りに戻るのももどかしく、晴は境内を走った。嫌な予感がしていた。明快に頭でこうだと考えられたわけじゃない。だけど、ここ最近の翅の様子やさっきの翅がまるでお別れをするかのようで。
「っわ」
泥でスニーカーが滑り、砂利の上に身体ごと叩きつけられる。それで雨に打たれる宝物庫が目に入り、晴は顔をしかめつつ身を起こした。先ほどまで見ていた夢の残像――白いワンピースを着た翅の手を引いて歩く結子さんの姿がよぎる。
「そこにいるのか……?」
よろめきながら立ち上がり、宝物庫の壁と林のあいだの隘路を進む。枯れ草をかきわけると、無数の波紋を描く昏い水面と、白いワンピースをはためかせている少女の背中が見えた。
「翅!」
沼のほとりに爪先を浸して、今にもあちら側に絡め取られてしまいそうな少女の腕をつかむ。驚いたように翅が振り返った。
「はるちゃん? どうして……」
「どうしてはおまえのほうだよ。なんで夜更けにこんなところにいるんだ。何してんだよ、ここで」
「なにって、」
ふわりと翅の長い睫毛が震えて、沼のほうを見る。
てふてふてふてふてふ
その気配はあちらの音が聞こえないはずの晴にも感じ取れた。何か、とてもおそろしいもの。とてもこわいものが、そこにいる。
てふてふてふてふてふ
てふてふてふてふてふ
雲外鏡によぎった蝶影を見て、晴は愕然とした。
「なんで……どうして……」
翅は言ったはずだ。
〈てふてふ〉が常野に降りるのは、次の満月の夜だと。今はまだ満月じゃない。目を見開いた晴に、翅はくすっと苦笑した。
「はるちゃんごめんね。あやかしとちがって、人間は嘘をつくんだよ」
「……嘘?」
「あのとき、〈さにわ〉ができたのはわたしだけ」
蛇ノ井が出雲で行った神問い。あの場にいたのは神社の職員を除けば、翅、みどりちゃん、晴の三人だった。あちら側のものが聞こえない晴に加え、大きすぎて音を拾うことができないとみどりちゃんも言っていた。だから翅だけが。あのとき蛇ノ井に降りた神の託宣を受け取ったはずだった。
「〈むつのわだつみのりゅうずのかみ〉さんはちゃんと〈てふてふ〉さんが次に来る場所と時間を教えてくれたよ」
次の満月の夜。
「次の新月の夜」
〈てふてふ〉は。
「〈てふてふ〉さんは」
常野の地に。
「常野翅のもとに」
降り立つ。
「迎えにくるって」
「むかえ……?」
眉をひそめた晴に、曖昧な笑みを浮かべて、翅はくるんと晴に背を向けた。
白いワンピースが紗のように広がる。




