六章 冥婚の花嫁(1)
夢を見る。
あんたなんか、と顔を両手で覆ってそのひとは言った。泣き腫らして化粧がはげた顔は、唇だけが赤い。あんたなんか。呪詛を吐き出すたび、そのひとの顔がいびつに歪んでいくのが恐ろしかった。
あやかしは怖いものだと、ひとは言う。そんなものが見えて聞こえるなんてこわくないの?と。尋ねられるたび、翅は不思議に思う。あやかしは嘘をつかない。彼らの悪意はもっと獣めいて単純で、裏表がなく、みどりごのように無垢だ。それに比すれば、人間のほうがずっと恐ろしい。外側だけの笑顔を繕い、腹のうちにいっぱいの悪感情を溜め込んでいる人間たちは。
あんたなんか。
翅の肩をつかんだ母親がいびつにわらった。
あんたなんか、生まれてこなければよかったのに。
それが翅がきちんと人間であった頃の最後の記憶だ。
*
次の満月の日に、〈てふてふ〉は常野に現れる。蛇ノ井が神問いをして得た託宣をもとに、さっそく〈てふてふ〉捕獲のための対策会議が神御寮で開かれた。もともと磐の下で動いていた調査チームを中心に、いくつかの捕獲案が検討される。二週間ほどのあいだに検討が重ねられ、捕獲の方向性もおおかたまとまった。来週からは〈てふてふ沼〉に御寮官たちが入って、〈てふてふ〉の出没に備えて清めを行うことになる。
「だめだね、これは。穢れてるよ」
晴が差し出した雲外鏡を見るなり、司書の空木さんはセルフレームの眼鏡を押し上げて首を振った。常野守として対策会議に出席したあと、晴は神御寮図書館へ向かった。今日は空木のほうから呼ばれていたのだ。
磐がこの場所で〈てふてふ〉の襲撃を受けたのがひと月ほど前。倒れた書架は撤去され、不自然なスペースが生まれていたが、それ以外は元通りになっていた。図書業務ももうすぐ再開するらしい。来たついでに、先日常野で挨拶を交わしたまろうどの登録も済ませてしまおうと雲外鏡を出すと、空木が「これはだめだ」と首を振ったのだった。
「穢れているってどういう意味ですか?」
「鏡が機能を失いかけている。これは照さんも気付かないとだめだなあ……。まあ御寮官のことでそれどころじゃなかったか」
ひとりごちて、空木は頬をかいた。
「君、夏に〈てふてふ〉と対峙したんでしょう。たぶんその影響だよ。強い力のあやかしを映そうとすると、鏡も少なからず疲弊する。これをケガレが溜まっている状態って、私たちは言うの」
説明し、空木は鏡をひっくり返した。丸い鏡面が晴のほうへ向く。表面が曇っているのはいつもと変わらなかったけれど――、
「あっ」
空木の背後に映りこんだ赤い金魚の姿を見て、晴は声を上げる。たぶん前に空木が言っていた〈心眼魚〉だろう。ただその姿は奇妙に歪み、ときどき霞んで見えなくなってしまったりする。
「これが〈ケガレ〉の状態。この状態のまま名問いをしても、効果は薄いよ。何しろ正しい姿を鏡に映せていないのだから。このまま使い続けていれば、鏡自体が壊れてしまうこともある。早々に清めを行ったほうがいい」
「清め……ですか」
照から雲外鏡を継承して半年以上が経つけれど、まだ清め、というのをしたことはなかった。今ひとつ反応が鈍い晴に苦笑して、空木は鏡を布ケースに入れて返す。
「たとえば、塩水に浸したり、薬草を使ったりね。ふつうは一年に一度くらいでいいんだけど、君の場合は〈てふてふ〉って例外があったからなあ。守役ごとに伝承されている方法があるから、照さんに聞いてみるといいよ」
「ありがとうございます」
頭を下げて鏡を受け取る。
「きれいな意匠だね」
鏡の裏面を指して空木が言った。
「桜花かな。君のところの紋?」
「ああ、常野女神の依代でもあるんです。正式名が常野此花女神。山の神であるのと同時に花の神さまでもあるって」
「山の神は季節で転身するからねえ。春になると稲の神に転じて桜に宿り、秋を見届けると再び山へと帰る……」
情景を思い浮かべているのか、空木はうっとりと息をついた。それから本来の用を思い出したらしく、「あと、これ」とカウンターの足元から大きな紙袋を持ち上げる。ずっしりと重い。眉をひそめて中をのぞきこむと、古い和綴じ本が何冊も入っていた。一冊を取り出してみて、さらにいぶかしむ。
「これってうちの……」
「常野御寮官の荷物だよ。ここにずっと置いておくわけにもいかないから、君に持って帰ってもらおうと思って」
「おやじが? なんで……」
磐はもうずっと常野の家に戻っていなかったはずだ。なのに、何故うちの本が磐の荷物に入っているんだろう。
「まさか君、知らないの?」
晴の顔を見て、空木はちょっと呆れた様子で呟いた。
「常野御寮官は〈てふてふ〉を追いかけていた。君と同じで……五年間ずっと」
「え?」
「夜はいつもここにこもって〈てふてふ〉関連の書物を紐解いていたよ。最初は私も付き合っていたけど、途中から鍵の管理を任せたくらいなんだから」
そんなはずがない。
思わず口をついて出た言葉を晴はのみこむ。空木の表情はとても嘘を言っているという風ではなかった。やがて視線を紙袋へ落として、しらなかった、とぽつりと呟く。俺。そんなこと、ぜんぜん知らなかった。
「おう、晴。おかえり」
家のドアを開けると、ちょうど照が鞄を肩にかけて書斎から出てきたところだった。
「あれ、じいちゃん。出かけんの?」
「病院にな。そのあとミツギさんから神前婚の相談を聞いてくるから、今日は夕飯要らねえわ」
「わかった。あっ、じいちゃんちょっと待って。鏡のことなんだけど」
紙袋を框に置くと、今日空木から言われたことを話して、雲外鏡の清めの方法を教わる。前に龍頭を清めたときとやり方は似ていた。井戸からくみ上げた水に塩をひとつまみ入れて、その中に鏡を浸し、東の方角へ。短い祝詞を唱え、「これで数日寝かせりゃ大丈夫だろ」と照が言った。
「ありがと。ごめん、出がけに」
「いいけどよ。……おまえ、磐くんの見舞いには一度も顔出さねえ気か」
言いづらそうにぼそぼそと照が言った。晴が出雲へ神問いに行っている間に、磐は意識を回復させた。といっても、まだ簡単な受け答えをする程度で、会話ができる状態ではないという話だったが。右大腿の骨折のせいでリハビリは必要になるけれど、言語障害や身体への後遺症は残らないで済みそうだと、照が出雲から戻ってすぐ教えてくれた。
照は脳梗塞を起こしたあと、右脚の歩行に少し障害が残った。たぶんそれを一番心配したにちがいない。磐くんはそうならなくてよかったと、何度も言っていた。
照はかあさんが死んでからもずっと、実の息子みたいに磐を大事にしている。たとえ、家に帰ることがなくなっても。晴の目から見た磐とは別の姿が照には見えていたのだろうか。
「おまえ、磐くんが病院に運ばれたときには血相変えて心配してたのによ。本当、素直じゃねえよなあ……」
「うっさいな。……見舞いは、いいや。まだ」
照がコートを羽織るのを手伝って、玄関まで送り出す。框に置かれたままになっている紙袋に目を留めて、「おやじさ」と晴は呟いた。
「もしかして、ときどきうちに帰ってきてたの……?」
「ああ? おまえ、まさか気付いてなかったのか」
呆れた風に聞き返され、思わず絶句してしまう。
「き、気付くわけねえだろ!」
「じいちゃんは育毛剤を堂々とちゃぶ台には置かねえぞー。まあ、あいつも気付かれてないつもりだったから、どっこいどっこいだな」
からからと笑って照は靴に足を入れた。
「じゃあ、行ってくる。社務所の戸締り頼むな」
「いってらっしゃい」
まだ帰ってきてない空のために玄関は開けたままにしておく。紙袋をいったん自分の部屋に置き、晴は夕飯の支度を始めた。春雨とわかめのスープを作り、冷蔵庫からチルドの餃子パックを出す。別に皮から作ったたいそうなものじゃないけど、空は案外このチルドの餃子が好きで、じいちゃんがいないときは、餃子と炒飯で済ませてしまうことがある。ひととおりの下ごしらえを済ませると、晴はウィンドブレーカーを羽織り、社務所へ向かった。暖房や電気がオフなのを確かめて鍵を締め、拝殿の扉にも錠をかけにいく。
「……あれ」
本殿に鎮座した鏡が傾いているのに気付いて、錠にかかった手を止める。今日は十一月三十日だから、常野女神の戻りは明日になるはずだ。留守を司るかまど神は今朝、礼を尽くして常野から送り出した。あとは本殿にまた女神を迎え入れるだけ。
「道中気を付けておかえりください」
出雲の十九社や上宮を思い浮かべながら、晴は鏡を直す。戸締りを終えると、しんしんと暮れゆく群青の木立のなか、石段を下っていった。山の端に月はまだ出ていない。




