五章 神問い(3)
「あっ、飯島先生ですか。常野です、すいません。えと、おやじの件は大丈夫だったんですけど、なんかインフルエンザにかかっちゃったみたいで……季節が早い? えっ、それはそうなんですけど、そうみたいなんで、あの来週までちょっと休みます。はい。はい、すいません」
我ながらいかにも仮病といった風の電話を入れたあと、晴は通話を切る。新幹線の振動音に気付いて、ばれたかな、と心配になるが、あとのまつりだ。指定席へ戻った晴を観光雑誌をめくっていた蛇ノ井が見上げた。
「で、先生はオッケーだって?」
「たぶん……。でもインフルエンザとかって、診断書が必要じゃなかったっけ」
「いいですよ、そんなもの。適当にわたしが用意してあげるから」
さらっととんでもない言葉が出た気がするが、あながちはったりでもなさそうなのが逆に怖い。いつの間にか黒髪に戻っていたものの、耳にじゃらじゃらとピアスをつけた蛇ノ井はやっぱり堅気の人間ではないかんじが漂っていて、斜め向かいの席の女子大生が肩を突き合いながら、ひそひそと噂話をしている。芸能人かなあ、という声が聞こえ、そういう解釈もありうるのか、と晴は驚いてしまった。すると晴は芸人さんの付き人、といったところだろうか。案外現状を的確に表している。
「やっぱり出雲といえば、出雲そばかねえ。晴くん、翅ちゃん、夕飯は何食べたい?」
「はいはーい、のどくろー!」
晴の隣に座った翅が元気よく手を挙げる。翅の人見知り癖は、どうやら蛇ノ井に対しては発揮されないらしい。この男自体、浮世めいたところがあるので、翅の中のカテゴリがあやかしたちと同じなのか、昔からわりと懐いている。
「また渋いところに目をつけるねえ、翅ちゃん。のどくろの煮付けと日本酒は合うんですよう。漁港が近いから、刺身もうまいだろうしね」
「はるちゃんはまぐろが大好きなんですよ。あとねえ、いかさんも。ね、はるちゃん?」
「というか、なんで移動手段が新幹線なんだよ。飛行機のほうが早いだろ」
このままだととめどなく食い物の話になりそうだったので、晴は気にかかっていたことを聞いてみることにした。
「蛇ノ井御寮官は飛行機に乗れないのよ」
ポットから注いだコーヒーを蛇ノ井に渡し、みどりちゃんが深々と嘆息した。
「前に北海道へ行ったときも、青函トンネルを使ったひとだからね」
「きみらはあの地上から一万メートル離れた奇怪な形の鉄の箱にわたしを閉じ込める気かい? おぞましい。今じゃ日本の交通網も発達して、せいぜい二、三時間しか変わりませんよ。どうせ神問いは朝いちばんに行うんだから、今日の昼過ぎについたって、夕方に着いたって変わらないでしょう」
「そうかもしれないけど」
「晴くん、無駄よ。私が何度話しても理解していただけなかった案件だから」
遠い目をして、みどりちゃんが呟いた。いつもはスーツやジャケットを着ていることが多いみどりちゃんも今日は、カーキ色のトップスにジーパンのラフな格好をしている。きれいに整えられたネイルを見て、翅がそわそわと自分の爪に目を落とした。
「翅ちゃんは出雲へ行くのははじめて?」
突然話を向けられ、翅がひう、と変な声を上げる。小さくうなずいて、晴の肩に隠れた翅をみどりちゃんは苦笑まじりに見つめた。
「神問いで降ろす神にめぼしはついているのか?」
今年の神議りの日程は今日から一週間。夜には出雲にやってきた神々を稲佐の浜で迎える神事が行われる。実際に神議りが始まるのは明日からだ。
「交渉次第ですけどねえ。大地のことだから大地母神に訊くか、あるいは予知を得意とする神々に助力を願うか。わたしの『じいさま』に交渉するって手もありますかね」
「じいさま?」
「かつては海を支配した龍神だったそうですよ」
新手の冗談だろうか。ぽかんとしてしまった晴に意味深に微笑んで、蛇ノ井は駅弁を開いた。
「あんたって……本当はいくつなんだ? いろいろ詳しいけど」
外見だけでいえば、二十代後半から三十代前半といったところだろうか。けれど、年上のはずの照や磐も、蛇ノ井に対しては敬語を崩さない。晴がはじめて蛇ノ井に出会ったのは十年以上前だから、逆算するとその時点で二十そこそこだったことになるけれど、まるで変わっていない気がする。箸を突き刺した卵焼きを飲み込み、蛇ノ井は咽喉を鳴らした。
「やだなあ、男にだって年齢を聞くのは野暮ですよ、十七歳の晴くん」
「あんたも、おやじみたいにどこかの守役をしてたのか? 今も?」
「御寮官によっては兼任しているひともいます。ただ、わたしに守るべき土地はないねえ。磐くんなんかは事務方の仕事をやってますけど、わたしはずっと守役のサポーター担当。最近だと、鳥居さんが新しいほうで、御寮官についたのが八年前だったかな」
聞いていると、ますます蛇ノ井の年齢がわからなくなって混乱してくる。すげえ若作りなのかな、と晴は首を捻った。
「君の旦那さんって、鋭いんだか鈍いんだかわからないよねえ、翅ちゃん」
「いいんです、はるちゃんは鈍ちんなのが、ちゃーむぽいんと、ですから」
「君とは反対だ」
「気苦労が多いんですよ」
大仰に息をついて、翅は車窓へ視線を移した。弁当を食べ終えた蛇ノ井がアイマスクをかけて、リクライニングを倒す。
「わたしはちょっと寝ますから。岡山に着いたら起こしてねえ。あと、君らで夕飯食べるところを決めておきなさいね。出雲そばは抜かさないこと」
ちゃきちゃきと用件だけを告げて、十秒も待たずに寝息を立て始める。みどりちゃんと目を合わせて苦笑し、晴は座席に深くもたれた。
岡山駅で乗り継ぎ、出雲市へ着く頃にはすっかり日も暮れていた。いちおう言われたとおりに、出雲そばとのどくろの煮付けが出る小料理店を探しておいたのに、改札を出るなり何故か突然ラーメンが食べたくなったという蛇ノ井の言で、今にも潰れそうなラーメン屋でライスとギョーザ付定食を食べるはめになった。ラーメンはおいしかったし、結局蛇ノ井におごってもらったからいいけれど。
「じゃ、あした朝七時にロビーで。朝ごはんは済ませておきなさいねえ」
みどりちゃんが取ってくれたというシティホテルには、出雲市駅から徒歩数分でたどりついた。チェックインの手続きをする晴にそれだけを言い置いて、蛇ノ井は何故かまた外に出ていってしまった。
「はるちゃん。ここ、タオルも歯ブラシも、シャワーキャップまであるよ。すごいねえ」
最近のホテルのアメニティにやたら感動しているらしい翅をよそに、晴はディバックを放ってコートを脱ぐ。時間を確認すると、午後八時。いつもなら起きている時間だけど、今日は半日近い移動でさすがに疲れてしまった。ベッドに横たわり、端末の表示を切り替えると、新着メール一件の表示。差出人は照で、磐が意識を取り戻したとのことだった。まだ絶対安静なのは変わらないが、ひとまずよかった。安堵して、晴は枕に突っ伏す。
「おやじ、目ー覚ましたって」
「そっかあ、よかったねえ……。翅の御守り効いたかなあ」
「御守り?」
「おじさんと翅の内緒」
唇に指をあてて、翅は微笑んだ。
「はるちゃん。ちゃんとシャワーくらい浴びたほうがいいですよー?」
「……ん」
うとうととベッドの上でまどろんだ晴の手を翅が引っ張る。それをつかみ返した。
「ありがとな」
「え?」
「蛇ノ井に一緒に頼んでくれて。おまえが言ってくれなかったら、たぶんだめだった」
「……はるちゃんはおねむさんだと、素直になるねえ」
困った風に眉根を寄せてわらい、翅はベッドに腰掛けた。
「だいじょうぶですよ。翅はお話するの得意だから。〈てふてふ〉の出没場所くらい、すぐにわかりますよ」
「ん」
「でもね、はるちゃん。京都のようなことは絶対にだめ。だめですよ。翅のまえで危ないことするのは。じゃないとわたし……」
幼馴染の声を聞いていると、緩やかな睡魔が押し寄せてくる。晴は翅のつめたくて、華奢な手のひらを握り締めた。自分からはそういうことをめったにしないのも、忘れていた。だいじょうぶ。晴は呟いた。おまえは俺がまもるから……。それきり意識は途切れてしまったので、晴は翅がどんな顔をして晴を眺めていたかを知らない。




