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冥婚の少年  作者:
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一章 雨乞い(1)

「常野山の神に離縁状を叩きつけてやる」


 というのが十七歳の常野(とこの)(はる)の目下の目標である。


 東京の多摩西部。都会のおしゃれさからは数十年遅れた某市。市街地にある都立高校から晴の家までは、バスに揺られて四十分ほどかかる。


「あら、晴ちゃん。通学ご苦労さんねえ」


 スーパーの買い物袋を抱えて乗車してきたおばさんが、閑散とした車内を見渡して言った。


「学生さんはもう夏休みじゃなかったっけ?」

「本当は今日からなんですけど、俺は補修で」

「ふうん、晴ちゃん真面目そうなのにねえ」


 いくら真面目に勉学に励んでいても、日数が足りなければ進級はできない。晴は家業のせいで本意ではない欠席が多かった。


「そういえば、今年の雨乞い祭の準備はもう済んだの?」


重たげな買い物袋をシートに置くのを手伝っていると、おばさんが尋ねた。七月中旬のこの時期、晴の家である常野神社では、常野女神へ雨乞いを行う。さして大きな儀式ではないけれど、取りしきるのは祖父の照から春に正式に役目を継いだ晴だ。


「いちおう。榊の設営もできましたし」

「龍頭舞は、町内会の子がやってくれるんでしょ」

「土日にうちに集まって練習してます」

「当日お餅丸めるのは私も行くからね。晴ちゃんのとこ、女手がないんだから」


 おばさんの嘆息にかぶさるように、「次は常野神社前、常野神社前」と車内アナウンスが流れた。


「あっ、俺だ」


 降車ボタンを押して、晴はリュックを肩にかける。おすそ分けにもらった夏蜜柑をリュックに入れ、定期をリーダーに通した。


 ステップを降りると、バス停そばのベンチにちょこんと座る影がある。シンプルな白ワンピースに癖のないロングの黒髪はビーズのバレッタでとめている。常野翅だ。姓は同じだが、晴と翅に血の繋がりはない。このあたりは常野姓が多く、数百年前までさかのぼれば、みな同じ血縁だった。


「はるちゃん!」


 一瞬緩めた歩調を戻す。無言のまま目の前を通り過ぎようとすると、翅が勢いよく立ち上がった。バスの車体が小さくなるのを見送って、晴の左手に右手を重ねる。


「おかえりなさい。そいんすーぶんかい、ちゃんとできた?」

「……」

「はるちゃん、はーるちゃん」

「……」

「かわいい奥さんにただいまのハグはないんですか、旦那さま」

「うるさい」


 即座にそこだけを否定すると、翅は不満そうに口をつぐんで、ぷいとそっぽを向いた。


「近頃旦那さまの言葉の暴力がひどいです。これってどうなんですか。ああ、照れ隠しですか。はるちゃん思春期のオトコノコだから、恥ずかしいんですか?」


 ひそひそと晴にすれば、何もないところに向けて翅は内緒話を始める。翅は昔からこうだった。晴には見えないものが見えて、聞こえないものが聞こえる。虚弱のせいで、人間の友だちはいないのに、普通のひとには見えなくて聞こえないあやかしたちとばかり仲良くなってしまう。


 常野翅は常野女神が縁を結んだ晴の「妻」だ。高校二年生の晴はまだ結婚年齢に満たないが、常野の掟では翅と晴はめおとで、ずっと前に常野山の神さまに誓いを立てていた。不本意である。晴にはたいへん、不本意である。ひとの世での結婚可能年齢――十八歳までに常野山の神に離縁状を突き付けてやるのが、晴の目標だった。


「ねえね、はるちゃん。今日のお夕飯は何にするの?」

「茄子の煮つけと野菜カレー。スーパーで茄子が大安売りだったから」

「近所のおばさんがじゃがいものおすそ分けって置いていってたよ。よかったねえ、お芋がたくさんのカレーだね」


 晴と手を繋いだ翅が跳ねるようにステップを踏む。車道のほうへ飛び出しかねないので、晴は翅の右に立った。このあたりは歩道と車道の間にガードレールがない。車もほとんど通らないのだけど、ときどき抜け道に使うトラックはかなりの速度を上げている。


 バス停沿いの通りをしばらく歩くと、脇に小さな参道が現れる。関東の西の霊山・常野山のふもとにある常野神社。それが晴の家だ。年中人気がない神社の古びた鳥居のそばには、今日は見慣れないワンボックスカーが駐車している。嫌な予感に駆られて足を止めた晴の前で、車のドアが開く。降り立ったのは、虫襖の着流しにマーブル色の髪をした年齢不詳の男だ。


「やあやあ、常野守(とこのもり)


 晴を見つけて、男は色の入ったサングラスを外した。


「お元気? 相変わらず夫婦揃って仲良しだぁねえ」

「こんにちは、蛇ノ井(へびのい)さん」


 頬を歪めた晴に代わって、翅が愛想よく挨拶をする。


「翅ちゃんも、晴くんラブにお変わりはなさそうで」

「それはもう!」


 力強く翅がうなずいた。


「朝、寝ぐせのついたはるちゃんや、夜、うたた寝をするはるちゃんを盗見するのが最近のわたしの趣味です」

「ますます愛が深まって何よりだよ」

「蛇ノ井。用件はなんだよ」


 話が気味の悪い方向に脱線しそうだったので、晴は口を開いた。そうそう、と手を打ち、蛇ノ井は足元のあたりを示す。


「近くに用事があったついでで立ち寄っただけなんだけど……、ちょうど君への『お客さん』を見つけてね」


 隣の翅が何かに気付いた様子で瞬きした。首を捻った晴に、「尻尾が九本の猫さんだよ」と囁く。翅が視線を向ける先には何も見えない。だが、いるのだ。そこには確かに〈まろうど〉――こちらの言葉では神や鬼、あやかしと呼ばれるものたちが。晴がこの春に祖父から継いだ仕事は、この〈まろうど〉に関わるものだった。


「『今代の常野守はあなたですか』って聞いてる。少し不安そうなかんじ」


 ああそうか、と翅の言葉にうなずいて、晴は腰をかがめた。


「今の常野守は俺です。晴といいます。先代から役目を継いでまだ少しですけど、力になれるようがんばりますから、よろしくお願いします」


 不思議なもので、まろうどたちは晴の姿も声もわかるらしい。常野にやってきたまろうどははじめに常野守に挨拶をすませる。まず守役が名を名乗り、まろうどもまた名を返す。それがあちらとこちらの取り決めごとだ。しずしずとこうべを垂れた猫が、〈おぼろ〉を名乗ったと翅が教えてくれた。




 はるか昔。常野の地を統べる山の女神に契りを交わした女がいた。常野一族の祖である。彼女は常野の土地を借り受ける代わりに、そこに棲む森羅万象を守ることを約束した。契りは土地とともに子に受け継がれ、晴に至る。


常野守の役目は幼い頃から祖父に教えられて育ったものの、正式に山の神と誓約を交わし、守役の証たる「雲外鏡(うんがいきょう)」を受け継いだのが四月。そのとき立ち会ったのがこの男、蛇ノ井である。自称「守役サポーター」を名乗る蛇ノ井は、今は各地で細々と残るだけとなった守役たちを束ねる「神御寮(かみごりょう)」の御寮官として、日本中を飛び回っている。


「まろうどへの挨拶はまあ、できるようになったみたいだねえ」


 しゅるりと尻尾を振って去っていったらしい〈おぼろ〉を見送り、蛇ノ井が呟いた。古い日本家屋風の屋敷には、晴と祖父、それに妹と翅の四人が住んでいる。蛇ノ井を客間に案内すると、晴は薬缶で湯を沸かした。祖父の照は外出中だし、妹の(そら)はまだ小学校から帰ってきていない。


「はるちゃん、戸棚の奥にお団子がありますよ。一緒にお出ししたら?」


 急須に湯を注いでいる晴にそれとなく翅が教えてくれる。


「おかまいなくー。はい、京都みやげ」


団子と茶を持って客間に戻ると、蛇ノ井が八つ橋の包みを差し出した。この常にへらへらと笑っているサポーターが晴はあまり得意じゃない。祖父の代から世話になっているのは知っているけれど、奇矯なふるまいといい、もって回った言い回しといい、何を考えているのか真意が読みづらいのだ。


「今日はじいちゃん、病院に行ってていないぞ」

「わたしが会いに来たのは君ですよう、常野守。ほら、抹茶味とニッキと両方買ってきたんだから」


 蛇ノ井は一度は渡した八つ橋の包みを自ら破き始めた。


「君もさ、落ち着いたら一度私たちに挨拶に来なさいね。守役を継承したときはふつうみんなそうするもんですよ」

「挨拶って言ったって、いまさらする相手もいないだろ」

「そう言わない。けじめは大事ですよ」


 奇矯な見た目に反して、この男はときどき言うことがいやにまともだ。顔をしかめたまま顎を引くと、蛇ノ井はニッキの八つ橋を摘まんだ。ひとつふたつと見る間に食したあと、「ああ、そうでした」と鞄からファイルを取り出す。差し出されたのは角印が押された一枚の紙だ。


「召喚、状?」

「どうせ君は理由つけて来ないだろうから、こっちから紙を出しておきました」


 にやにやと楽しむように言って、蛇ノ井は肩をすくめる。


「まあ、それは冗談だけど。詳細は神御寮本部で話しますから、さっさといらっしゃい」

「あしたは雨乞いの儀式があるし、あさってからは週末補修なんだけど」

「あははは、補修! いいねえ、高校生。きりきり学業との両立をさせなさいな」


 この様子だと、取りなしはしてくれないらしい。嘆息して晴は補修の時間割とにらめっこをする。


「雨乞いのほうは? つつがなく迎えられそうかい?」

「多分」

「どれ、ついでに見ていってやろう」


 今日は本当に近くに来たから寄っただけらしい。着物の裾を裁いて立ち上がると、蛇ノ井は屋敷に隣接した神社へ慣れた足取りで歩いていく。翅は眠たそうに目をこすっているので、晴だけが外に出た。


 神社を覆う濃緑の木々が揺れる。斜陽が西から射し込んでいた。きのう、近所の植木屋さんに手伝って立ててもらった四本の榊が舞殿のそばで影を伸ばしている。注連縄を張った四本の榊は神聖な場の証だ。塩で清めも済ませてある。あたりを確かめ、蛇ノ井は榊の前に立った。ふむ、とひとつうなずいたあと、宝物庫に安置した龍頭舞用の頭も手に取ってあらためる。


「祝詞は君があげるんだろう」


 特段注文はつかなかったので、きちんと用意ができていたということだろう。うなずいた晴に皮肉っぽい笑みを向けて「去年の現代語まるだしの読み方はやめなさいねえ。恰好がつかないから」と釘を刺す。


「……古語、むずかしいんだよ」


「祝詞は音楽。舞とともに、神への大事な饗応さ。と言っても、いちばんは気持ちのほうだけどね。女神は今のところ、現代語まるだしで自分の姿も感じ取れない晴くんが何故かお気に入りのようだから」


 肩をすくめ、蛇ノ井はこちらに手を差しだした。意図することを察して、晴は首にかけた古い丸鏡をたぐり寄せる。雲外鏡と呼ばれるそれは、代々当代の守役に継承されている。普段は表面に薄い霞がかかっていて、こちらのものは何も映すことができない。鏡が映せるのは、あちらのものだけ。晴は常野守を継ぐときに祖父から鏡を譲り受けた。


「神気が感じられるね。常野女神はまだきちんと君を守役と認めているようだ」

「そうほいほいクビにされてたまるかよ」

「山の女神は苛烈で一途だからねえ。とり殺されないように気を付けたまえ」


 くつくつと咽喉を鳴らして、蛇ノ井は鏡を返した。宵闇に沈み始めた森を見上げて、サングラス越しに目を細める。


「この時期は、いろんなものがまぎれこむから気を付けなさいねえ」

「……〈てふてふ沼〉みたいに?」

「君は身をもって知っているだろうけどね」


 木々を揺らす風が不穏な音を奏でる。神妙な面持ちでうなずいた晴の背を叩くと、蛇ノ井は参道を下って、外に駐車していた車に乗った。暗がりにぱっとヘッドライトが灯る。


「じゃーね、常野守。次こっちに来るときは阿闍梨餅を持ってくるから楽しみに」


 ウィンドウを下げて手を振った蛇ノ井を見送り、晴は突っかけたサンダルを返した。

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