四章 父と子(3)
朝靄のかゆらぐ拝殿に立つ。深く背を折って一礼をすると、晴は勢いよく柏手を打った。
旧暦の神無月を前にした十月三十一日。常野では、女神を出雲へ送り出すための神事を行う。これからひと月ほど、この国中の神々は出雲に集まる。神「無」月と呼ばれるゆえんである。これに代わって、各地では神無月の間だけ土地を守ってもらう留守神を招き入れる。留守神は四肢に欠損があるなどの理由で、神議りに赴けない神が務めるもので、常野では毎年かまど神を迎えていた。
「いってらっしゃい、常野女神。いらっしゃい、かまど神」
祝詞を読み上げたあと、拝殿の向こうでさざめく木々を仰いで、晴は目を細める。かまど神に対する饗応の酒を並べ、秋の花を活け直すと、丸めていたウィンドブレーカーを羽織って、拝殿を出た。照とちがって、晴は決められた儀式以外で浄衣を着ることはあまりない。照は慣れだと言うが、やっぱり掃除や炊事をするにはパーカーにパンツのほうが楽なのだ。
神無月が近づき、常野山も頂のほうから紅葉が始まりつつある。落葉樹をはじめとした雑木林から成る常野山は、冬になると木々の多くが葉を落とし、すっかり装いを変える。その少し前、狂ったように真紅や橙に染まる山が晴には草木の最後の命の輝きにも思えて、いつも不思議な感慨を抱くのだった。
「桜さんも、おめかしし始めたなあ」
境内を箒で掃き清めながら、鳥居のそばに生えた老木を見上げて、晴は顔を綻ばせる。
「ねー、黄色のお着物かわいいねえ」
一方的な語りかけに相槌が返るとは思わず、肩を跳ね上げる。家の中にいたはずの翅が一緒に老木を見上げていた。
「なんでおまえも出てきてんだよ」
「えー、翅もかまど神さんをお迎えしたいなあって思っただけー」
紺地に白い水玉のバルーンスカートを揺らして、翅は桜の根元にかがみこんだ。根の間にひそんだ何かを見つけた様子で、そうなんですよう、今年もかまど神さんが来るんですよう、とおはなしを始める。相変わらずの幼馴染の様子に、晴は息をついて箒をまた動かした。ひらり。ひらり。舞い散る落ち葉の向こうで、幼馴染の長い黒髪が揺れる。毛先に光が滑って、遊ぶように輝いた。
「はるちゃん?」
ひょいと顔をのぞきこまれ、晴は我に返る。
「……なに?」
「んー? ぼんやりしてるから、どうしたのかなって。さっき、テレビで出雲の神在月のようすが特集されていたよ。今年も稲佐の浜でお迎えするんだってねえ」
「ふうん」
「旦那さまー? ね。また痛いのとんでけのキス、してあげようか?」
冗談めかして翅が微笑む。ふわりと近づいた少女から、慌てて晴は身を引いた。
「ばっ、おまえ。そういうのは、もっと……」
「もっと? もっとどうすればいいの、はるちゃん?」
「……いいから、もう」
ころころと笑い声を立てる少女の肩を押して、屋敷のほうへ帰らせる。近づいたり遠のいたり。この幼馴染の気まぐれな距離感がいまひとつ晴にはつかめない。本気でやっているのか。冗談なのか。昔はこうではなかったはずなのに、中学生の終わりくらいから、ずっと晴と翅の距離感は狂っている。だから。
『すきだよ』
翅の心の在処すらも。
晴にはときどきわからなくなる。
「女って面倒くせー……」
考えることに疲れて息を吐くと、晴は箒の柄に乗せていた顎を外した。日が落ちる前に残りの境内の掃除も終わらせてしまう。落ち葉を詰めたゴミ袋の口を縛って、宝物庫の脇に置いておき、晴は箒をひっくり返した。
「かんりょう!」
きれいになった境内を見渡して、うんとひとつうなずき、箒を壁に立てかける。足を返そうとして、ふと思い直した。
「てふてふ沼……」
一度は置いたゴミ袋をどけて、晴は宝物庫の裏へ回る。日中でも光の射さないてふてふ沼はこの時間になると、晴ですら近づきがたい昏さを醸している。直径五メートルほどの沼のほとりには、「近づくな危険」の立て看板と、立ち入りを禁じるロープ。てふてふ沼には二週間ほど前、〈てふてふ〉の調査チームのメンバーが足を運んでいた。
磐があらかじめ宣言したとおり。〈てふてふ〉の追跡には、守役経験が十年以上のベテランたちが指名された。〈てふてふ〉はわかっているだけでもすでに三人の被害者を出している。新米の晴に話が回ってこないのは当たり前だから、落胆はしなかったけれど――。今は薄い痣が残るだけの頬に手を這わせ、晴は昏い水面を睨み据えた。
「おう、晴。ここにいたのか」
方々に伸びた雑草をかきわけて、照がこちらへ若干危うい足取りで下りてくる。去年脳梗塞になって以来、照は右脚が不自由だ。
「じいちゃん」
腕を差し出そうとすると、「このくらい訳ないわ」と反対に悪態をつかれてしまった。必要以上の助けを照は嫌がる。
「空が探してたぞ。ホットケーキ作りたいんだってよ」
「あいつ最近そればっかだよなあ」
友だちの家でおやつに出たホットケーキがたいそうお気に召したらしい。近頃常野家の台所には、ホットケーキミックスが常備されている。苦笑した晴の隣に、照が立った。
「鳥居御寮官から連絡が来た。来週もう一度、ここを調べたいんだと。いいよな?」
「うん」
晴の横顔を一瞥して、照はおかしがるように目元を緩めた。
「不満たらたらの顔だなあ」
「……そりゃあ」
照の前では少しだけ、晴も素直になれる。視線を足元に落として、晴は呟いた。
「俺も〈てふてふ〉追っかけたい。そのために常野守になったのに、ぜんぜん遠回りしている気がする」
未熟なのはわかっている。加えてあちらのものを見ることもできない晴じゃ、力の足しにならないかもしれないのも。だけど。でも。もっと俺にできること、ないのか。
「一歩ずつだ、晴」
ふいに照の手が伸びて、晴の頭をくしゃっとつかんだ。
「一歩ずつ。焦ったっていいことねえぞ。じいちゃんも最初、右脚がぜんぜん動かなかったけど、おまえらが一歩ずつ手伝ってくれたじゃねえか」
「……うん」
「それによ。じいちゃん知ってるぞ。おまえがうんうん唸りながら、過去の守役の記録を読み漁ってるの。大丈夫。こつこつ蓄えた知識は、いつかちゃんとおまえの力になるさ」
うん、と小さな声で晴はうなずく。こっそりやっているつもりだったことがじいちゃんにお見通しだったのが恥ずかしい。
京都で西宮守に会って、自分に守役の知識が足りていないことに気付いた。翅の目も耳も、さまざまな情報を拾い上げていたのに、有効に使えなかったのは俺だ。もっと早くに狐憑きの真相にたどりつけていれば、平田等を〈てふてふ〉に喰われることもなかったかもしれない。
「じいちゃん、あのさ」
だけどもう、同じことは繰り返さない。
晴は隣に立つ照を見上げた。
「もっと俺に守役のこと教えて。いろんなこと。じいちゃんが知ってること、ぜんぶ」
「ぜんぶとは剛毅だな」
くくく、と言葉のわりに愉快そうに笑って、照は目を細めた。
「いくらでも教えてやるさ。孫の頼みなら」




