三章 あやかし探し(5)
蒼白い街灯が街に灯っている。烏丸御池に着く頃には、日はどっぷりと暮れていた。
「夜ちゃんだいじょうぶかなあ……」
隣を歩く翅が心配そうに呟いた。隆志さんは苦手だったようだけど、最初に名前を尋ねてくれた夜に翅は少し心をゆるしていたようだ。
「翅。おまえが嗅いだにおいってどんなだったんだ?」
「んー……わかんない。やぁなにおいだよ。きもちわるい……獣くさくて……」
翅の言葉は今ひとつ具体性に欠けていて、要領を得ない。神隠し事件の犯人は、狐憑きの人間では。隆志さんとたどりついた推論は、可能性が高い気がする。けれど、それだけでは夜をさらった人間にたどりつくことはできない。現況を報告しようと、病院を出てすぐに蛇ノ井に電話をかけたが、あいにく繋がらずに留守番電話に接続されてしまった。せめてじいちゃんのほうに連絡を取ってみよう。考えつつ、晴は西宮神社の裏戸をくぐる。当たり前だが、家の電気はついていなかった。夜がどこで神隠しに遭ったのか、ばあちゃんは言っていなかったけれど、敷地内に警官やパトカーの気配はない。
「はるちゃん」
前に夜に教えてもらった鍵の在処――植木鉢の下をひっくり返していると、翅が左手を叩いた。
「ね、ね、神牛さんのほうに行って。生まれてるみたい」
「生まれた?」
「〈くだん〉さんが生まれたんだよ!」
翅に半ば引っ張られて、神牛のいる厩にたどりつく。いつもはのんびり干し草を食んでいる神牛のそばに、黒く濡れた塊が見えた。
〈くだん〉さんは子牛の姿をして生まれる――。夜の言葉が蘇り、心臓が激しく打ち鳴った。外の街灯が微かに射し込む厩舎で、子牛がもったり頭を上げた。晴は小さく息をのむ。子牛の頭があるべき場所におさまっていたのは、能面めいた人の顔だったためだ。
「〈くだん〉は凶兆を知らせるために現れる……。夜の身に危険が迫ったから現れたのか……?」
「はるちゃん、しっ。〈くだん〉さんが予言をするよ。一度きりの、除災の方法」
濡れた黒目が晴を捉える。何かの螺子が外れたみたいに、引き結ばれていた口がかぱっと開いた。
「か、も、が、わ、で、ま、ち、ば、し」
「えっ、ええっ、何?」
「か、も、が、わ、で、ま、ち、ば、し」
除災の方法ということは、呪文か何かだろうか。〈くだん〉の口元に耳を寄せた晴に、「か、も、が、わ、で、ま、ち、ば、し」と再度〈くだん〉が同じ言葉を繰り返す。三度。それを最後に口が閉じた。
「〈くだん〉さん……?」
「おしまい」
倒れた子牛の身体を翅が無表情で見つめた。
「予言を終えた〈くだん〉さんは絶命する。今のが予言だったんだよ」
「今のって、けど意味が……」
ひとまず忘れないうちにメモをしようとポケットから取り出したスマホに「かもがわでまちばし」と打ち込んでいく。下に出た予測変換を何気なく見て、晴はあっと声に出した。
鴨川出町橋。
「場所だ」
「はるちゃん?」
「〈くだん〉さんがしたのは、場所の予言だ。除災……、ならたぶんそこに行けば、夜をすくえる!」
鴨川はともかく出町橋の名前を晴は知らなかったが、検索をかけるとすぐに出てきた。鴨川にかかる橋のひとつで、烏丸御池からなら最寄り駅まで二十分程度で着く。〈くだん〉の亡骸に手を合わせ、晴は立ち上がった。
「はるちゃん? どこに行くの」
「鴨川出町橋。まだ間に合うかもしれない。というか、間に合わせる」
「だめだよ、ひとりじゃ危ないよ!」
「ひとが来るまで待ってろっていうのかよ」
言い返した晴に、翅が泣きそうな顔をする。そのとき、ポケットに突っ込んでいたスマホが震えた。裏戸から外に出ながら、晴はスマホの通話ボタンを押す。
『やあやあ、晴くん。ごきげん――』
「蛇ノ井か!?」
のんびりした男の言を遮って誰何する。こちらの状況を察したらしい。『そうだけど、どうしたんだい?』と幾分落ち着いた声が返された。烏丸御池駅の地下階段をくだり、スマホを反対の肩で押さえながら、改札口にスイカをかざす。ホームに電車が来ていた。
「夜が……西宮守の息子さんが神隠しにあった。説明は省くけど、犯人は狐憑きの人間の可能性が高い。で、〈くだん〉さんが予言したから、とにかく俺、鴨川出町橋に向かうから! 誰か呼んで!」
『ちょっと晴くん、意味がわからな』
ぷつん。通話を切って、晴は発車ベルが鳴り響く電車に飛び乗った。全速力で走ったせいで、息が上がっている。空いた手すりにもたれると、晴はさっきの話を説明を足してまとめ、ラインで蛇ノ井に送った。すぐにメッセージが返ってくる。
『警察と近隣の守役に連絡を入れました。到着を待つこと。勝手な行動は慎みなさい、常野守』
わかった、と短いメッセージを返して、晴はスマホをポケットに入れる。不安そうな顔をする翅に、「ひとを呼んだって」と少しだけ安心させるように言ってやった。
三条で乗り換えて出町柳駅へ。移動中に確認しておいた地図を頼りに、出町橋をめざす。結構大きな橋のようで、上の道路には車が絶間なく行き交っていたが、橋桁の下に人影はなかった。着いたのは、晴がいちばん早かったようだ。車道の脇に伸びた歩道を歩いて、橋の周りを見渡す。
「はるちゃん、蛇ノ井さんがケーサツ、呼んだんでしょ? もうやめよう? 戻ろうよ……」
「うん」
「はるちゃんってば」
対岸の橋桁でちらりと動く影を見つけて、晴は身を乗り出した。暗闇に目を凝らす。小さな影――夜だ。その手をつかむ白い手が一瞬ヘッドライトの明かりで浮かび上がり、ふたつの影が暗がりに引っ込む。
「はるちゃん?」
「おまえはここにいろ」
スニーカーをきゅっと鳴らして走る。橋の対岸にたどりつくと、晴は河原へ滑り降りた。車の走る音で聞き取りづらかったが、橋桁のへ近づくと、「やめろよ!」ともがく夜の声が聞こえる。
「っの餓鬼……!」
「夜!」
抗う夜に向かって翻った手に、晴は脱いだスニーカーを投げつけた。うわっとひるむような声が上がる。その隙に男の手から逃れた夜が晴のもとへ飛び込んできた。
「晴! 晴!」
「もう大丈夫」
夜を引き寄せつつ、橋桁の下で顔を押さえて呻く男を見据える。うずくまる男の姿は、異形、と呼んでよいものだった。押さえた五指からのぞく顔は歪んで、犬歯がむき出しになっている。
「〈かくしぎつね〉だよ」
ヘッドライトの明かりを背にした翅が冷ややかに言った。
「狐さんに罰当たりなことをすると、〈かくしぎつね〉が憑く。〈かくしぎつね〉さんは子どもを隠すあやかしだから、同じ悪さをするようになるの。でも、だいじょうぶ」
灰色の眸がふっと細まった。玻璃のように脆く、冷たい微笑み方を翅はした。
「もうすっかり〈かくしぎつね〉さんがだから、ひとには戻れない」
頭を抱えていた男が、ひっと怯えた声を上げる。翅の言葉が男を恐慌に陥れたのはまちがいなかった。
「ちがう、おれ、は、……」
かぶりを振った男が、川のほとりへ足を踏み入れる。
「おれ、おれ、おれ、」
水面に映った自分の姿を見て、男が悲鳴を上げた。ひとというよりは獣じみた唸り声。怯えた夜がぎゅっと晴の腰に腕を回す。
てふてふてふてふ
虫の翅と翅がこすれるような乾いた音がしたのはそのときだ。
てふてふてふてふ
てふてふてふてふ
てふ、てふ……
「……あ、」
それまで人形のように無表情だった翅の目に淡い恐怖が宿る。
てふてふてふてふてふ
てふてふてふてふてふ
「あ、あ……」
――おまえの、こわいもの、なあんだ。
「翅?」
あとずさる翅の手を引き寄せようと左手を伸ばす。直後、河原から絶叫が上がった。激しい水飛沫が舞う。晴の目には、狐憑きの男の身体が突然裂けた闇にのみこまれたかのように見えた。いない。いなくなっている。そこにいたはずのものが。
「はるちゃ、はるちゃん、はるちゃん、」
翅が晴の左手を握り締める。
なにが……、と晴は知らず呻いた。
「なにが、そこにいるんだ」
「〈てふてふ〉」
「え、」
ぞっと背筋に悪寒が這う。何かが近づく気配を感じて、とっさに晴はいつも首からかけている雲外鏡をつかんだ。翅の肩をつかみ寄せて、鏡を前にかざす。
てふ、てふ
鏡いっぱいに映った触角に、心臓の裏を撫でられた心地がした。すぐ、前。目の前にいる。虚無を抱いた硝子質の複眼が晴をのぞきこんだ。
おまえの、こわいもの、なあんだ。
鏡面が真っ黒に染まる。
「―――っ」
のみこまれる、と思った。
なにに? だれが? 俺が?
わからない。わからないまま、晴は翅と夜を抱き締めた。ひたひたと迫る〈まっくろいもの〉が降りかからないように。
俺がこわいのは。
俺の絶望は。
……常野翅をまたうしなうこと。
*
「はるちゃ、はるちゃん! はるちゃん!!」
力なく横たわる少年にすがりついて、少女が泣いている。蛇ノ井から連絡を受けた西宮隆志がタクシーで出町橋にたどりついたとき、すべては終わったあとだった。先に到着したらしいパトカーと救急車が橋のたもとに止まっている。
「おやじ!」
隆志に気付いた夜が駆けてくる。怪我ひとつない姿に胸を撫で下ろしつつ、「晴くんは……」と担架に乗せられている少年をうかがった。目立った外傷は見当たらないものの、その目は固く閉ざされていて、救急隊員の呼びかけにも反応していないようだ。
「やだあ……! はるちゃんを連れていかないで! おねがい! つれていかないで!!!」
悲痛な声を上げてすがりつく少女を誰もが顧みない。どころか、彼女にぶつかっても、担架の端が彼女の細い身体を貫いても、誰も気付かずにいるのだった。
それもそのはず。
常野翅には、実体がない。恐慌状態に陥った少女は何度も晴の肩や腕をさすっては、すり抜けるのを繰り返している。その身体は、隆志の目を通すと、うっすらと半透明の光を帯びて、背後の木々を透けさせていた。
「やああああああ! どうして翅の声、だれも聞いてくれないのお……!」
翅は。常野翅は。そう、初めて会ったときから隆志も夜も「見える者」たちはわかっていた。常野翅はこちら側のものでは、すでになくなっていることに。
――新月の空に声なき声がこだまする。