序章 ゆびきり
ゆびきり、げんまん。
うそついたら、はりせんぼん、のーます。
*
「はるちゃん」
布団に横たわった翅は、晴が額に手を置くと、うっすら目を開けた。常野山のふもとにある屋敷は山から年中吹き降りる風のせいで涼しく、冷房のたぐいはついていない。翅の額には冷却シートが貼ってあったけれど、ずいぶんぬるまっていた。
「プールどうだった? 背泳ぎできた?」
「できた」
ビニール製のバックを畳に放って、晴はこたえる。本当はそのことを翅に言いたくてたまらなかったのだけど、なんとなく騒ぎ立てるのは嫌で、足指あたりへ目を落とす。すごいねえ、と翅は相好を崩し、晴の日に焼けた手のひらに頬を寄せた。
「はるちゃん、お日さまとプールのにおいがする」
目を細めてわらう翅の声に重なり、外の蝉しぐれがひときわ大きくなる。半分ほど開いた障子戸から、晴は緩やかな稜線を描く常野山を仰いだ。ぎらぎらと燃えたつ夏の緑は、今の晴にはどこか不穏に感じられる。ひっそりと静まり返った室内に漂う気配をより強く意識してしまうからかもしれない。
「はるちゃん」
翅の白い指先が晴の手を引いた。
「はるちゃん、はるちゃん」
甘い声が晴の名前を口の中で転がす。何、と尋ねても答えない。翅はことのほか、晴の名前を呼ぶことを好んだ。意味もなく、歌うように「はるちゃん」と呼ぶ。
「翅」
夏なのに日焼けを知らない手を取って、その指先にポケットから探り出したものを差し入れる。どこかまどろんだような顔をしていた翅がふわりと睫毛を揺らした。翅の細い指に嵌ったそれは、色糸でかがった指貫だった。この間、祖父と部屋を整理したときに見つけた、晴の母親の。鮮やかな緑と黄色でかがった色合いがこの幼馴染みたいだと思った。
「やる」
「すごい、指輪だあ……」
「指輪じゃなくて、指貫。お裁縫のときとかに使うんだよ」
晴は手ぶりで教えたが、手のひらを天井にかざした翅は、「でも指輪みたい」とうれしそうにしている。晴が何も考えずにはめた場所はちょうど左の薬指だった。小さな指にはまだ大きな指貫をぶらぶらとさせたあと、えへへ、と翅は満足したようにうなずいた。
「翅ね、翅ねえ、はるちゃんのお嫁さんになりたい」
「へっ」
突拍子もないことを翅が言うのには慣れているつもりだったけど、今回はさすがに驚いてむせこんでしまった。こちらの反応にはさして気を留めた様子もなく、指貫をいじりながら、翅は灰色がかった眸を細める。
「それで、はるちゃんのお仕事を手伝うの。常野女神さまはいいって言ってくれるかなあ」
常野女神、というのは常野山に住まう縁結びを主とする女神である。晴の家である常野神社はこの女神を古くから祀っていた。神社の家に生まれながらも、あちら側のものがまるで感じ取れない晴に対して、翅は幼い頃から神霊やあやかしといった〈まろうど〉たちを見て、声を聞くことができた。代わりに翅の身体は大きな爆弾を抱えることになってしまったのだけれど。
けほん、と弱い咳をした翅がもぞもぞと寝返りを打つ。晴は枕元に体温計や薬と一緒に置いてあった冷却シートを剥がして翅の額に貼ってあったものと取り替えた。へんな声が上がって、ひゃってした、と翅が額をさする。はずみに落ちかけた指貫をとどめるように、晴は翅の手を握った。
「……はるちゃん?」
「俺のお嫁さんになるんだろ」
「うん……」
「だから、約束するぞ。女神さんがわすれないように」
指を差し出すと、翅はみるみる表情を明るくして、何度もうなずいた。晴の小指に翅の小指がそっと絡まる。半開きになった障子戸から、燦々と夏の光がこぼれていた。目を細めた翅の灰色の眸に、すぅっと夏の光が射して、月のようにひかる。はかない。未知の気持ちがわいて、晴は翅の手を握り締めた。そうしないと、この幼馴染がどこか遠い場所にいなくなってしまいそうで。
「ゆーびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼん、のーます」
絡めた指越しに翅が微笑む。
ゆび、きった。