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「帰ってからうちに来て」


 カズちゃんが言ったのは、その日の下校中のこと。帰る方向は同じだけれど、いつも一緒に帰っている他のクラスの同級生と待ち合わせているから、カズちゃんとは別々に教室を出て、別々に下校する。先を歩いていたカズちゃんとは校門を出てすぐのところで会って、想子を見るとカズちゃんは準備していたかのように言ったのだ。

 想子はどういうことかよくわからなかった。

 通り過ぎる下級生が「わっ! ニンジンだ!」と騒ぎ立てても、耳に入らない。


「ソーコちゃんの家に迎えに行くね」


 答えあぐねている想子を先回りし、カズちゃんはが勝手に約束を決めてしまう。


「でも、お母さんにきかないと」


 そう言ったときはもうカズちゃんは、いつもの下校仲間の元へと駆け戻っていた。


(怒らないかな)


 想子はカズちゃんの後ろ姿を見つめ、自分に聞いてみた。


(私はどうしたいのかな) 


 聞いてみて馬鹿馬鹿しい。カズちゃんに誘われて嬉しいに決まっていた。



 心配は案外無用なものだった。たまたま母親の機嫌がよろしく、あっさり許可がおりた。母は他人には愛想が良い。カズちゃんが迎えに来たから尚更怒られることはなかった。


「妹をみてほしいの」 


 歩きながらカズちゃんが言う。


「3ヶ月前に産まれたばっかりなんだよ」


「赤ちゃん?」


「うん。妹。夏音っていうの」


 妹。赤ちゃん。その言葉に歩く足が遅くなる。急に不安が襲ってきた。カズちゃんはうつむき加減の想子の周りをくるりと回る。


「そりゃぁもう、かわいいんだから」


 気分が急下降する想子とは対象的にスキップしそうな勢いだ。


(かわいい?)


 赤ちゃんの妹がかわいいだなんて背筋がゾワゾワする。とても信じられない。ますます想子は黙り込む。

 


 カズちゃんの家は思ったより近くて、徒歩5分で着いた。同じ小学生がうじゃうじゃいそうな住宅街の、ど真ん中の白い家がカズちゃんの家だった。


「お邪魔します」


 家に上がると鼻に嗅いだことのない、柔らかくて甘い匂いがした。落ち着かないけれど、優しい香りだった。


「おかえり」


 廊下の先のリビングから明るい声が返ってくる。薄い水色のベビー服を着た赤ちゃんを慣れた手付きで抱っこするカズちゃんの母親の姿があった。 


「めずらしいね。和音が友だち連れてくるなんて。しかもニンジンじゃない」


 高いところで縛り上げた髪はところどころ解れているし、パジャマにもなりそうなほどラフで楽な格好をしているのに、背筋が伸びて、溌溂としていて、むしろ清潔感がある。


「すみません」


 反射的に想子は謝る。大変なところにお邪魔してすみません。


「ニンジンが来ちゃって」


「和音の友だちならニンジンでもゾンビでも構わないよ。大歓迎だよ」


 ゾンビはマズイんじゃないだろうか。想子が思いあぐねていると、


「でも、ちゃんと手は洗ってね」


 カズちゃんのお母さんは洗面所を指さした。


「はーい」


 元気よく答えたカズちゃんに手招きされ、想子も洗面所に急ぐ。


「冷凍庫のアイス食べていいからね。奏音はもう食べたから」


 奏音はカズちゃんの弟のことだ。


「あいつサッカー教室へ行く前に食べたんだ。それなら堂々と食べよう」


 手を洗ってカズちゃんと想子はダイニングテーブルでアイスを食べることになった。赤ちゃんは授乳タイムだからお母さんと別室へと消えてしまった。


「アイス食べよう!」


 カズちゃんが意気揚々と持ってきたアイスは、ひとつの容器に2つはいっているタイプだった。ペリペリと蓋をめくり、白いアイスが姿を現した。土曜日に食べたアイスとは違うのに、父の穏やかな声は鮮やかに蘇る。


 ーー二人なら良かったんだ


 声はやがて大きな手に変化して、心臓を強く握りしめる。想子は苦しくて両手を握りしめた。


「これさ、一人っ子なら一人で食べられるよね」


 あんまり苦しいから吐き出した言葉が、一人っ子への汚い八つ当たりだったせいで更に胸が痛くなる。


「今日はソーコと分けて食べるのに丁度いいよ」


 でも、カズちゃんは気にもしない。溶けちゃうからとさっさと食べ始め、想子にも早く早くと勧めた。


「三人だったらどうする?」


 冷たい甘みを口の中で感じながら想子はカズちゃんに訊ねた。


「2パック買ってもらう」 


「でも、ひとつ余るよね」


「お父さんかお母さんが食べるよ」


「でも、三人って面倒くさいよね」


「そう? まあ今日はソーコと食べるから問題ない」


「でも妹は?」


「妹はまだ食べられないよ。赤ちゃんだもん」


 そうじゃない。そんなことを聞きたいんじゃない。こんな事を言っても誰もわかりやしないと諦めても、嫌われるんじゃないかと躊躇っても、もう我慢できなかった。


「妹は邪魔でしょ?」


 一瞬、時間が止まったかと思った。カズちゃんがピタリと動かなくなったからだ。瞬きを幾度かしてから、ゆっくりと答えた。


「邪魔じゃないよ。かわいいよ」


「弟は?」


「弟は生意気。でも邪魔じゃないよ」


 ちょうどそのとき、リビングの扉が開いて、カズちゃんのお母さんと赤ちゃんが戻ってくる。


「アイスを食べた?」


と、カズちゃんのお母さんは笑顔を浮かべて二人に訊ねながら、赤ちゃんをリビングの一画に陣取られた赤ちゃんのスペースに敷かれたベビー布団に寝かせた。


「ちょっとお布団取り込んでくるから、夏音を見ててね」


「はーい」


 カズちゃんの返事を聞いて、再びリビングから出ていく。その途端、カズちゃんは寝ている赤ちゃんのもとへと飛んでいく。そして、手足を忙しなく動かすご機嫌な妹の、そのぷくぷくとした頬を優しく突いた。


「ほら。かわいい」


 想子を手招きする。


「来てよ。邪魔なんて思わないから」


「でもさ、妹ってかわいくないんじゃないの?」


 想子は仕方なくカズちゃんの隣に座り、赤ちゃんを眺めた。赤ちゃんは黒目がちな瞳でこちらを不思議そうに見ている。


「本当はいなければ良いと思ってるでしょ。怒らないから本当のことを言ってよ」


 赤ちゃんはキャアと声を上げた。そして自分の手をしゃぶり始めた。この仕草と声の前では想子の言葉なんて完全に空回りしてしまう。それなのにやめられない。


「妹なんていなければいいんだ」


 そんな事を言い続ける友人に対して怒っても良いはずなのに、カズちゃんは微笑んだまま妹を抱っこした。


「いなければいいとか、邪魔だとか、思わないよ。めちゃくちゃかわいいよ」


 座ったままのカズちゃんの腕の中で、赤ちゃんは大人しく指を咥えている。


「妹って存在していいの?」


「存在していいよ」


「何もできないのに?」


「いいよ」


「私も許可書がほしい」


「許可なんていらないよ。もう存在しているでしょ? 存在しているってことは嫌でも存在を許可されたってことでしょ?」


 視線を想子に映すと、カズちゃんはいつもと変わらない明るい表情だった。


「むしろ存在に拒否権なし」


 そういうと、想子に赤ちゃんを差し出す。


「抱っこしてみて」


 想子は言われるがまま赤ちゃんを受け取る。温かくて柔らかい。


「どう?」


 問われてすぐに答えは出た。


「かわいい」


「でしょ?」


 かわいい。

 腕の中で体温と重みが広がっていく。

 こんなにもかわいい物体が存在するのだろうか。

 知らぬ間に涙がこぼれた。

想子のぬくもりと赤ちゃんの温もりが溶けていく。何もかもを溶かしていく。


「かわいい」


 カズちゃんの妹はかわいい。悔しい。どうしてか悔しくて、柔らかな肌に爪を立ててやりたいくらいなのに、「かわいい」という感情は心のみならず、喉も胸も支配している。


「わたしもかわいいって言われてみたかった」


 想子だって、赤ちゃんのころはかわいかったのかもしれない。それに、この子だって、大きくなったらニンジンになるかもしれない。


「違う。だめ」


 この子はニンジンにはならない。


「私はかわいくなかったんだ。今も、昔も」


 だからニンジンなんだ。想子は背中を丸めると赤ちゃんを優しく抱きしめた。


「あなたはいいね」


 涙が次から次へと溢れ出ていく。どこに隠し持っていたのかわからないほどの涙。このままでは干からびてしまう。それでも一度堰を切った涙は止めることはできない。


「私もかわいいって言われたかった」


 もう一度言葉にする。体の奥底に閉じ込めていた言葉を二度も漏らしてしまった。


「ソーコちゃんはかわいいよ」


 カズちゃんは言う。いとも簡単にいう。

 想子は再び声を上げて泣いた。カズちゃんは赤ちゃんごと想子を抱きしめてくれた。


「わたしも寂しいときもあるよ。だから、くにおと散歩に行って、誰もいない草むらを歩いていたんだから。でも。でもね、夏音はかわいいの。だから大丈夫。大丈夫。わたしたち大丈夫だよ」


 カズちゃんも少し泣いていた。何事かと驚いたカズちゃんのお母さんが慌ててやってきて、よくわからないまま三人ごと抱きしめてくれた。温かかった。ただ温かかった。


(それだけで、よかったんだ) 


 やがて泣き出した赤ちゃんの声に「オムツ、オムツ」とカズちゃんが走り出す。

 でも、想子は泣き止まなかった。小さな体で全力で泣く赤ちゃんと一緒に泣き続けた。


「わたし、存在していい?」


 しゃくりあげながら問いかける。

 その手はもう、オレンジ色ではなかった。うなだれて黒い髪が耳元から膝へと落ちた。

 いいよ。

 赤ちゃんのぬくもりは答えていた。

 想子の胸に生まれた、この無防備で弱すぎる存在への愛おしさが全てを証明していた。


「もう、ニンジンにならなくても、いいかな」


「自分で決めていいよ」


 カズちゃんが言う。幸いなことに、いとも簡単にいう。


「私、ニンジンにはならない」


 想子は知らず知らず赤ちゃんに微笑みかけていた。これほど静かに、やわらかに、心から笑えるなんて。想子はずっと知らなかった。

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