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月曜日の朝。半熟の目玉焼きをじっくり噛み締め、キッチンで父の弁当を詰める母に想子は顔を向けた。
「目玉焼き美味しいよ」
母は「ああ、そう」と軽く返事をした。例え褒められたとしても、忙しい最中に話しかけられて思考を煩わせたたわけだから、母は少しも不機嫌を隠さない。
「本当に弁当って面倒くさい。自分で買わないかしら。いい大人なんだから」
母は父の弁当に対しても苛立ちを存分にぶつけている。その標的が自分でないことに想子は胸を撫で下ろした。
月曜日の朝になっても想子はニンジンのままだった。
それなのに、母の不機嫌は想子ではなく弁当にぶつけられ、実害が最小限に抑えられているのは、想子が学校へ行くと決断したからだろう。
母の予定を邪魔しなかったから。心をかき乱さなかったから。
母は自分の感情が最優先であり、その感情を乱すような不調和は絶対的な悪であり、正当に怒りを叩きつけることができる対象になる。
この母が、想子には当たり前の母だ。
「瑠子も璃子ももう少し手伝ってくれてもいいのに」
姉二人はとっくに家を出ていて、既にいない。
「二人とも女の子なんだから、家のことをできてもいいじゃないねぇ」
本人がいないときにのみ零すいつもの愚痴に、想子は曖昧な返事をしつつ、本当は学校へ行くのがとんでもなく憂鬱であることに気づかぬふりをしていた。
(ニンジンなのに、何で目玉焼きなんか食べているんだろう。クソみたい)
心の中で吐き出して、溜め込むばかりだから、自分の中身は汚れたまま放置だ。
やがて家を出る時間になった。
ものすごく体が重いのに、ランドセルを更に背負わねばならない皮肉が想子をどんなに追い詰めようと、ここに逃げ場はない。振り返っても母しかいない。それを知りながら水筒も手提げも体を地面へと減り込ませようとしている。
(土に埋もれたい)
ニンジンなんだから、土の中が正しい住処。葉っぱだけ出して顔と体を隠し、土の栄養と温もりの中で生きていたい。
「いってきます」
本当は開けたくない玄関扉に体重を預け、想子は何とか外へ出た。
家の中で渦巻いていた邪悪な匂いが、秋の抜けるような青空へ解き放たれ、白い光が睫毛をくすぐった。もしかしたら、清浄な日光を浴びて想子の頭上の葉っぱも光合成をしているかもしれない。清々しさに包まれた想子に、もう一筋の光が現れる。
「おはよう」
そこにいたのはカズちゃんだった。
「一緒に登校しよう」
カズちゃんの家は想子の家より学校に近いはずなのに、わざわざ迎えに来てくれたのだ。
想子はカズちゃんの隣に立ち、カズちゃんの平常運転の笑顔を見つめた。
(こんなことをさせてしまって、なんてだめな子なのだろう)
クラスメイトに気を使わせ、家に足を運ばせるという労力をかけさせてしまった。
「ごめんね」
想子が言うと、カズちゃんは想子の背後に回ってランドセルを押しながら走り出した。
「もう! ここはありがとうでしょ!」
押されるがまま二人で走る。カズちゃんは何で怒っているのだろう。怒っている相手には「ごめんね」を言いたい。もう一度言いたくなるけれど、カズちゃん曰く謝罪は間違っているらしい。
「あ、ありがとう!」
走りながら言葉にすると「どういたしまして!」とカズちゃんは走りながら叫んだ。そのうち、アスファルトに映る影が走るニンジンであることがおかしくなってきた。想子はクスクスと笑い出し、つられてカズちゃんも笑った。
「疲れたからそろそろ歩こうか」
「そうだね」
二人で並んで歩き出したとき、想子のランドセルは何だか軽くなっていた。
★
「あれ何?」
登校する生徒で賑わう校門で、その言葉はわざわざ想子に聞こえるように投げかけられた。
「ニンジンだ」
背中に冷たく浴びせられ、想子は震え上がる。隣のカズちゃんもキュッと唇を閉じている。
声の主は同じ学年の男子たちだ。
「俺、あいつ知ってる」
「3組の女子だろ?」
「なんでニンジンなの?」
「だっせぇ」
薄くて軽い笑い声が聞こえる。
「あいつら羨ましいんだよ。ソーコちゃんが特別に見えるから妬んでるんだ」
カズちゃんはニヤリと笑って目配せをした。
「自分が凡人なのが許せないから騒ぐの。人類皆凡人なのにね」
人類皆凡人。想子は首を傾げた。
「でもさ、すごい美人もいるし、すごい歌が上手い人もいるし、すごい足が速い人も頭がすごくいい人もいるよ」
しかもニンジン人間である想子は悪い意味で凡人とは思えなかった。凡人というか変人。変人という悪役、もしくは異物ではないだろうか。頭の中で自分自身を貶め、責めずにはいられない。
「いやいや。結局は凡人だよ」
カズちゃんは間髪入れずに言い放ち、にんまり笑った。
「だってさ、所詮全員人間の女から産まれたんでしょ? しかも長生きしても100年ちょい。ほらね人類皆凡人だよ。あいつらなんてただの同い年じゃない」
腑に落ちるような落ちないような、その時の想子には理解できなかったけれど、カズちゃんの明るい声に少し胸がスッとした。
「そうだね。ありがとう」
さっきより自然にありがとうが出てきて、想子は心に溜まっていた靄が空に消えていくのを感じていた。
「ところでさ」
突然、カズちゃんは真剣な面持ちで想子をみつめる。
「朝から元気なかったけど何かあった? 私に話してみてよ」
不意をつかれた想子は思わず立ち止まり、脱力してランドセルの右肩がちょっとずり落ちてしまった。予想していなかった言葉だったから。だって、いうまでもないではないか。
「私、ニンジンになっちゃったんだよ?」
「あっ!」
想子の答えにカズちゃんは声を上げると、
「しまった」
と、言っておでこをパンッと叩いた。
「そりゃそうだ。見たまんまだ!」
ニンジンになってしまうなんていう予測不可能な自体を越える悩みなんてあるとは思えない。
二人は笑いながら下駄箱で靴を履き替えていると当然他のクラスメイトもやってくる。想子がニンジンになったことを驚きつつ、「おはよう」と挨拶をしていく。「二人が一緒にいるのめずらしいね」「仲良かったっけ?」と話しかけられ、「前から仲いいよ」「親友、親友」とカズちゃんが返す。
滞りなく1日が始まった。