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日曜日、鏡に映る想子はニンジン人間になっていた。肌は鮮やかなオレンジ色。頭から細い茎がすらりと伸び、レース編みのような繊細な葉っぱがふわふわと揺れている。
朝起きてトイレで用を足している時、確かに随分と太ももがオレンジだなぁと思った。ペーパーをちぎり取る指も腕もそうだったかもしれない。それにしてもニンジンになっているなんて。
(お母さんに叱られる)
洗面所に佇む想子の脳裏には、ヒステリックな母親の顔が真っ先に思い浮かんだ。胸のあたりが地獄の色合いに染まっていく。
(どうしよう)
とりあえず手を洗う。オレンジの手はすべすべとしてハリがある。それでも人間の皮膚の感触ではなかった。先週大嫌いな運動会がようやく終わって、今日は晴れ晴れとした気持ちで休めると思ったのに。一難去ってまた一難どころの騒ぎではない。
しかし、幸いなことに今日は日曜日だ。
小学校はお休みだからまだ寝ていてもおかしくない時間だ。今すぐ二階の自室に戻り、現状を把握し、作戦を立てねばならない。
想子はそっと洗面所を出る。耳聡い母を起こさないようコソコソと自分の部屋へと戻ろうとした。
しかし、そうはいかない。母を見くびってはいけないのだ。
「想子っ」
想子のただならぬ気配を察して母が両親の寝室から出てきた。恐怖に体を強張らせる想子に、母は構うことなくジロジロと軽蔑の視線を巡らせた。
「その姿は何! どうしてそんなニンジンみたいな姿をしているの!」
早速母に怒鳴りつけられ、想子はオドオドするしかなかった。万事休す。緑の葉っぱを小さく揺らし、首を振るしかない。 母の質問に答えるのは難解だ。ニンジン「みたい」ではなく、想子は今ニンジンそのものだから。
「肌がオレンジじゃない!」
見たままを叫ぶ母の醜く歪んだ顔は、わかり易すぎるほどに嫌悪と苛立ちに満ちている。
「髪がニンジンの葉っぱなんて、ふざけているの?」
ふざけて見えているなら申し訳ないけれど、ふざけてニンジンに変身できたら、それは結構な特技だ。と、想子は思う。
「ねえ、お母さんを馬鹿にしているの?」
母を馬鹿にするためにニンジンになるはずはない。その思考回路が理解不能だ。できれば助けてほしいはずなのに、想子は母に責められる以外ない。
「今日買い物に行きたかったのに」
母はそう言い散らし、わざとらしく大きなため息をついた。
さて、小学生の娘がニンジン人間になってしまったら、この母親はどうするのだろう。想子は黙って母の答えを待つ。しばらくの沈黙の後、母はもう一度ため息をついた。
「お父さんが起きたら相談しましょう」
そういうとくるりと背を向けて、足音に不機嫌をたっぷりと含ませて2階へと去っていった。
(お父さんに丸投げか)
これはいつものことだ。
母がいなくなったのを見計らい、想子も自分の部屋へと急いだ。一刻も早く身を隠したかった。できることなら窓から飛び降りてでも外に出たいと思う。でも、また怒られてしまう。
ーーこの家にいてはいけない。
全身の細胞が囁いている。
両手両足の爪の先から、心臓の奥深くからも聞こえてくる。巡る血液も、筋肉も、内臓の蠢きも、骨の髄までも、求める。
ーー家を出るんだ
それなのに、想子にこの囁きは聞こえない。