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虚空の底の子どもたち

終末の獣は数多の星を喰らう

作者: 日浦海里

 青空を遮るように広がる木々の枝葉が上空を吹き抜ける風に煽られてざわめくように揺れていた。

 真昼にも関わらず薄暗い森の中を、赤黒い模様で所々彩られたなめし皮の鎧を着た一団が歩いていた。

 赤黒い模様は、鎧だけではない。

 顔、腕、足。模様の形は人それぞれだが、全身が赤黒く塗り固められているということだけは、皆が同じだった。


 彼らが歩く姿に力はなく、皆一様に肩を落とし、時には剣を杖代わりにして歩く者もいる。その中でただ一人、先頭を歩く男だけが、俯くことなく前を向いていた。


 甲高い口笛を吹くような音と、巨獣が唸るような低い音が混じりあう中で、木々の葉が擦れて鳴るざわめきとは異なる、何かを叩きつけるような音が微かに聞き取れた。


 人の足音でも獣の足音でもない、途切れることなく断続的な力強い音だった。


 男は言葉を発することなく音のする方に足を向け、一団もまた言葉なく男の後を続いた。


 その音はやがて彼らを囲む木々の音よりも、彼らを見下ろす風の音よりも力強い音に変わっていく。戦太鼓が打ち鳴らされたような、幾万の軍が駆け抜けた時のような、腹の底から響く音は、多量の水が滝壺に叩きつけられる音だった。


 滝壺の周りは空が開けて、射し込む光は滝壺から飛び散る無数の雫に反射して、真っ白に流れ落ちる姿は幾重もの虹色の衣を纏っていた。


 滝壺の周りに水の流れが緩やかな浅瀬を見つけると、男は振り向き軽く片手を挙げた。


「小休止。川で喉を潤せ。水に穢れを流すなよ」


 一団の中には、うめき声とも歓声ともとれる曖昧な声を出すものもいたが、大半は無言のまま、浅瀬まで足を踏み入れると、己の手や手持ちの器で水を掬い、口に含んだ。


 口に水を含むと、杖代わりの剣を地に倒しそのまま崩れ落ちた者もいる。

 気が尽きたのか、力尽きたのか。

 周りの者たちは倒れたものを複数人で抱え上げると、少し離れた木の根本に、寝かしつけるように横たえる。


 倒れないまでも、座り込んで空を見上げる者。

 膝をつき、俯いたままの者もいる。


 男はそれらを見渡し、一つ息を吐いた。


「今日はここで野営する。準備が出来る者は火を起こせ。

 水を煮沸させたら、傷口や穢れを洗い流してもいい。

 ただし、くれぐれも川には流すなよ」


 そうして現実を目にしたとき、再び立ち上がれる者が何人いるだろうか。


 無様に生きながらえたとしても、ここまでか。


 まばゆい光を反射する滝壺とは対照的に、それを眺める男の目は酷く濁っていた。





 命もそれを支えるものも、地下から湧き出る湯水のようなもの。


 男の国の指導者達はそのように宣い、領民を、他国の住民を、好きなように扱った。

 圧倒的な兵力で他国を蹂躙し、手に入れた領土と領民を使い、また他国を蹂躙する。

 繰り返される戦争は、領民にとっても他国を蹂躙することが悦楽、と思い込まされる者も多く、自らが虐げられる事への憂さは、より弱きものに向けられることで晴らされていた。

 制圧された領土も同じだ。

 一時は搾取されるが、自らも領民として「強き者」に屈してしまえば、今度は自らが搾取する側に回ることが出来る。

 その繰り返し。


 周囲は食い荒らされ、荒らされた領土は捨て置かれ、いつかは途切れる崖に向かってひた走るだけだということを、誰もが見て見ぬふりをしていた。


 このままでは国も、周りの国々も、ただ滅びの道を進むだけと、いくつかの国と共に反旗を翻した男は、しかし強大な国の力の前に敢え無く敗れ去った。

 力の伴わない理想では何も変えることが出来ないことを思い知った。


 現実を知り、多くの者が力の前に散るか、屈するか。それでも残った者がこの場に居る者たちだった。


 しかし残って何になるというのか。

 ただ緩やかに迫る死の影から逃げ続けているだけで、もはやその先には夢も理想も待っていないというのに。


 傷つき、疲れ果てた者たちは皆、沈むように眠りに落ちた。

 見渡す限りの闇の中で、小さく揺らめく焚火の光は、今の自分たちそのものだと、男は思った。

 くべられた木が燃え尽きるまでの光。失われれば、全ては闇の中。闇の先は絶望なのか、それとも死なのか。

 いっそ死である方が、心穏やかであるかもしれない、と男は思う。




 ざぁ、と枝葉が擦れた音がして、男は空を見上げる。

 滝壺の周りの僅かに開けた夜空には、無数の光が輝いていた。


 地上に光は灯らずとも、空には無数の光が灯っている。

 死の先には何もないというものもいれば、その命は空に還り、あの輝く星の中の一つとなって輝き続けると言う者もいる。


 自分に従い戦った者たちは、皆、あの星に成れただろうか


 男が夜空を眺めていると、視界の下、滝壺の中から強い光が感じられた。

 見ると、滝壺の下、川底の付近からまるで明け方の太陽のような輝きが浮かび上がり、それはやがて波打つように滝を駆け上がっていく。そして滝の白い飛沫から飛び出すと、そのまま空中に静止した。


 細く長い胴に鷲のようなかぎ爪を持つ足、たてがみに牡鹿のような角と狼のような牙を持ち、金に輝く瞳で男を見ているそれは、竜と呼ばれる生き物のように見えた。


 空想上の生き物であると思っていたそれを目の当たりにした男は、気付けばその場にひれ伏していた。


「御身の休まれる処と知らず、場を穢し申し訳ございません」


 神を信じるかと問われれば、信じていないと男は答えただろう。

 少なくとも、人の望むような神はいない、と男は思う。

 しかし、それと目の前の事実を受け入れるかどうかは別だった。


 これは寧ろ報いではないか。


 結果的に男は自らの望みを叶えるために多くの命を奪ってしまった。

 彼らに託された願いを叶えることもなく。


 男は罰せられることを望んでいたのかもしれない。

 このまま無様に生きながらえるよりも誰かに「終わり」を告げられ、果てられたならこれ以上苦悶することもなく、眠りにつけると、そう思っていたのかもしれない。


 しかし、男の望むようなことは何もなく竜はそのまま天へと昇ってしまった。


 薄れてゆく輝きに気づき、男が空を見上げた時には、夜空に小さく輝く竜の尾が僅かに見えるだけだった。


「……待ってくれ」


 それはどういう衝動だったのか。


 男は滝壺の脇の崖を一心に登り始める。

 地面で揺らめく火の光と、夜空に輝く星灯りだけが照らす中、男は聳え立つ崖を無心で登り続けた。


 遠ざかる竜の輝きに手を伸ばすように、夜空の星を掴み取るように、暗闇の中に手を伸ばしては岩肌を掴む。


 竜は「終わり」告げるために現れたのではないのか。

 なぜ置いていってしまうのか。

 恋い焦がれる相手を追うように、空へ空へと登り続けて、気付けば、男は崖の上に立っていた。


 突然開けた景色に、空ばかりを見上げていたことも忘れ、男は一時(いっとき)辺りを見渡す。


 崖の下では一面に広がっていた木々が失せ、代わりにいくつもの大岩が転がっていた。

 時には苔や草のような緑も見えるが、それ以上にただ岩ばかりが無造作に転がっている。


 竜の姿を求めて夜空を見上げると、最早そこに竜の姿は見当たらなかった。

 視界が開けた夜空には、無数の星が散りばめられ、心が惹かれるのか、魂が曳かれるのか、ふわりと身体が浮き上がるような浮遊感に襲われる。


 そのまま空を舞えればいいのにと男は願うが、それが単なる錯覚に過ぎないこともまた男は理解していた。


 無数の白と赤と青の輝きの中に、色を纏った絹の反物のような鮮やかで細長い雲が流れていた。


 男にはそれが竜の消えた先に流れ、続いているように見え、雲を追うように歩き始める。


 川縁に転がる石は、流される間にぶつかり合い角の取れた小さなものから、ぶつかり合う相手もないまま長くその場に留まっているような尖った大岩まで、様々な形があったが、その色合いは皆一様に白かった。


 あたり一面星灯りだけが頼りの場所で、天上も天下も夜の象徴である黒とは真逆の白ばかりに包まれている。

 大岩を回り込み、乗り越えられる高さの岩は乗り越えて。


 どこまで続くのか分からないこの非現実的な光景は、しかし竜などという空想上の生き物と比べれば、余程現実的か、などど、何かを考える余裕も出てきていた。



 どれほど歩いたのか。


 空の星はあまりにも多く、星の座を見つけることすら困難で、時の流れを感じることも難しい。

 薄らぎ始めた暗闇が、男がかなりの時間歩いていたことを示す唯一の指標だった。


 これまでほとんど変わり映えのしなかった岩ばかりが続く景色が、ある大岩を回り込むと急にその姿を変えていた。


 岩は変わらず続いているが、それは岩はというよりは石に近い大きさのものばかりで、開けた景色のその先には、小さな泉のようなものが広がっていた。

 その後ろにはこれまでの岩の白さとは異なる真っ白な壁面。

 目を凝らすと、表面は星灯りを受けてかすかに輝いているように見える。

 雪のようだった。


 これまで男が追い続けていた夜空に流れていた鮮やかな雲の川は、まるで煙のごとくその泉の麓から立ち上っていた。


 雲の川の源泉に目をやると、ぼんやりと円を描くような淡い光がそこにはあった。

 背後の雪と同化しそうなほどの白さは、むしろ逆で、その光の色に周りの雪が染められているのだと気付いた。


 いつの間にか竜ではなく「終わり」を追い求めるようになっていた男は、警戒することもなく光の源泉に近付いていく。


 光のもとにいたのは、一匹の牡鹿のような生き物だった。


 頭に生えた角も、その体躯も牡鹿を思わせるその姿ではあるが、馬のようなたてがみと足元を覆う体毛が、どこか男の知る牡鹿とは異なる姿である。


 だが、男が思ったのは牡鹿の姿に感じる違和感ではなかった。それは端的に言えば落胆だった。


 「終わり」を呼ぶ獣ではなかった


 それでも、人智の外にあるその姿に一縷の望みを託し、男は泉の脇の岩場に立つ鹿のような獣に近付いていく。


『止まりなさい』


 どこからか響いた声に、男は反射的に腰の剣を抜剣すると、ぐるりと周囲を見渡し、そこで我に返った。


 生き汚い。救えない。


 男は抜いた剣を地に置くと、再び獣の方を見た。

 この場に在るのは、獣と自分、それから声の主だけ。

 先程の声が、元より立ち止まったままの獣に対して告げられたものでないとするなら、それは自らに掛けられた言葉だろう、と男は両手を広げ、敵意のない意志を示しながら思う。


 獣が己を食い殺すつもりであったなら……。


 獣の放つ白い光に目を奪われて、最初から居たのに気付かなかったのか、それとも突然現れたのか。

 獣の立つ岩の足元には、一人の娘がいた。


 この国では珍しい金色の髪に白い肌、青の布地の一枚布を全身に纏わせた姿は、一見すると彼女自身もまた青い光を放っているようにも見える。


 それらは男にとって最早どうでもいいことではあったが、それでも目の前に立つ者が何者か、己の敵か味方かなどと、考えることを止めることのできない己の愚かさに自嘲する。


『あなたがそらを手にすることはありません』


 その声は木霊のように響いた。

 あたりに声を跳ね返すものなど何もない。

 しかし、右からの声が僅かに遅れて左から聞こえ、かと思えばすぐ後ろからも音がする。

 閉じられた銅鐸の中で誰かが声を上げたような、何度も何度も跳ね返っては、幾重も重なり合っていく声。

 それだけ声が反響すれば、音は意味として伝わらないだろうに、何故か確かな意味をもって男に語りかけていた。


『あなたは歩みを止められません』


「何を言っている」


 風が吹き、娘の髪と獣の長い尾が、星灯りを宿して揺れる。

 星を宿した金の毛並みはまるで星の川のようだった。

 視界の端を星が流れた。


 夜空に浮かんだ虹色の雲は、いつの間にか風に消え、代わりに夜空には星の雨が降っていた。

 虹色の雲が連れてきたのか、星は雲の足跡を追うように流れる。

 黒い泉の水面にも星の雨がいくつも映り込んでいた。


 娘はその場に屈み込むと、どこからか柄杓を取り出して、星の雨が映り込む泉の水をそっと掬う。

 水面に波がたち、星の光は波に乗るように、ゆらゆら、ゆらゆらと揺れていた。


『あなた自身が(そら)であるから』


 今度は水面を跳ねたような鈍い音が響いてきた。

 1つの音が波に揺れて、幾重にも分解されていくように。高い音、低い音、同じ言葉が無数の高さの音に分解され、星降る水面に溶けていく。


 これほど言葉は音を成さないのに、意味だけははっきり頭に残る。


 男は思わず額を抑えた。

 世界は決して揺れていない。

 自分も決して揺れていない。


 それでもどこか足元が揺れるように感じるのは、波打つ音に酔ったからだろうか。


 男が軽く頭を振ると、そこには娘の姿があった。

 遠くに姿が確認できる。

 その程度には距離があった。

 それを娘は僅かの時で詰め寄った。


 間近に見る娘の姿は、そのまま透き通って消えてしまいそうなほど真っ白で儚げに見えた。

 先程は風で揺れていた髪が、今はただまっすぐ流れ落ちている。

 良くできた幻のようでもあった。


 娘は男に柄杓を差し出すと、もう片方の手で男の手を取り柄杓を握らせる。

 男が、娘にされるがまま柄杓を握ると、娘は空いた手を夜空に向けてまっすぐ伸ばした。

 何かを探すように夜空を見渡すと流れ落ちてくる流れ星の光を摘むような仕草をする。

 そしてその指を柄杓の上で離すと、ぽちゃんと何かが柄杓の中に落ちた。


 男が柄杓を覗き込むと、そこには輝く光が、水面の波紋に合わせてゆらゆらと踊っていた。


「星なのか……?」


『これがあなた』


「これが?」


『人は皆、あなたが望んだように、希望を望み、あなたにすがろうとするでしょう』


「違う。俺が望んだのは」


『救い』


 「終わり」を望んでいた、という男の言葉は声にはならなかった。


 竜が自らに罰を与え、この命に終わりを与えてくれることを望んでいた。

 獣が自らの過ちを正すため、この命に終わりを与えてくれることを望んでいた。


 本当にそうか。


 誰かに救ってほしかったのではないか。

 自分を信じた者たちを。

 せめて自らの命を対価に。

 命の終わりを望んでいたのは、「終わり」ではなく「救い」だったのか。


『あなたが星として輝き続ければ、それだけ多くの人は救われるでしょう。

 あなた達が神と崇める、光と温もりを与える星の下で、より長く輝けるようにするのです。

 光の星の陰りとともに、命は地の底に沈むでしょう。

 人々を連れて光が長く続く道へ。

 陰りはその手を伸ばし続ける。

 いつかはその手があなたに触れることでしょう。

 その時が少しでも先であるほど、あなたはあなたの守るべきものを多く、長く守れるでしょう』


「何を言っている」


『あなたはその柄杓の水に浮かぶ揺らめく小さな星と同じ。虚ろう地の底に浮かぶ小さな星です。

 あなたが(そら)を手にすることはありません。

 いつか地平のその先に、伸ばしたあなたの手が沈むときまで』


 柄杓の中の星の輝きが増し、水の中で乱反射して柄杓の壁面に様々な模様を描いていく。

 光が壁を打つたびに、光が質量を持ったかのように柄杓は震え、太鼓を叩くような、身体を震わせる音が鳴った。

 光が強くなるほどに、音も強く太い音になり、水面は波打つように揺れ始める。

 そして光は柄杓から溢れ出し、辺りを覆い尽くしていった。





 光の中で戦太鼓が打ち鳴らされたような、幾万の軍が駆け抜けた時のような、腹の底から響く音が鳴っていた。


 光が収まると、男の頬には水しぶきが触れた。

 それは柄杓から漏れ出した水ではなく、眼前で降り注いでいる滝がもたらす水の膜が触れたものだった。


 あれだけ降り注いでいた星の雨はどこにも見当たらないどころか、空からは星の光そのものが姿を消していた。


 暗い沼の底のような色をしていた空には、娘が纏っていた一枚布を、沼の底に沈めて取り出したような、濃い紺の色に染まり始めている。


 柄杓を握りしめていたはずの男のその手に柄杓はなく、代わりにその手の中に小さな白い石が握られていた。

 指先で摘み空にかざすと、背後で揺らめく焚き火の光を受けて、星のように輝いて見える。


『あなたが(そら)を手にすることはありません』


 娘の声が脳裏に繰り返される。

 それは本当に聞いた言葉だったのか、ただ夢を見ていただけなのか。最早男には知る由もないが、その言葉は確かに男に刻まれていた。


「俺自身が(そら)であるから」


 背後で木の爆ぜる音がする。

 降り注いだ星たちが空に夜の終わりとともに、空の彼方へ還るように、焚き火からは赤く輝く小さな光たちが風に揺れながら空へと昇っていく。


「どうかしましたか」


 火の番をしていた男の部下が、男の独り言に気付き、そう尋ねた。


 男は振り向き滝を背にした。

 夢を見ていられる時は終わった。

 男の目の前には、傷付きながらも男の後を追い、疲れ果てて泥のように眠る男たちの姿がある。


「まだ、ついてこれるか」


 男は、火の番の男に声を掛けた。

 火の番の男は傍らにある剣を手に立ち上がり、鞘から剣を抜き去ると、男の眼前に突き出した。


「私の妻は故郷の村が蹂躙されたときに弄ばれた後殺された。生まれて間もない幼い息子も、だ。

 奪われたものは奪えばいい。悔しいのなら。

 泣き叫ぶ息子に剣を埋めながら、嘲笑うように言った男がいた。

 誰かのものを奪ったところで、失ったものは二度と還ることはない」


 木が爆ぜる。

 火の番の男の顔は、焚き火の光を背に、影の中に沈んでいた。

 光は火の番の男の顔を照らすことなく、代わりにその剣先を輝かせる。


「ここに居るものの多くは皆、そういう者たちだな」


「あなたは違う。あなたはその苦しみを知りはしない」


 焚き火のように、ただ淡々と揺らめいた声で、荒ぶることもなく火の番の男は目の前の男に応える。


「それでもまだ、ついてこれるか」


「投げ出すつもりなら終わらせてやろうかと思ってましたよ」


 この剣で。


 火の番の男は剣を男の鼻先に突きだす。

 男は応えずその剣先を見つめる。


 その剣先は男を切り裂くように縦に振られたかと思うと、剣の腹を露わにして、男に捧げられるように掲げられた。

 その剣を捧げるように掲げた火の番の男は、いつの間にか男の眼前で跪いている。


「どこまでもついていきます。この命ある限り」


 男は捧げられた剣を受け取る。


 重いな。


 そこに込められた想いを思えば。


 男は剣の腹に口付ける。


「彼が、力無き者、女神の教えに従い奉仕する者の守護者となるように」


 そして剣の腹を火の番の男の肩に当てる。


「我が忠実なる騎士として、力無き者、女神を信じ、勤労に励む人々の盾となり剣となるか」


「力無き者、女神を信じ、勤労に励む人々の盾となり剣となるべく、この身と命をあなたに捧げます」


 火の番の男は、片膝をつき、頭を垂れたまま応える。


『あなたが星として輝き続ければ、それだけ多くの人は救われるでしょう』


 火の番の男を見下ろした男の脳裏に、娘の言葉が蘇る。


 自分のこの手を伸ばしたところで、救うことができるのはその手が掴めるただ一人だけなのだろう。

 だが、自分が彼らの希望の星となれるのなら、彼等のその手がより多くの人を、自分の代わりに救ってくれるだろうか。

 自分は希望となれるだろうか。


 男は火の番の男の手に剣を返す。

 火の番の男はその剣の腹に唇を触れると、立ち上がり鞘に剣を収めた。


「南方諸国を纏め王を討つ」


 火の番の男は剣先を下に向けると、両手で剣の握りを持ち、胸の前に掲げた。

 騎士として、命に従うことを示す礼。


 それは騎士にとっての誓いであるかもしれないが、男にとっても誓いであった。


 空が少しずつ青く染まり始めていた。

国は蹂躙を繰り返し

西へ西へと広がり続けようとする。


帰る場所が失われたとも知らず。

追う狩人が追われる獲物に変わっているとも知らず。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  繊細で丁寧な描写で、  その情景が目の前に浮かんできました。  その文章で綴られる物語は、どっしりとした  重みがある物語ですね。    「男」と「火の番の男」の誓いの場面に、  彼らの…
[一言] 活動報告での解説を読み、多くのモチーフが用いられていることに感動しました。それでいて情景描写だけではなくストーリーにはきちんと骨子があって。 この先の展開も気になりますね。きっと男達は願いを…
[一言]  細やかに綴られる情景は、映像を観るようで。  本当に、流石ですねの一言です。  どこまでも淡々とした男の様子。  落ちる冷えた水から、立ち昇る火へ。  描かれぬ感情を、そこに観た思いです…
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