6. 嵐と記憶
里で暮らすようになって、2年が経った。
多少の雨は降るが、雨季の無い地域。
珍しく嵐がやって来るのか、空は薄暗くゴロゴロと腹に響く低い音が遠くで聞こえる。
木々の間から空を見上げたナディアは、顔を顰めた。
「嫌だわ。何だか変なお天気ね」
「ほんと、嵐が来そう」
今日はオババに頼まれて、ナディアとサシャは山の奥へ薬草採取にやってきていた。
アドルフは、やっと重い剣を振れる様になったから稽古をつけてもらうんだと、朝からウキウキと出かけて行ったそうだ。
だから、今日は2人だけ。
手元のカゴを見れば、結構な量の薬草でいっぱいになっている。2人で視線を合わせると、うん!と頷く。
「「雨が降る前に戻ろう!」」
急いでオババの家へ向かい、薬草を渡すと駄賃をもらってそれぞれの家に帰った。
「ただいま〜」と声をかけて中に入るが、ラウルはまだ帰っていない。
サシャは、走って戻ったおかげで雨に濡れずに済んだ。息を切らしつつ窓を開けて空を見れば、昼なのに夜がやって来たみたいに暗くなる。
「お父さんは……まぁ、大丈夫よね」
確か、訓練場の一部には屋根があった。
(うん。みんな、濡れたところで気にもしないかも)
ラウルとロランは、交互に里の男衆を鍛えている。主に剣の訓練だ。今日は、その大人達に混じってアドルフも初参加をしている。
ザーーっと、雨が降り出した。
ピカッと遠くの空が光ると、暫くしてから落雷の音が聞こえる。
まだ、この辺りは大丈夫そうだが……。何故かサシャの神経はザワザワし、鼓動が速くなっていく。
(なんか、嫌だ……)
気がつけば、サシャの手は震えている。その言いようのない不安が何か分からず戸惑った。
雷の音がどんどん近くなってくる。
サシャは、恐怖に呑まれないように自分で自分の体を抱きしめ、窓から離れたベッドの脇にしゃがみ込んだ。
(嫌だ、嫌だ、怖い……助けて、お父さん)
――ピカッ!
窓の外が明るく光る。
直後、ゴロゴロ……ドカンッ!!と庭の木に雷は落ちた。
サシャは、パニックになり這うように急いで玄関に向かう。
「っ! 大丈夫か!? サシャ!」
そこには、バタンっと勢いよく玄関の扉を開けたラウルが立っていた。
「お、お父さん……」
サシャが駆け寄ろうとした刹那、ラウルの背後で雷が光る。そのせいで、ラウルのシルエットだけが強くサシャの目に焼きついた。
一気に血の気が引いていく。
「…………殺さないでっ!!」
そうサシャは叫ぶと、意識を失った。
◇◇◇◇◇
それから、丸一日サシャは眠り続けた。
ハッと目が覚めると、そこは見慣れたサシャの部屋。酷い夢見で、全身が汗ばんでいる。
孤児院から拐われて、刺されたあの日。雷の光を背に、剣を持ち自分に向かって来た男を思い出した。
(……あぁ、そうだったんだ。私はなんて薄情な人間なのかしら)
全てを思い出したサシャは、手で顔を覆った。
僅か3年足らずだったが、私を助け一緒に暮らしたお父さんの存在。
(あんな大切な事を、何で忘れて……)
そう思った瞬間ーーガチャリとドアが開いた。
「サシャ! 目が覚めたのか!?」
手ぬぐいの掛かった桶を手にしたラウルは、起き上がったサシャを見て、珍しく大きな声を出した。
「あっ……お父さん」
ギュッと心臓を掴まれたかのように苦しくなる。
ラウルは側までやってくると、サシャの額に手を当ててホッと小さく息を吐く。
「熱も下がったようだな。ずっと……」と言いかけ、ラウルは言葉を止めた。
「え?」
「ああ、いや。……ずっと魘されていが、大丈夫か?」
「はい、もう大丈夫です」
ラウルは、サシャにもう一度触れようとするが、躊躇したのか手を引っ込める。
「そうか。これで身体を拭いて着替えるといい」
「ありがとうございます。汗だくで気持ち悪かったので」
サシャはラウルに胸の内を悟られないように、微笑んでみせる。
頷いたラウルはいつもと変わりなく、素っ気ない素振りで部屋を出ていった。
(……不自然じゃなかったかな、私?)
ラウルはとても青ざめていた。きっと、一睡もしていないのだろう。突然倒れたサシャに、倒れた妻の姿を重ねていたのかもしれない。
ラウルは、サシャが真実を聞いてしまったことを知らない。だから、ラウルが話してくれるまで、サシャからはそれに触れないと決めている。
自分が明るく振る舞う事で、少しでもラウルの心が軽くなったらと思っていた。
(私は、なんて身の程知らずなの。こんな私が、お父さんの助けになれば……なんて)
記憶を辿れば、もう人間の父は生きてはいないと分かる。そう、サシャを守る為にあの場に残ったのだ。
そんな人間の父の存在を忘れて、自分ひとり幸せな生活を手に入れようとしていた事が許せない。
痛々しいまでの悲しみを瞳に宿し、サシャに向かって牙を剥いた半狼の姿が記憶に蘇る。
サシャはあの時、ラウルに父の姿を重ねた事を思い出した。
ラウルは、獣人であるが今の父。
自分を家族として受け入れてくれた。とても大切だし、これからも一緒に居たいと思っている。
(だからこそ、自分にちゃんとケジメをつけなくちゃ)
サシャは、人間の父と暮らしたあの家へ向かうことを決めた。