2. 訪れた悲劇と別れ
(なんで……なんでなの……)
止まらない涙を拭うこともせず、サシャは必死で森を走っていた。もともと粗末だった服は、草や枝で擦れ更にボロボロになっていく。当然、服だけでなく皮膚にも細かい傷だらけだ。
自分を娘だと言ってくれた男の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
『サシャ、逃げるんだ。とにかく走って泉を目指せ!』
『だったら、お父さんも一緒にっ』
『いいや、お前だけだ。最後まで、サシャの父親でいさせてくれ……』
『で、でも』
『逃げろ、サシャ! 生き延びるんだっ』
今までで一番優しい笑顔なのに……掴まれた肩からは、強い何かを感じた。
だから、サシャはその言葉を受け入れるしかなかったのだ。窓から逃がされ、無我夢中で走った。
◇◇◇◇◇
――ある日の早朝。突然、若い男はやって来た。
数人の手下を連れて。仲間だった初老の男の裏切りを知り、ついに2人の居場所を突き止めたのだ。
家の周りに張り巡らせてあった、手作りの仕掛けが反応した。父はそっと起き上がると、サシャを起こし確認しに行く。
平穏に暮らしていたのに、何故そんな物を作ったのかサシャには疑問だったが……。いつの間か父の手にあった武器。普段とは違う機敏な動きを目の当たりにし、子供ながらに理解した。
(お父さんは、分かっていたんだ……)
奴らが自分達の生存に気付き、やって来る時がお別れの時なのだと。
放心状態のサシャは、鳥の囀りや泉が湧き出ている音の中、ボーっと空を見上げていた。
(……あれから、何日経ったのかな?)
父から教えてもらった森の泉に辿り着いたが、疲労と空腹で動けない。何度も転んで傷だらけの手足は感覚が無くなった。
草っ原に仰向けに倒れ、ただただ過去を思い出していた。
もう、顔も覚えていない母から貰った指輪。
『いつか、お父さんが迎えに来てくれるから、誰にも見せてはダメよ』
それを忠実に守ってきたのに、孤児院に迎えに来たのは見知らぬ男達だった。
(あ……でも、お父さんはできたんだ)
皮肉にも、サシャは自分を殺そうとした人間の仲間に懐いてしまった。
本物ではない父の顔を思うと、枯れてしまった筈の涙がじんわり浮かんでくる。
父が唯一してくれた自身の話。
昔、この泉に助けられた事があると言っていた。泉には意思があるのか、やって来る者を選ぶのだとか。
父は敵に追われて、たまたま迷い込んだそうだ。
自分以外は誰も居なくなり、数日間この場で過ごした。ふと気付けば、泉は消えて普通の森になり、いつの間にか助かっていたらしい。
傷の痛みと不安で泣いていたサシャを、寝かしつける為にした御伽噺のような不思議な話。
『きっと、サシャは気に入られるだろうな』
『だれに?』
『さぁて、誰だろな』
結局、誰かは教えてもらえなかったが。いつか自分も泉を見てみたいと思っていた。
(泉……来れたけど、これからどうしたらいいのかな)
もう、目を開けているのも辛い状態。
(このまま消えちゃいたい)
そんな事を考え、サシャはゆっくり目を閉じた。
◇◇◇◇◇
木漏れ日を反射させキラキラ光る泉には、たくさんの小さな妖精が楽しそうに飛んでいた。
『どうして人間がいるの?』
『誰がこの子を呼んだの?』
サシャを気に入ったのか、顔の周りを何度も行き来する。けれど、サシャは魔力が無いので全く気付かない。
発現してないのか、最初から無いのかはサシャ自身も知らないことだ。魔力持ちの少ない平民は、無くて当たり前だから……気にも留めなかった。
まあ、魔力があったとして、気ままな妖精が姿を見せてくれるとは限らない。
風が吹き、妖精たちはパッと一斉に顔を上げると一点を見た。
そして慌てたように、サシャの上をクルクル舞う。
『ほら、おきて、おきて』
『すぐにオオカミがきてしまうよ』
『にげなきゃ食べられちゃう』
森の小さな生き物たちは、必死でサシャに訴えている。
(……だれか、いるのかな)
うっすらと子供の声が聞こえた気がした。
サシャは重たい目蓋を開くと、首だけ動かして辺りを見た。だが、聞こえたはずの声の主は見つけられない。
(そら耳……?)
朦朧とする頭は考えることを放棄し、再び目を閉じた。
――ガサッ! ガサガサガサ……
「なっ! 馬鹿な……なぜ人間が!?」
草を掻き分けやってきた男は、ギリッと歯を鳴らし、憎らしげに瀕死のサシャを見下ろした。人間の臭いが鼻についたのか、怒りで瞳を赤くする。
(あぁ、追いつかれちゃったんだ私……)
漠然とそう思ったが、もう逃げる気力もない。殺されてもいいと諦めていたサシャは、薄目を開けて声の主を見た。
けれど。
視界は霞み、誰なのかボヤけてよく分からない。
褐色の髪を振り乱した男は、半狼の姿になる。
毛深くなった顔にピンっと大きな耳。裂けた口は、サシャの喉に向かって牙を剥いた。
(何でそんな顔するの? 初めて会った時と同じ……)
悲しみを湛えた瞳は、父との出会いと重なった。
(お父さんが、助けてくれたから……私は、大丈夫だよ)
牙が首に触れるか触れないかのところで、サシャはしっかりと目を開ける。
そして、力を振り絞り笑みを浮かべた。
「お……とうさん……泣かないで……」
そう呟くと、サシャはそのまま意識を失った。