泣くのは赤ちゃんの仕事(挿絵付き)
美紀は額から汗を流し、ベッドの上に横たわっている。朦朧とした意識の中で、ベッドの脇に立っている康介の顔を見た。
康介は美紀の手をじっと握ったまま、産まれたばかりの我が子の姿に見入っている。
康介が美紀の顔を見ながら声をかけた。「よく頑張ったね」
「うん」美紀は笑顔で小さくうなずいた。
「ほら、可愛い顔をしているわね」
助産師が抱きかかえた赤ちゃんの顔を美紀に見せた。
美紀は、赤黒い顔で元気よく泣いている我が子の顔を見ながら、「はい」と嬉しそうに答えた。
「案ずるより産むがやすしだったでしょう?」
美紀の母の尚子は、産院のベッドの上に腰かけている美紀に声をかけた。
「そうね。でも、必死だったからよく覚えていないわ」
「本当に可愛いわね」
尚子は、美紀のベッドの隣にあるベビーベッドの上で眠っている生後三日目の孫の姿を見ながら目を細めている。
「ミルクもよく飲んでいるから安心だけど、夜中にもミルクを欲しがって泣くこともあるから、少し大変」美紀は笑顔で尚子に言った。
「泣くのは赤ちゃんの仕事よ。昔から、泣く子は育つ――と言うでしょう?」
「うん、そうだよね」美紀は笑顔で答えた。
「赤ちゃんは泣いて自分の気持ちを伝えようとしているのだから、ママはそれを分かってあげないとね」
「頑張らなくっちゃ!」
「ふえーん、ふえーん」
リビングのベビーベッドの上で眠っていた赤ちゃんが、小さな声で泣き始めた。
対面キッチンで夕食の支度をしていた美紀は、支度を中断して駆け寄った。
「どうしたの?」
美紀は笑顔で声をかけながら、赤ちゃんを優しく抱き上げた。
「ふえーん」
美紀の腕の中でも赤ちゃんは泣き続けている。
「お腹すいたの?」
美紀は赤ちゃんを抱いたまま、片手でミルクを作り始める。
「お待たせー」
美紀は赤ちゃんの口元に、ちょうど良い温かさのミルクが入った哺乳瓶をそっと近づけた。
赤ちゃんはすぐに泣き止み、小さな顔を小刻みに左右に振りながら、哺乳瓶の飲み口を懸命に探し始める。そして勢いよく吸い付き、コクッコクッと小さな音を立てながらミルクを飲み始めた。
「おいしい?」
美紀は、自分の方をじっと見つめながら懸命にミルクを飲み続ける赤ちゃんに、にっこりとほほ笑んだ。
ちょっと前まで泣いていたことなんか嘘のように、赤ちゃんは美紀の胸に抱かれて安心した表情でミルクを飲み続けている。
美紀は、ミルクを飲み終えて満足そうな笑顔になった赤ちゃんをそっとベッドに戻し、再び夕食の支度を始めた。
「こんにちは。具合はどう?」
美紀は、入院中の母の見舞いにやって来て声をかけた。
尚子は体調が悪く、この一年ほど入退院を繰り返している。
「変わらないわよ」
病室のベッドに横たわっていた尚子はそう言うと、ベッドの上で起き上がった。
美紀は、抱いていた赤ちゃんを母に近づけて見せながら、「おばあちゃんよ」と赤ちゃんに話しかける。
「ちょっと見ない間にまた大きくなって……どんどん可愛くなるわね」
尚子は嬉しそうに目を細めながら、モミジの葉のように小さな孫の手をそっと握った。「ミルクはよく飲んでいるの?」
「うん、よく飲んでいるわ」
美紀はそう言いながら赤ちゃんを優しくゆすると、赤ちゃんはキャキャッと声を出して笑い出した。
「そう、じゃあこれからどんどん大きくなるわね」
尚子はそう言いながら、握っている孫の手を優しく揺らした。
「おばあちゃんですよー。分かるかなあー」
赤ちゃんは、嬉しそうに笑い続けている。
美紀は抱いていた赤ちゃんをそっと尚子に手渡すと、尚子は嬉しそうな笑顔で受け取り、優しく抱擁した。
少し痩せた腕で優しく赤ちゃんを抱いている母の姿を、美紀は笑顔で見つめている。
「ぅえーん」
暗い寝室の中で赤ちゃんが大きな声で泣き始めた。
「どうしたの?」
美紀は目を覚まし、隣で寝ている赤ちゃんに優しく声をかける。
赤ちゃんは、美紀の声を聞いても泣き続けている。
「オムツかな?」
美紀はオムツを手探りで触り、ずっしりと濡れていることを確かめた。
それから、ゆっくりと起き上がり、枕元の小さな明かりを点け、半分眠った状態のぼんやりとした意識の中で、手際よくオムツを替え始めた。
真夜中のオムツ交換は、夫と一日おきに交代でやる約束だ。しかし、眠りの深い康介を起こすのが面倒なので、最近は止むなく美紀が一手に引き受けている。
「気持ちよくなった?」
オムツ交換を終えて美紀が声をかけると、赤ちゃんは機嫌よさそうな表情になった。
「じゃあ、ねんねしようね」
美紀は赤ちゃんの顔を見ながら枕元の明かりを消した。
美紀は再び眠りにつき、すぐに深い寝息を立て始めた。
美紀の隣でしばらく嬉しそうに目を開けていた赤ちゃんも、やがて眠りについた。
「泣くのは赤ちゃんの仕事よ。昔から、泣く子は育つ――と言うでしょう?」
子育ての先輩である母から聞いた言葉を、美紀は忘れていない。
だが、赤ちゃんはとても仕事熱心で、昼夜を問わず仕事に励んでいる。
「頑張らなくちゃ」
美紀は、いつもそう自分に言い聞かせながら、赤ちゃんの泣き顔と向き合っている。
美紀は仕事熱心な赤ちゃんに懸命に付き合っているため、すっかり寝不足となり疲れが溜まっていた。
でも、赤ちゃんの笑っている顔や無邪気な寝顔を見ている時には、美紀は疲れなんてすっかり忘れて、幸せな気持ちに満たされている。
「うぎゃー、うぎゃー」
眠って間もなく、赤ちゃんが大声で泣き始めた。
美紀は目を覚まし、オムツを確認したが、濡れていない。
――ミルクもさっき飲んだばかりだし、どうしたのだろう……。
美紀は起き上がって赤ん坊を抱き、自分の頬を赤ちゃんの額につけてみた。
――あっ! 熱い!
美紀は、手のひらで赤ちゃんの額を触り、高熱が出ていることを確認した。
「康介さん! 起きて!」
康介は美紀の大きな声を聞いて飛び起きた。「どうしたの?」
「拓馬が高熱をだしている」
「じゃあ、夜間病院に連れて行こう」
二人は大慌てで出かける用意をし、康介が運転する車で夜間病院に駆け込んだ。
「大したことないですよ」
医者が、真剣な表情の美紀に優しく声をかけた。
「薬を出しますから、様子を見てください」
「ああ、良かった……」
美紀は、緊張していた体全体からスッと力が抜けるのを感じた。
美紀は毎日、「泣くのは赤ちゃんの仕事よ」という母の言葉を胸に奮闘していたが、闘病のため入退院を繰り返していた母が、ついに亡くなってしまった――。
母尚子の葬儀の日。
美紀は朝から赤ちゃんを抱き続けている。
「ぅえーん」
葬儀の静寂の中で、赤ちゃんが突然泣きだした。
美紀は赤ちゃんを抱いたままゆっくりと立ち上がり、静かに歩いて誰も使っていない隣室に入った。
「どうしたの?」
美紀は、自分の腕の中で泣きながらもがいている赤ちゃんに、優しく声をかけた。
「ぎゃーん、ぎゃーん」
赤ちゃんは真っ赤な顔で体をのけぞらしながら、泣き声をさらに大きくした。
――ミルクかしら? オムツかしら? ねんねかしら?
美紀は、赤ちゃんの表情と泣き声から、何を伝えようとしているのか懸命に探りながら、赤ちゃんの太もものあたりを指先で優しくトントンと軽く打ち続け、ゆっくりと揺らしている。
やがて赤ちゃんはうとうとし始め、目をつぶり、静かになった。
「ねんねだったのね」
美紀は、小さな寝息を立てている赤ちゃんの無邪気な顔に、そっと頬を寄せた。
「ありがとう、泣き止んでくれて」
赤ちゃんは楽しい夢でも見ているのか、眠りながら少しだけ笑っている。
美紀は、母の葬儀中であることを一瞬だけ忘れて、赤ちゃんの顔をじっと見つめた。
その日の夜。
美紀はなかなか寝付けずに、何度も寝返りを打っている。暗い部屋の中で、夫と赤ちゃんの深い寝息が聞こえてくる。
――ママ、ありがとう……。
母との思い出を懐かしむ気持ちと、二度と母に会えないのだという寂しい気持ちが、交互に湧き上がってきて、美紀の心は激しく乱れていた。
――ママ、ごめんね……。
母の命を奪った病への憎しみと、闘病生活を必ずしも十分には支えてあげられなかった無念さが、美紀の心の乱れに拍車をかけていた。
そうした複雑な気持ちや感情は、葬儀の最中は赤ちゃんの世話に気を取られ、心の奥底に押し込められていたが、今、堰を切ったように込み上げてきて、美紀は布団の中で一人でもがいていた。
――もう駄目!
美紀は心の中で叫んで、布団を撥ね退けて上体を起こした。
その時――。
「キャキャッ」
隣で眠っていたはずの赤ちゃんが、小さな笑い声を上げ始めた。
美紀は赤ちゃんをそっと抱き上げた。
そして、静かに歩いて寝室を出てリビングに入り、部屋の明かりをつけた。
赤ちゃんは美紀の顔を見て、声を大きくして「キャッキャッ」と笑っている。
美紀は赤ちゃんの顔をじっと見つめていたが、涙が一気に溢れ始めた。
赤ちゃんは、涙を流している美紀の顔をじっと見ながら、嬉しそうに笑い続けている。
「ありがとう……」
美紀は、声を詰まらせながら感謝の気持ちを表した。
これまで自分を支えてくれた母。今とこれからの自分を勇気づけてくれる赤ちゃん。その二人への感謝の気持ちが合わさったものだ。
美紀は、止まらなくなった涙をぬぐおうともせず、赤ちゃんの輝くような笑顔をじっと見つめている。
美紀のすぐ横にある棚の上には、一枚の写真が飾ってある。その写真の中の母尚子が、笑顔で二人を見つめている。
「泣くのは赤ちゃんの仕事よね……でも、ママだって泣いてもいいわよね……」
美紀は、写真の母に向かって小さな声で語りかけた。
「もちろん泣いたっていいわよ。悲しい時だけじゃなくて、嬉しい時にもね」
写真の中の母がそう言った――と感じた美紀は、赤ちゃんを胸に抱いたまま思い切り声を上げて泣き始めた。
人目をはばかることなく思い切り泣き続けている美紀の姿を、写真の中の母と、腕の中の赤ちゃんが、笑顔で見守っている。