ダリアの独白
「ダリアの花言葉」ダリア視点の話です。
この作品のみでもお楽しみいただける様心がけてはおりますが、前作をお読みいただいた方が理解しやすいかと思います。
先代カーシュ子爵は金で爵位を買った平民である——わたしの亡き祖父は、未だそんな風に言われている。
小さな商会の跡取りとして産まれた祖父は、類稀なる商才に恵まれていたらしい。まだ誰もが子どもだと認める様な年齢の頃に見習いを始めた祖父は、成人を迎える頃にはいくつかの重要な支店を任され、代替わりをする頃には大商会と呼ばれるまでに事業の規模を拡大させていた。
若くして成功した祖父には金があった。しかし、貴族以上に裕福であっても祖父は平民だった。
商会を更に大きくするためにも、貴族との繋がりが欲しかった祖父が目をつけたのは、後継のいない没落寸前の貴族家だった。
祖父はその貴族家の養子となり、爵位を継いだ。生活費との名目で莫大な金額を養父母に支払い、更には彼らが憧れていた風光明媚な観光地に家を買って与えた。
本来、爵位の売買は禁じられており、法の抜け穴をかいくぐった祖父の方法は相当な反感を買ったらしい。
しかしながら、まともに税すら納められぬほど衰退していた領地を斬新な方法で立て直してしまった祖父を罰する事など誰もできず、また正式な方法で養子縁組を行い、爵位を継承していたために周囲も認めざるを得なかったといえよう。
祖父が貴族を妻に迎えていればまた違っていたのかも知れないが、祖母もまた平民の生まれだった。平民出身ではあるものの、その辺りの貴族の夫人よりもずっと美しかった祖母。その上商会は更に繁盛し、立て直した領地は更に豊かさを増している。
そんな祖父が妬まれないはずはなかった。
そのやっかみが祖父本人に向けばまだ良かったのだろうが、そうとはいかないのが世の常だ。その矛先は祖父に比べたらはるかに弱者である二人の娘、つまり私の母へと向かった。
母は貴族の血が一滴たりとも流れていない偽物だと言われてかなり苦労したらしい。外見に恵まれていた事も災いし、同性からはいじめ紛いの嫌がらせを受け、異性からは貴族の血が流れていないから何をしても構わないと見做され、身の危険を感じた事も一度やニ度ではなかったそうだ。祖父が目立たぬ様に護衛を付けていた事で最悪の事態は起こらなかったが、母の人格を歪めるのには十分過ぎた。
そんな母は男爵子息だった父と結婚し、兄と私が産まれた。
勿論、祖父の決めた結婚である。幸い、祖父には人を見る目があったので、父と母の関係は良好だ。
父は金の為に売られた婿養子だと揶揄されても全く気に留めていない。
「愛する妻と可愛い子ども達を得ることが出来た代償と考えれば安いものさ。それに努力も何もしない者の言うことなど真に受ける必要はない」
父はそう言って誹謗や中傷を一切相手にせず、家族をとても大切にしている。
父の人柄ゆえか、男爵家とはいえ私には貴族の血が流れているせいなのか、私は母ほどの苦労はしていない。そりゃあ多少は悪く言われたりやっかまれたりはするが、私個人に対してと言うよりも、祖父由来の血筋に関する事。気にするだけ無駄である。
けれど、貴族の血が全く流れていない事がコンプレックスである母は違った。淑女としての優劣は血筋など関係ない事を証明せんと言わんばかりに、私の淑女教育に熱心だ。熱心どころかもう狂気じみていると言っても過言ではない。
私は母ほど酷いコンプレックスはないし、ある程度どうしようもないと気にしない様にしていたものの、嫌な思いというのはそれなりにしてきた。大人は取り繕うという事が出来るが、子どもは残酷だ。我が家に対して友好的な態度の家でも、家で大人達が我が家を悪く言っていたりするのだろう。
悪意のある言葉を浴びせられる事には慣れてしまった。
私が幼い頃に他界した祖父が貴族となった経緯は言わずもがなだし、コンプレックスがあるがゆえ必死なのだろうが、周りに悪く言われるだけの事を母がやっているのだから仕方がない。
今日のお茶会だって、コネだとかツテを使ってほとんど無理やり参加した様なものだ。だからそれなりの覚悟はしていた。
王族の指導をする程の有名なマナー講師が年頃の御令嬢を集めて行うお茶会で、会に参加できること自体がステータスなのだと何度も繰り返す母に、参加前から憂鬱だった。
お茶会に参加し、主催者である有名講師のお眼鏡に適った令嬢は特別なレッスンが受けられるらしいが、私にはきっと無理だろう。母もそこまでは期待していないと口では言っていたものの、どこか期待している様な雰囲気を醸し出していたのが余計に私を憂鬱にさせていた。
母が私に求めているのは、高位貴族の御令嬢との縁だ。母自身にに出来なかった事を私に求められても困る。
周囲に気づかれぬ様、小さくため息をついた。
ウェイティングスペースにいるだけでも肩身が狭いのに、お茶会が始まってしまったらどうなってしまうのだろう。
多くが知り合い同士で参加していて、ぽつんと一人ぼっちなのは私だけ。
声をかけられても、名乗ればそれで会話が終わってしまう。悪口を直接言われる事はないけれど、あからさまに避けられている感じもがする。
成金、金で爵位を買った家など、きっと離れたところでヒソヒソ言われているのだろう。そう思うと、言われ慣れていても気分は良くない。
手持ち無沙汰でぼんやりと過ごしていると、急に周囲の雰囲気が変わった気がした。どうやら最後の参加者が到着したらしい。
——なんだか釣り合わない二人だわ。
時間ギリギリにやってきた二人組を見て私はそう思った。
一人は猫のような大きなエメラルドの瞳に琥珀色の艶やかな髪。少し気が強そうにも見える整った顔。豪華だけれど品の良い落ち着いたピンクのアフタヌーンドレスはとても彼女に似合っていて、一目見ただけて高位貴族の御令嬢である事がわかる。
もう一人は、褐色の瞳に褐色の髪で地味な印象。元の顔立ちは整っているのだろうけれど、タレ目のせいか気弱そうで華やかさに欠ける。
化粧も最低限、ドレスも安物ではないのだろうけれど、ほとんど装飾のないそれは周りと比べたら貧相にしか見えない。
どう見ても友人同士には見えなかった。まるで、主と侍女だ。
「あら、初めましての方ね?」
隅にいた私に気付いたのは、見るからに高貴だとわかる御令嬢だった。
「私はローズ。ローズ・スチュアートよ」
「私はリリィ・グリーナウェイですわ」
高貴な御令嬢に続いて名乗った侍女の様な御令嬢に私は驚いた。伺った名前には聞き覚えがあったのだから……。
二人は今日のお茶会に参加するにあたり、母に顔を売ってきなさいと言われた侯爵令嬢と伯爵令嬢だったのだ。
まさか、伯爵令嬢が侍女のような装いをしているとは誰が思うだろう。
「ダリア・カーシュと申します。以後お見知りおきを……」
驚きを必死で隠し自己紹介をした私に、お二人は顔を見合わせて微笑む。
「リリィ、ダリア様も私達とおんなじね」
「そうね。私達と同じで花の名前だわ」
お二人の会話に何と返して良いやら分からず困っていたところ、執事がやってきて会場に案内すると告げた。私がほっとしたのは言うまでもあるまい。
お茶会は見事な薔薇の庭園で行われるようだった。
太陽が燦々と降り注ぐ昼下がり、室内から日当たりの良い庭園へと出た瞬間。
思わず私は息をのんだ。
リリィ様の褐色にしか見えなかった髪はオリーブグリーンに輝き、褐色だと思っていた瞳は深い翡翠色だったのだ。笑った顔は華やかさには欠けるものの、楚々とした美しさがある。
そして、貧相に見えたドレスにはキラキラと輝く糸で繊細な刺繍が全面に施されていた。裾には透かし模様も入っており、そのモチーフはユリの花だった。
「相変わらずステキなドレスね」
「ローズ、ありがとう」
あれはどう見ても、リリィ様の為のドレスだった。
祖父の商会では、沢山のドレスも扱っている。既製品が主だけれども、オートクチュールにだって対応している。流行はシーズンごとに必ずチェックしているし、他所の店の偵察だって欠かさない。
服飾関係にはちょっと詳しいと自負していたのに、あんな繊細な刺繍も美しい透かし模様も目にするのは初めてだ。
「リリィには驚いたでしょう? 」
嬉しそうに私に微笑みかけるローズ様は、とても美しかった。悪戯が成功した子どものように嬉しそうに笑う姿は、私の持っていた高位貴族のご令嬢のイメージを覆すだけのインパクトがあり、私は頷くことしかできない。
「今日のリリィのドレスも素敵だけれど、たまにはもっと華やかなドレスを着たらいいのに」
「ローズはいつもそう言うけれど、嫌よ。地味な顔だから華やかなドレスが似合わないし、それにヒラヒラしたものは動きにくくて好きじゃないわ」
自分よりも身分が上であるローズ様に対して、リリィ様の発言はいっそ不敬なようにも思えてしまったが、ローズ様は全く気にしていないようだった。
——二人は、対等な友人なんだ……
それは私にとって衝撃だった。利害関係のない友人なんて私にはいないし、母の教えにもそんなものは存在していない。フィクションの世界のものだと言われた方がしっくりする。
総勢で三十人近い参加者は、4つのテーブルに分かれてお茶を楽しむ。途中、順番に講師がテーブルを回って参加者の様子をチェックするのだ。
どうなる事かと思ったが、二人と同じテーブルで過ごす時間は楽しかった。
私が楽しめたのは、二人のおかげであることは間違いない。私や他の同席者ひとりひとりを気遣い、皆が話の輪に入れるように、声をかけてくれていたのだ。
てっきり厳しくマナーの指導をされると思っていたのに、そんなことは一切なく、ただただ穏やかで楽しい時間が過ぎるばかりだった。
「ローズ様、リリィ様、今日は本当にありがとうございました」
「そんなよそよそしいのは嫌だわ。リリィって呼んで下さる?」
「私もローズと呼んで欲しいわ。その代わり、あなたの事もダリアって呼ばせてね」
別れ際に交わしたそんな会話。
侯爵令嬢のローズと、伯爵令嬢のリリィ。二人は子爵令嬢である私、ダリアを対等に扱ってくれた。
「良かったら、また三人で会いましょう」
「……私まで良いのですか?」
「今日はとても楽しかったんですもの。またご一緒したいと思うのは普通でしょう?」
思わず泣いてしまうほど嬉しかった。
これまで、他の家の御令嬢と交流する機会はあったけれど、そんな風に言ってくれる方はいなかった。社交辞令かとも思ったが、1週間と経たないうちにローズからリリィと三人でお茶会をしましょうとのお誘いが届いた時には驚いた。
母もスチュアート侯爵家とグリーナウェイ伯爵家の御令嬢と親しくなった事を知り、大層喜んでいた。それはもう、私が引いてしまうほどに。
これまで知り合った人達は、心の中では貶しながらも表面上は私と親しくして我が家から恩恵を受けようと擦り寄るか、金で爵位を買った家だと蔑むかのどちらかだった。
それが自分よりも明らかに上の立場の相手だったならばまだ我慢できるが、大抵は我が家と同じ子爵家か格下の男爵家の御令嬢ばかり。
事業が絡む部分で、父や兄が格上の伯爵家以上の家と交流することはあれど、母や私に高位貴族との縁などない。
本物の貴族とはきっと彼女達のような人を指すのだろう。
その後も二人とはお茶会をしたり、一緒に出かけたりと親交を深めていった。
そういえば、私達が出会ったお茶会でマナー講師のお眼鏡に適った二人は、特別なレッスンを受けることとなったらしい。
特別なレッスンとは、王族やそれに準ずる人と接する時のより畏まったマナーのレッスンや、国外からの客人をもてなす時に必要とされるマナーのレッスンだった。
というのも、二人は王太子殿下の婚約者候補の筆頭だった。あのお茶会は殿下の婚約者候補として名の上がっていた御令嬢達を、三名にまで絞り込む為のものでもあったらしい。そんな中に、見た事のない子爵令嬢である私が紛れ込んでいれば他の参加者に嫌な顔をされるのは当たり前だったのだ。
殿下の婚約者候補となった彼女達の友人と名乗れる事が、冷静に考えると嬉しいような恐れ多いような複雑な気持ちだった。けれど、彼女達と過ごす時間はとても楽しかった。
結局、殿下の婚約者となったのはローズだった。
リリィは割と早い段階で辞退しつつも、ローズを支えるためにローズと共に全てではないものの妃教育を受けていた。それとほとんど同時期から、侍女と成るべく王宮へ出仕し始めた。
リリィはローズの側仕えの侍女になりたいのだという。
親しくなってわかった事だが、リリィは意外にも自分の意思がハッキリしている。そして、その動機が私には全然理解出来ず、そんな理由で? と思ってしまう事も少なくない。
「ローズの侍女になりたい理由? ローズが王家へ嫁いだら今までみたいにおしゃべり出来なくなっちゃうじゃない。嫌よ、そんなの。それにね、私語学に興味があって。ローズの侍女になれば外遊にだってついていけるでしょう?」
ローズの侍女になりたい理由を尋ねればそんな感じだし、殿下の婚約者候補を早々辞退した理由にはもっと驚いた。
「初めから辞退するつもりだったわ。相思相愛の二人の邪魔するなんて馬鹿らしいもの。そもそも私、殿下の様な方はタイプじゃないの」
それを殿下本人に伝えたというのだから驚きだ。
お互い好きなのに、素直になれない二人をくっつけて……その見返りにローズの侍女というポストを王太子殿下に約束させてきたらしい。
ローズは割と初対面の印象そのままだったけれど、リリィは仲良くすればするほど、初対面の時に抱いたイメージとは全くの別人だった。
気が弱そうな見た目に反して、思い切りが良いというか、豪胆というか。表向きは淑女然とした仮面をきっちりかぶって振る舞っているけれど、本来の性格はサッパリしているところなんかも好ましい。
二人と仲良くなってすぐの頃や16歳で迎えたデビュタントの直後は、他の御令嬢から嫌がらせを受けたが、「きちんとした振る舞いを身につけ堂々としていれば良いのよ」とのアドバイス通りに過ごしていたら、嫌な思いをする事はほとんどなくなっていた。
二人が対等に接してくれるのだから、私も彼女達ほどではなくとも頑張らねばならないと奮起した。
まずは身近な所からと思い我が家の事業で何か学べる事はないかと両親に相談したのだが、母は激怒した。
曰く、貴族令嬢が働くべきではないと。生活が困窮しているわけでもないのに、みっともないと。
本当は兄と一緒に父について商会の手伝いをしたかった。
ローズやダリアが言ってくれたのだ。私の祖父が領地を立て直したのには、きっと商会を経営していたノウハウがあるからだと。そして、その知識はカーシュ領だけではなく他の領地でも役に立つはずだと。
まだ婚約者のいない私だったが、将来夫となる方の役に立てるならば勉強して損はないと思ったのに、母には理解されなかった。
母はどうやら、私を格上の貴族家へ嫁がせたたいらしい。他の御令嬢よりも見目麗しく従順であればそれが叶うと思っているところが母らしいと思ったが、ローズやリリィを見ていればわかる。それだけでは足りないのだと。
母のこだわりは理解出来ないところが多い。
格上にこだわるくせに我が家よりも裕福な家に嫁がせるのは癪なのだと言う。
父の様に金で買われたとか、金にがめついと言われるのはプライドが許さないのだろう。
しかも、外見や肩書きなどの選り好みも激しい。
ある程度我が家が優位に立ちつつ、けれど我が家よりも格のある家で、それなりに見目がよく人が羨む様な相手という訳の分からない条件で私の婚約者を選んでいのだから決まるものも決まるわけがない。
自分で言うのも何だけれど、私の外見は男性受けするものらしい。そして、我が家には資産がある。
更には、ローズとリリィという格上の友人達と親しくしている事から、婚約の申し込みが多く舞い込んでいたらしい。それこそ、今まで私を馬鹿にしていた家からも申し込みが殺到しているとかで、そんな人達を見返してやりたいと思っている母は余計に理想が高くなっているようだ。
母に選ばせていたらあっという間に嫁ぎ遅れる。
自分で探した方が良いのか悩み始めていた時、浮き足だった母に呼ばれた。珍しく上機嫌の母に何事かと問えば、急に私の婚約者が決まったのだという。
お相手はリリィの兄、オリヴァー・グリーナウェイ卿だった。友人の兄とはいえ、わたしから見たら雲の上のお方。
ローズやリリィと親交を深める中で、私は彼女達の家族を紹介されていたので面識はあったものの、彼との婚約は本当に信じられなかった。
うっとりしてしまう様な美しい外見と、こちらを気遣いながら話題を選んで下さるオリヴァー様との会話はとても心躍るものだったけれど、私はリリィの友人だから会話をしていただけるだけで、本来ならば関わることのない相手なのだろうと思っていた。
初めは実感が湧かなかった。定期的に会う様になっても夢見心地だった。けれど、二人きりで会う回数を重ねるうち、オリヴァー様が私を「妹の友人」ではなく彼の「婚約者」として接してくださっているのだと気付いた。
気づいてしまったらもう、舞い上がってしまった。
リリィの兄、オリヴァー様はとても素敵な方だ。
全体的な外見は割とリリィと似ていると思う。限られた交流の中でなので正しく知っているわけではないと思うが、性格もなんとなくリリィと通するところがある気がする。気遣い上手なところもそうだ。
ただ、目元の印象が全く違うせいなのか、リリィとオリヴァー様はあまり似ていない兄妹だと言われている。
スッキリとした切長で少し吊り上がった目元のオリヴァー様はハッキリとした顔立ちに見えるのに対し、タレ目で柔らかい目元のリリィは少しぼんやりした顔立ちに見えるのだ。
王太子殿下の側近の一人で、今は主に外交を担っているオリヴァー様は、将来有望の優良物件と表現される様な殿方だ。建国当時から続く程の伝統ある伯爵家の嫡男で、精悍な顔立ちという事も相まってとても人気が高い。
そんなオリヴァー様は、仕事の忙しさを理由にずっと縁談を断り続けていたらしい。
どうしてそんな方が私との婚約に応じて下さったのか疑問だったが、父に尋ねれば驚く様な事を言い出した。
どうやら、リリィの縁談が突然まとまったことが原因らしい。リリィのお相手は侯爵家の次男で、結婚後はリリィの母方の伯父から爵位を継ぐ事になるそうだ。
そもそもが、リリィの元へ舞い込みそうになった外国への嫁入りを阻止する為の婚約だというのだから驚きだ。
リリィの父、グリーナウェイ伯はリリィを溺愛しており、結婚などまだ先の話だとタカを括っていたところに起こった一連の出来事に意気消沈していた。
そんな折、たまたま会って会話した私の父が、ほとんど冗談半分で「ならばリリィ嬢と仲の良い我が娘ダリアがグリーナウェイ家に嫁げばリリィが頻繁に実家に顔を出すのでは?」と提案したところ、想像以上に食いついてきたのだという。
そして後日、冗談半分の提案に対する正式な返事が我が家へと届けられ、当主同士の話し合いで正式に決定された。
オリヴァー様も快く了承したというのが信じられなかった。
そうして私の預かり知らぬところでまとまっていた婚約の話を誰よりも喜んでいたのが母だった。
歴史のある伯爵家の嫡男で王太子殿下の側近というのがやはり大きい。
しかしそれ以上に、母はどうやら金銭面では我が家が優位に立てると思っている様だった。
私と父はそんなはずはないと思っていたが、母はリリィが働いているのを理由に、貧しいほどではないが裕福ではないと判断しているらしい。巷で「毒にも薬にもならないグリーナウェイ」と揶揄されている事も影響しているのだろう。
貴族家の資産状況や力関係なんて変わる時にはあっという間に変わる。我が家がその代表例であると言うのに、昔から言われている事を真に受けるなんて我が母ながら愚かだ。
持参金の金額を指定されたわけでもなく、生活に必要なものも基本はグリーナウェイ家で用意すると言われている。
多少でも困っているのならば、何かしらの負担をこちらへ申し出るはずだ。それをしないというのは、ちっとも困っていないも同然だ。
そもそも、グリーナウェイ領は肥沃な土地だし、オリヴァー様は高給取りだ。おそらくリリィだってそうなのだろう。
リリィのドレスがいつも地味だと母は馬鹿にするが、あれは完全に彼女の趣味である。私とオリヴァー様の婚約式でリリィが着ていたドレスも、父の見立てではおそらく私のドレスよりもずっと高価だろうとの事。
生地の品質も、縫製技術も、デザインも全てが一流である事は間違いないと父は言う。
母には全く伝わらなかったのが残念だが、母は思い込みが激しいので私と父は理解してもらうのを諦めた。
私の婚約者が母の思い描く理想通りの方に決まった事で、母は気を良くしたらしい。
商会での仕事を手伝う事は流石に許されはしなかったけれど、服飾部門に赴いて口を出す事は許可してくれた。
モノは言いようだ。将来伯爵夫人となり、流行を発信するためには勉強は欠かせないと言えば、両手を上げて商会への出入りを後押ししてくれたのだから。
それから張り切った母によって、例のマナー講師から伯爵夫人として必要なマナーを学べる事となった。
コネなどを駆使してご無理を言ったのは想像に容易い。それを講師へ謝罪すれば苦笑されてしまった。母の振る舞いのせいで正直肩身は狭いが、そうしてまで得たせっかくの機会だ。
私は母と同じだと思われぬ様努力した。
その努力の結果は思わぬ形で身を結ぶ事となった。
それまで私を遠巻きにして避けていた御令嬢達が、私を慕ってくれる様になったのだ。
それまで、ローズとリリィしか友人と呼べる相手がいなかった私にとって、二人のいないお茶会はとても新鮮に感じられた。
ローズやリリィが忙しく、なかなか三人で集まることが出来ない。それに最近の二人の関係性にも私は疑問を感じていた。以前は対等に接していた二人なのに、公の場ではそうではなくなっていた。ローズの立場を考えたら仕方ない事なのかもしれないが、あまりにもよそよそし過ぎる。リリィがそうしている以上、私も公の場ではローズと会話出来ずにいる。
だから余計に、私を慕ってくれる様になった彼女達に請われるがまま、オリヴァー様の事を話していた様に思う。いわゆる惚気話というやつだ。
オリヴァー様につまらぬ女だと思われたくなくて努力をしている事。その努力をオリヴァー様が気付いて下さった事。
私なりにグリーナウェイ領のことを調べて学んでいた事を褒めて下さり、次の長期休暇には領地の案内をして下さると約束した事などなど。
「そんな素敵な婚約者がいらっしゃるダリア様が羨ましいわ」
「ダリア様は恋をしておられるのね」
「とてもお美しくなられたのは恋をしているせいだわ」
そうやって、私を褒めてくれるのが嬉しかった。
「グリーナウェイ卿は本当に素敵よね」
「私の侍女の幼馴染が王宮でメイドをしているのですが、グリーナウェイ卿が使われている執務室の担当を希望する人が多くて大変なんですって」
「あわよくばお近づきになりたい、皆がそう思っているのでしょうね」
彼女達の話を聞いていると、オリヴァー様が雲の上の存在だった時の事を思い出す。
けれど今は違う。彼は私の婚約者なのだ。
私はオリヴァー様に恋をしている。恋をすると世界が輝いて見えるなんて言うけれど、それは本当だと思う。
恋する相手は、皆が羨む相手。周囲に羨まれる優越感はとても心地良かった。
気が付けば、オリヴァー様と会える日を指折り数えるのが日課となっていた。
会いたくてたまらない。声が聞きたくてたまらない。彼に触れたい。
それがいっぺんに叶う日、それは彼のエスコートで夜会に参加する日だ。そんな日は、朝から忙しい。丹念に肌を磨き、マッサージを施してもらい、妖艶な化粧を施し、美しく着飾る。
皆が羨むオリヴァー様を独占したい。オリヴァー様に憧れる御令嬢に見せつけたい。誰にもオリヴァー様に触れさせたくない。
だから私は、夜会では私以外の女性と踊らないで欲しいとお願いした。オリヴァー様は、微笑んで了承して下さった。
三年あった婚約期間の三分の二が過ぎた頃、オリヴァー様は王太子殿下より重要な任務を命ぜられた。
詳しい内容は明かされていないけれど、私とオリヴァー様の婚礼の間際まで多忙な日々が続くとの事。ただ、その任務さえ果たせば新婚旅行にのんびり行けるだけの休暇を頂けるとの言質を取ったらしい。
それを励みにすればなんとか淋しさは紛らわせそうだ。
この時の私は、オリヴァー様が忙しいと言っても時間を作って私に会いにきてくれると思っていた。
けれど、オリヴァー様の口から告げられたのはこれから度々外国へ行く機会が増える、という無情な現実だった。
そして、オリヴァー様にエスコートされて一緒に参加した王宮での夜会でも、ファーストダンスを私と踊るとオリヴァー様は仕事を理由に退出する事が何度かあった。
優しく紳士的なオリヴァー様は、勿論私を放ったままにはしない。必ず、リリィの元まで私をエスコートしてから退出する。
夜会のお開きまでに仕事が片付けば、戻って送ってくださるし、それが出来ない時はグリーナウェイ家の馬車で私を送り届けるように手配を欠かさなかった。
不満がないと言えば嘘になる。けれど、きちんとした対応をして下さるオリヴァー様に対して不満を言うわけにはいかない。
その夜もファーストダンスを私と踊ると、オリヴァー様に翌日までに片付けねばならぬ仕事があるからと言われた。いつも通り、リリィの元までエスコートしてもらうと、丁度そこには一人のメイドがいた。
そのメイドは、オリヴァー様を見ると頬を染めた。そして、モジモジと上目遣いで何か言いたげにしている。
「オリヴァー様に何か用事でも?」
私がメイドに尋ねると彼女は私をチラリと横目で見て鼻をフンと鳴らしたが、私の質問に答えたのは彼女ではなくリリィだった。
「お兄様、殿下からのお呼び出しですわ。私もご一緒するようにと彼女が知らせてくれましたの」
「そうか、そうであればダリア嬢は……」
「お兄様、ダリアのエスコートはサミュエル様にお願いしてもよろしいでしょうか?」
「リリィとダリア嬢が良ければ私は構わないが……サミュエル、お願いできるかい?」
「あぁ、勿論だ」
サミュエル様にエスコートをお願いし、オリヴァー様とリリィを見送ると件のメイドは私を一瞥して立ち去った。
「彼女、なんでもオリヴァーの外遊に同行するらしいよ」
私は言葉を失った。オリヴァー様には色目を使い、私に失礼な態度を取る。そんな女が、オリヴァー様の近くにいる事が許せなかった。
「そんなの嫌だわ……」
思わず口を突いて出てしまった本音。私は慌てて両手で押さえるがもう遅い。サミュエル様にはバッチリ聞かれてしまった様で、彼は笑っていた。
「こんなに素直で可愛らしいダリア嬢を婚約者に持つオリヴァーが羨ましいな」
それは完全なるお世辞だと分かっていても、嬉しかった。
今まで、オリヴァー様の婚約者である私を羨む人はいても、その逆は聞いた事がなかったからだ。
「彼女の態度はメイドとしてちょっと問題だし、そんなに嫌だったら同行者を代えてもらえないかオリヴァーに頼んだらどう?」
「でも……」
そんな事を言って、オリヴァー様を困らせるのはもっと嫌だ。
「ならばリリィ嬢にお願いすれば良いんじゃないかな? 彼女もあのメイドの態度には思うところがあったみたいだし。そうじゃなければ、メイドを遮って話す様な事はしないよ。完璧な淑女はね」
どこかに棘を含んだ様なサミュエル様の物言いに少し引っ掛かりを覚えたものの、リリィからメイド長へ口添えをしてもらうのは名案だと思えた私はさして気にしていなかった。
今までの夜会でもサミュエル様とご一緒することは珍しくなかったけれど、リリィ不在で彼と二人きりになる事は初めてだ。
今までのサミュエル様はどちらかと言うと聞き役に徹していた様に思う。私とリリィの会話に、気を遣った彼が割り込まなかっただけなのだろう。
だから、こんなによく話す人なのかと驚いたが、嫌な感じはしなかった。
オリヴァー様との会話では決して話題にならないであろう、ファッションの流行や行列のできる菓子店やカフェの話。
彼が話題に選ぶのは、女友達と気兼ねなく話せる様なものだったけれども、女友達と話すのとはまた違う楽しさがあった。
ファッションにしてもスイーツにしても、男性視点の意見を聞ける事が新鮮だったのだ。
オリヴァー様はもっと知的な会話を好むと言うか、どうしても領地に関する話題が多くなる。今は特に仕事が忙しく、きっと流行などを追っている暇は無いのだろう。
「リリィ、さっきのメイドがオリヴァー様の外遊に同行されるって本当なの?」
私が呼び出しから戻ってきたリリィにそう尋ねると、リリィは微苦笑を浮かべながらそれを肯定した。
「そうみたいね。もしかして、ダリアは嫉妬しているの?」
「嫉妬というわけじゃあないけれど……あんな風に色目を使うメイドがオリヴァー様と一緒なんて嫌だわ。同行者の変更をしてもらう様、リリィから口添えしてもらえない?」
「流石にそれは無理だわ」
期待虚しく、一介の侍女でしかないリリィにはそんな権限はないのだとあっさり断られてしまった。
「リリィ嬢、困った顔をしてどうしたんだい?」
急に割って入った第三者の声。振り向くとそこにいたのは、オリヴァー様の同僚で彼と一緒に外遊へ行かれるジェフリー・ウェリントン様だった。ウェリントン様が大使でオリヴァー様が補佐官、つまりリリィはおろかオリヴァー様にかけあってもらうよりも効果的なのではなかろうか。これはチャンスだ。
「リリィが困っているのは私のせいなのです」
「……ダリア」
まるでそれ以上言うなと訴えるかの様な視線をリリィに向けられたが気付かぬふりをする。
「私が外遊へ同行するメイドについて相談したところ、リリィを困らせてしまったのです」
「……メイド?」
怪訝な顔をしたウェリントン様の顔を見て、私は畳み掛ける。
「えぇ、同行するというメイドがオリヴァー様に色目を使っておりましたの。ですから同行者の変更について口添えをリリィにお願い出来ないかと言って彼女を困らせてしまったのですわ」
「リリィ嬢、そうなのかい?」
小さなため息を漏らしてリリィが頷くと、彼はにっこり笑う。
「それならば私が口添えしよう」
「いえ、ウェリントン卿のお手を煩わせる訳には……」
「ウェリントン様、ありがとうございます!」
「リリィ嬢が気にする事ではないよ。私にだって関わる話だ。カーシュ子爵令嬢もそうは思わないか?」
「仰る通りですわ」
リリィったら余計なことを……と思ってしまった。せっかくのウェリントン様の申し出なのに。断られたら困るので、被せる様にお礼を言うとウェリントン様は理解を示してくれた。
後日伺ったところ、あのメイドは同行出来なくなっただけでなく配属まで変わったらしい。そして、オリヴァー様の外遊にはリリィがついていく事になったらしい。
リリィならば安心だ。あのメイドではない者が同行する事になったところで、色目を使わない保証はないのだから。
二人が不在の間、夜会のエスコートはサミュエル様が引き受けて下さる事になった。サミュエル様も令嬢達が憧れる男性の一人だ。私のエスコートをサミュエル様に頼む事で、リリィは彼女の不在時に婚約者へ粉をかけようとする令嬢達を近づけない様にしたいのではないだろうかと思う。
まずは、国境の西側に面する隣国へ3週間。
帰国しても、また2ヶ月後に今度は北側の国境を面する隣国へ向かう事になっている。西の隣国から持ち帰った事案の報告で忙しくしている。あちらの国から同行してきた西の隣国の大使との会合や食事会で彼の予定はいっぱいだ。その合間に北の隣国へ向かうための準備をしなければならない。
帰国中に夜会はあったけれど、彼の国の大使をもてなすためのもので、オリヴァー様もお仕事の一環で夜会に出席しなければならず、私のエスコートは出来ない。
リリィもそうだ。同じ会場にいるのに、ローズの側に侍女として控えている。
その姿を、サミュエル様は複雑そうな表情で見つめていた。
「サミュエル様はお寂しいですか?」
「ダリア嬢、急にどうしたの?」
「だって、サミュエル様が切なそうにリリィを見つめているんですもの……」
サミュエル様は乾いた笑いを浮かべ、「少し夜風に当たりたい」と言った。
「ダリア嬢は、オリヴァーが婚約者で惨めな気分にならない? リリィ嬢と比べられて卑屈になったりは?」
「リリィは優秀ですもの……」
「そう、俺より遥かに彼女は優秀だ……賢いが故に、殿下の婚約者候補を早々辞退し……ローズ嬢を支えると明言したんだ……侍女として同行なんて言っているけれど、実質彼女も外交官と変わらない様なものさ……殿下からの覚えめでたい才媛……薔薇の陰にひっそりと佇む美しい百合の花……そんな風に彼女は言われているんだよ……」
人気の少ないテラスでぽつりぽつりと話してくださったサミュエル様は、今にも押しつぶされそうに見える。
「周囲は俺とあの兄妹と比べるんだ。未来の妃殿下の最側近間違いなしのリリィと、殿下の側近に取り立てられたオリヴァー、候補だったにもかかわらずそうはなれなかった俺を」
私はサミュエル様にかける言葉を持ち合わせていなかった。私と彼とは立場が違いすぎる。変に言葉をかければきっと傷つけてしまう。だから、黙ってサミュエル様の隣で話を聞いていることしか出来ない。
「みっともないところを見せてしまったね。そろそろ戻ろうか」
会場に戻り、私たちよりも高い位置にいるリリィとオリヴァー様の姿は、それまでと違って見えた気がした。
その夜会の後、一度オリヴァー様にお会いする事ができた。休日でも、お忙しい様でグリーナウェイ邸で2時間ほどお茶をご一緒しただけだ。
西の隣国のお土産として、フォーマルというよりも、カジュアルなお茶会や普段使いで重宝しそうな髪飾りを頂いた。
ダリアを模したシルクフラワーに、ピンクサファイアの揺れる飾りのついた比較的小ぶりなものだった。私の為に選んでくださったと一目でわかるプレゼントだ。嬉しくないわけがない。
「気に入ってもらえると嬉しいのだが……」
「とても素敵なものをありがとうございます。早速付けてみてもよろしいですか?」
私がそう言えば、安堵した様にも見える笑顔を浮かべた。
「女性の装飾品を自分一人で選ぶのは初めてで……今まではなんだかんだで母やリリィが口出ししていたからな」
「リリィは一緒ではなかったのですか?」
「あぁ、リリィは向こうで俺たち以上に忙しかったから別行動だった。これはジェフリーを連れて買いに行ったんだ。流行の店のものらしい」
普段使いのアクセサリーをオリヴァー様に頂くのは初めてだった。彼自ら選んで下さったというのだから余計に嬉しい。
けれど、その喜びはあっという間に萎んでしまう。
エントランスの馬車までオリヴァー様に送っていただく途中、リリィに会った。
「その髪飾り、ダリアにとっても似合っているわ」
——私だけじゃなかったんだ……
そんな気分になったのは、リリィの髪に挿されていた髪飾りを見たからだ。
シルクフラワーで出来た八重咲きの百合に、揺れる小粒のパール。私のものよりもさらに小ぶりではあったけれど、間違いなく同じ店のものだろう。
「リリィもオリヴァー様に? 似合っているわ」
「えぇ、まぁ……ありがとう」
リリィの返事の歯切れ悪さに、さらに気分が下がってしまう。オリヴァー様もなんともいえぬ顔をしている。
別にオリヴァー様がリリィに髪飾りを贈ったって問題はない。私だって、父や兄からアクセサリーを贈られることはある。珍しくもない。
なのに、このモヤモヤした気持ちはどうして……
『リリィ嬢と比べられて卑屈になったりは?』
馬車に揺られる私は、どうしてあの夜会でのサミュエル様の言葉を思い出すのだろう。
オリヴァー様も、私とリリィを比べているのだろうか。
それからすぐ、オリヴァー様とリリィは北の隣国へと旅立った。北の隣国は西の隣国よりも遠い事もあり、2ヶ月近く不在となる。
不在の間、私はグリーナウェイ家に通い伯爵家の歴史や領地について学ばなければいけない。普段領地におられる伯爵夫人が、その為に王都まで来てくださったのだ。
オリヴァー様とリリィの母である伯爵夫人はおっとりとした優しげな方だ。今まではオリヴァー様やリリィが一緒の時にしかお会した事がなく、こうして一対一でお話しするのは初めてだった。
一年後には義理の母となっている方だ。物覚えが悪いとか、マナーがなっていないなど言われたらどうしよう……と構えていたものの、学ばなければいけない事は丁寧に分かりやすい説明だったのでスッと頭に入ってきたし、振る舞いについては今も講師のレッスンを受けている成果が出ていると褒めて頂いたのでホッとしていた。
伯爵夫人は優しい。伯爵家の使用人も皆よくしてくれている。勉強も順調に進んでいるはずだった。なのに、どうしてか私の心には不安が募ってゆく。
それは休憩中だとか、何気ない会話の中でしばしば訪れた。
幼い頃のオリヴァー様の話を伺っていた時もそうだし、素敵な中庭を褒めた時もそう。
必ず話題にはリリィが登場する。小さい時のリリィはどうだったかとか、リリィのお気に入りはあれだったとか、リリィ、リリィ、リリィ……。
私がリリィの友人だから、共通の話題として彼女の話になるのは不自然ではないけれど、私は彼女の話を聞きたくなどない。彼女の名前が出るたびに、私は彼女と比べられている気がするのだ。実際、リリィと比べて私がどうこうという事は言われていない。言われていなくとも、心には黒いシミが広がっていくようだった。
サミュエル様の言っていた事はきっとこういう事だったのだろう。サミュエル様なら、私の気持ちをきっと理解してくれる筈だ。彼に話したら、少しは楽になるだろうか……。
彼にエスコートしてもらう次の夜会が待ち遠しくなった。
「ちょっと息抜きをした方がいいよ。ダリア嬢は頑張りすぎだから」
私が思っていた通り、話を聞いてもらっただけでかなり楽になった。それどころか、優しい言葉までかけてくださる。
サミュエル様曰く、オリヴァー様は忙しいが故に夜会には最低限しか出席しておらず、その最低限の夜会はどれも堅苦しいものばかり。たまには肩肘張らずに参加できる気軽な会で楽しむ事も大切だと言う。
「丁度明後日、友人主催のパーティーに出席予定だけれど、一緒にどう?」
「でも……よろしいんでしょうか……」
「構わないよ。皆にダリア嬢を紹介したら喜ぶと思うし、今日だってそうだったじゃないか。それに夜会のエスコートである事には変わらない、だろ?」
私の参加する夜会と言えば、オリヴァー様が招待されたものばかり。同伴者としてご一緒していたものの、そうでなければ参加できない様な会ばかりだった。
私個人宛に招待状を頂くことがほとんどなかったため、機会がなかっただけで、出席する夜会を制限されている訳ではない。
サミュエル様の言う通り、サミュエル様のエスコートで夜会に出席する事自体には問題ないはずだ。お互いの婚約者の許可はある。
どこか後ろめたさを感じながらも、私には参加しないという選択肢は思いつかなかった。
そして、二日後に参加したサミュエル様の友人主催のパーティーはとても楽しいものだった。
「ダリア様とはずっとお話ししてみたかったのよ」
「グリーナウェイ伯爵令嬢には声をかけにくくって」
「ご挨拶しても紹介してくださらないんですもの、ね?」
サミュエル様のご友人という事で、男性が多いのかと思いきや、女性にもたくさん声をかけられ、サミュエル様はその度に私をご友人達に紹介して下さった。
私のドレスやアクセサリー、お化粧品などにも興味を持ってくださるので父が経営している商会の取り扱い店舗の宣伝を兼ねて話題にすると「ぜひ今度伺ってみますわ!」と仰ってくださる。
思えば、リリィやローズ、オリヴァー様はお知り合いに声をかけられても私を積極的には紹介してはくれなかった。どちらかと言うと、私を紹介したくない様な雰囲気さえあった。
その後も、何度かサミュエル様に誘われて参加した。
どことなく後ろめたさを感じていたが、頑張っている自分へのご褒美なのだと思えばそう気にならない。
その頑張りと適度の息抜きのお陰で、オリヴァー様が帰国する頃には伯爵夫人から学ぶべき事には区切りがついた。続きは婚姻後に教えていただく事になっている。
帰国したオリヴァー様は相変わらず忙しそうだったけれど、時間を作って頂いて婚礼の準備を一緒に進めている。
残念ながら、私が思い描いていたよりもずっと規模の小さなパーティーになりそうだ。というのも、ニヶ月後には再び旅立たねばならないからだ。しかも、帰国は婚礼の1週間前。それに、帰国してからもしばらく仕事が立て込みそうだという事で、王都の伯爵邸でガーデンパーティーを行う事になった。
ただ、オリヴァー様のお仕事関係のお客様でほとんど席が埋まってしまうので新しく出来た友人は呼べそうにない。
ドレスはもちろん、会場の装飾、テーブルクロスなどのファブリック、お料理、デザートなど一つ一つを時間をかけて二人で選んでいく。
全てを決め終えた日、サロンでオリヴァー様と伯爵夫人と共にお茶を頂いている時のことだった。
「そういえば、ダリアさん。オリヴァーの不在時にどう過ごすかはあなたの自由ですけれど、くれぐれもお付き合いする相手は選んで頂かないと困るわ」
なんの脈絡もなく突然切り出されたその話題に私はどう反応して良いのか分からなかった。
「ブレディ侯爵家はその辺り寛容というか無頓着でしょう? オリヴァーとリリィが不在の間、彼にあなたのエスコートをお願いしていたから、変な影響を受けていないと良いのだけれど」
一体どういう意味なのだろうか。
「つまり、あまり素行の良くない連中とは関わるな、という事だ」
オリヴァー様がわかりやすく説明してくれたが、伯爵夫人に監視されていたのではと気が気ではない。別にやましい事はないけれど、サミュエル様が連れていってくれる様な夜会で知り合った人達の事を指しているのではないだろうか。
「ところで、お式まではどうやって過ごすの?」
「領地で、家族とのんびり過ごそうかと思っておりますわ」
「それはきっとご家族も喜ぶでしょうね」
とっさにに出てきたのは、そんな言葉だった。カーシュ領は王都からも伯爵領からも離れている。予定にはないけれど、母に言えば直ぐに準備をしてくれるだろう。
サミュエル様と会えなくなるのは残念な気もするけれど、彼はリリィの婚約者だ。あまり親しくしすぎて変な噂を立てられても良くないし、深入りすべきではないだろう。
そして、オリヴァー様は東の国境を接する隣国へ旅立ち、私はカーシュ子爵領へと向かった。
今となってはわかる。
リリィやローズ、オリヴァー様がどうして私をあまり他の人に紹介しようとしなかったのかを。
新しく出来たと思った友人は、友人と呼べる様な関係ではなかった。伯爵夫人がお付き合いする相手を選べ、と仰ったこともそうだ。それに、新しく出来たと思っていた友人達と関わる様になってから、それ以前に仲良くなった御令嬢達から声をかけてもらえなくなっている事にも気付いた。
領地へ帰ると、商会の仕事の半分、主に富裕層や貴族相手の店舗を任されている兄に叱られた。わざわざ私の帰省を知り、文句を言いに来たらしい。
なんでも、私の友人だと言ってやって来て私からのプレゼントだからと支払いをせずに帰ってしまう人が複数人いたようだ。店舗での態度もあまり良くなく、他のお客様に迷惑をかけたりもしている様で、店の信用問題に関わるとこっ酷く叱られてしまった。名前を伺うと、皆、サミュエル様と息抜きで参加した時に出会った令嬢ばかりだった。
私は一言もプレゼントをするなんて言っていない。ただ、私の装いを褒められたので、我が家が経営している商会のオリジナルだと伝え「ぜひお越しくださいね」と一言添えただけだ。むしろ家のために宣伝をしているつもりでいた。それを兄に伝えても、相手を考えろだとか私が悪いと言われてしまう。他のお客様からの苦情により彼女達は出禁になったそうだ。
それだけでなく、私に対する苦情の手紙も届いていた。私のせいで職場での立場が悪くなった、どうしてくれるのだという内容だった。差出人は、私がオリヴァー様の外遊に同行する予定だったあのメイドの実家からだった。
あのメイドは子爵令嬢だった。それも、よりによって商会の得意先の子爵家の。
母は私の味方をしてくれたが、兄はおかんむりだ。父は外国へ商品の買い付けに行っているため、まだ知らないと言うが帰ってきたらどうなるのだろう……。
兄が帰省をしている間は、のんびり出来そうにない。兄が王都へ戻れば直ぐに父が帰ってくる。
どうしようかと悩んでいた時、サミュエル様から手紙が届いた。それは、彼に紹介された令嬢が私に迷惑をかけたのではないかと気遣い、自分のせいでこんな事になってすまないという手紙だった。
その上で、逆恨みした彼女達が何かを言ってくるかもしれないから気をつけて欲しいとまで優しい言葉をかけてくださる。
私はサミュエル様へ返事を書いた。サミュエル様のせいではない事、サミュエル様の気遣いが本当に嬉しかった事。そして、兄と一緒では全く気が休まらない事、父に会いたくない事もこぼしてしまった。
すると、サミュエル様はすぐお返事を下さった。
ブレディ侯爵家の所持する保養地の別荘でのんびり過ごさないか? というお誘いだった。
サミュエル様も疲れていらっしゃるそうだ。彼はリリィと結婚後、彼女の伯父の治める伯爵領の領主となる。その為に忙しい日々を送っていたが、しばらく休暇を貰えそうなので一人で行くつもりだったらしい。
その保養地は、オリヴァー様とリリィが滞在する東の隣国との国境近くにある。山のほとりにある湖の美しい避暑地で、今は丁度訪れるのに最適な季節だ。
その魅力的なお誘いに、私は迷う事なく返事を出した。
出かけるのは、兄が王都へ戻るために発った直後。サミュエル様とはカーシュ領の街道沿いの街で落ち合う事になっている。
母にどう説明しようかと悩んでいたが、東の国境近くの保養地へ行くと伝えたら勝手に色々と勘違いしてくれたのでにっこり笑って否定も肯定もしなかった。頭の中に花の咲いている母に対しての言い訳を考えるだけ無駄だったのだ。
「保養地で帰国途中のオリヴァー様と合流するんでしょう? 婚前旅行なんて素敵じゃない」
私に付き合って領地へ戻った母だったが、本音としては王都に早く戻りたかったのだろう。
「護身術の得意な侍女を連れていくよう」とだけ言うと、私よりも先に荷造りを始めてしまった。保養地で私がどこに滞在するかなどは特に気にしていないらしい。
戻ってからも「秘密の逢瀬だったから誰にも言わないでね」と言えばあっさり納得する程気にしていないなんて、流石にこの時の私は思わなかったけれど……。
***
「ダリア、俺のことは『サム』と呼んで欲しい……」
「サム……」
私達はどこか似ている。
親に過度な期待を寄せられ、自身ではその期待に応えることは出来なかったけれど、親に決められた婚約者は親の望むものを持っていて。すると親は婚約者に相応しくあれと過度なプレッシャーをかけてくる。婚約者と比較され、婚約者の優秀な兄妹とも比較され、劣等感に苛まされる日々。
同じ痛みを持つ私達は、お互い少しずつ吐き出すことで心の傷を癒やしていった。
確かに私はオリヴァー様に恋をしていたし、サミュエル様もリリィに好意を寄せていた。けれど、それ以上にプレッシャーの方が大きかった。
地味に見えるリリィの美しさに気付いていた人は存外多かったらしい。男だったならと嘆かれるほどにリリィは優秀だったらしい。私以上にサミュエル様は婚約者と比べられて苦しんでいた。私以上に、周囲から婚約を妬まれていた様だった。
そんな彼は自分と同じように苦しむ私を放っておけなかったのだという。初めは憐憫でだったけれど、同じ思いを持つもの同士だからか一緒に過ごす時間が心地よく、気付けば婚約者よりも気を許していたのだと。
その気持ちは私にも理解できる。まさに私がそうだったからだ。
開放感溢れる自然の中で、美しい空気を吸い、美しい景色を眺める。気を張らずにリラックスできる相手と過ごす日々はまさしく心の保養だった。
お互いがお互いを求めていた。一線を越えるのは時間の問題だった。
二人で過ごす時間は、とても満たされていた。けれど、この時間はほんのひとときの夢か幻である事も互いに承知していた。
「ダリア……愛している……」
「私も……サムを愛しているわ……」
幻だから、愛を囁いた。これは私とサミュエル様が二人で見ている夢なのだ。
王都へ戻れば現実が待っている。
それまでの、僅かだけれど幸せな夢。せめて夢から醒めるまではと、私達は幻の愛を何度も何度も確かめ合った。
***
「あなたさえ何も言わなければ、誰もが不幸にならないの」
私は侍女へそう言い聞かせた。侍女は青い顔をしていたが黙って頷いている。
身体の異変に気付いたのは、王都へ戻って十日程経っだ頃だった。なんとなくずっと気怠いような眠い気はしていた。けれど、それは旅の疲れとか疲労だとかそういった類の不調だと疑わなかった。
祖母は母しか子を授かることが出来なかった。母は、兄を授かるまで何年もかかっているし、私と兄の年齢も6つ離れている。私自身、月のものは来たり来なかったりとまちまちだった事もあり、母には結婚してから苦労するだろうと言われていた。
なぜ、どうして……そう思わずにはいられない。
けれど、まだ医者に診てもらった訳ではないし、経験のない素人の判断でしかない。
きっと大丈夫。ちょっとした体調不良だ。そう自分に言い聞かせる。
私達は現実に戻ってきた。夢の続きはもう見ないのだと約束した。私達はあの幸せな日々を墓場まで持っていくのだから……。
婚礼は明日。もう後戻りは出来ない。
結局、一睡もできないまま当日を迎えてしまった。
私の心情とは裏腹に、雲ひとつない青空が広がっている。
昨晩眠ることが出来なかったから、余計に体調が悪い。頭痛、胸焼け、吐き気を我慢しながら支度を整える。
礼拝堂での婚儀は、互いの両親と介添人だけ。数ヶ月前は不満に思っていたのに、当日を迎えてみればそうして良かったと心から思うなんて皮肉なものだ。
今日私に付き添っているのは、件の侍女だ。顔色の悪さを隠すように、いつも以上に念入りに白粉を叩き込んでもらう。
満足のゆく仕上がりに安堵していると礼拝堂の控えの部屋をノックする音が聞こえた。
入ってきたのは、揃いのドレスを着たリリィとローズだった。私はリリィの顔をまともに見ることが出来ない。
こうして久しぶりに三人で会うことを楽しみにしていたのはいつだっただろうか。花嫁の介添え人を二人に頼んだのは私自身なのに、今はそれを後悔していた。
ローズの気遣いは嬉しい。コルセットを緩めるように提案したり、大好きなチョコレートを差し入れしてくれたり、きっと以前の私だったら感激していただろう。けれど、ローズの真っ直ぐ私を見つめる瞳が怖かった。まるで、全てを見透かされている様な気分になる。
とは言え、横になることを提案されたのは有難かった。今になって眠くて仕方がなくなってきたのだ。
オリヴァー様からしばらく横になって眠る許可を取ったと笑顔で私へ微笑むリリィ。リリィの目の下には、くっきりと隈が出来ていた。
横になると、あっという間に眠ってしまったらしい。目が覚めた時には、もうお日様が真上まで昇っていた。
その後のことはあまり覚えていない。
馬車で伯爵邸に向かい、頬紅と口紅を少し濃いめに直してもらって、オリヴァー様にエスコートされ、笑顔を必死で振りまいていた。
ただ、ずっと苦しかった。サムと何度も目が合い、その瞳に熱が篭っているのに気付いてしまったから。愚かな私は、思わず彼へ近づいてしまった。自分の体調が、すこぶる良くない事に気付かずに……
「ダリア!」
愛しいあなたの声が、私の名を叫ぶ。恋しかったあなたの腕に抱かれ、あなたの香りに包まれる。
意識を失いかけながらも、私は確かに幸せを感じていた。
目を覚ました時、絶望に襲われるなんて夢にも思わずに……。
***
「もうあなた達の顔は見たくもありません。私達の……特にリリィの前には姿を現さないで頂戴」
ローズに冷ややかな口調でそう告げられた時、私は何故か安堵していた。
リリィは心労のあまり倒れてしまった。目を覚ましたのは、翌日の夕方だったと言う。そんな彼女に、どんな顔をして会えばいいのかわからない。
私は、彼女の婚約者の子を身籠っていた。そのせいで、二つの縁談が無くなった。
私とサムは、互いの婚約者の顔に泥を塗り、グリーナウェイ伯爵家を敵に回したのだ。
ブレディ侯爵家とカーシュ子爵家は、私とサムを切り捨て、問題を起こした者とは無関係だからと言ってグリーナウェイ家に恩赦を請おうとした。
私たちを切り捨てたところで、実家の醜聞は無くならない。けれど、グリーナウェイ伯爵家が恩赦を与えたとなると多少は違ってくる。
グリーナウェイ家は国の中枢を担う重要な家となりつつある。そんな家と少しでも縁を残したいが為に実の息子と娘を縁を切る。なんとも皮肉な事だ。
しかし、それはグリーナウェイ家は勿論、未来の王太子夫妻の怒りを買うには十分だった。
誰よりも怒ったローズがそれをさせなかった。私とサムが一緒になる事に両家が猛反対した事も余計に彼女の怒りを買ったのだった。
王太子殿下の口添えもあり、私はカーシュ子爵家からブレディ侯爵子息のサムへ嫁ぎ、ブレディ領で暮らす事になった。王都で暮らす事は許されていない。サムは次男なので、継ぐべき爵位はない。今はまだ侯爵子息で、そのうち侯爵の弟となるが、自身で身を立てられない以上ブレディ侯爵家の縁者ではあるが正式には貴族ではなくなる。
私達は華やかな場とは無縁の生活を送ることとなる。夜会や茶会などに出席する事もなくなるだろう。
「姿を現す事は許さないけれど、謝罪の一つもせずに終わらせるのは気に入らないわ。一度だけ手紙を書く事は許します。自分の行いを省みなさい。そしてほとぼりが覚めた頃、きちんとリリィへ謝罪しなさいな」
それはきっと、彼女なりの優しさだ。こんな事を伝えるために、わざわざブレディ領まで私たちを訪ねてきてくれたのだ。
「友達ごっこはもうお終いよ。もう会う事は無いでしょうけれどお元気で」
ローズの冷ややかな視線が揺れた気がした。
踵を返した彼女が振り返る事はなかった。
「俺はこうなって良かったと思っている」
ローズの乗った馬車が見えなくなった頃、サムがぽつりと呟いた。
私の頬をサムがそっと触れる。どうやら私は泣いていたらしい。
私にとって、オリヴァー様の妻の立場というのは荷が重すぎた。同じ様に、サムにとってリリィの夫となる事も伯爵位を賜る事も重荷になっていた様だった。
そして、私には彼女達の友人も荷が重かったのかも知れない。
私達は自分達の幸せなど望んではいけない。けれど彼女の幸せを、この国の繁栄を望む事は許されるだろうか。
たとえ友達ごっこだったとしても。私が彼女達を慕っていたのは紛れもない事実だったのだから……
ありがとうございました。