002
私は昼休みになると必ず第二体育館の裏に行く。校舎と第二体育館の狭間にあるそのスペースは、薄暗くて心地がいい。今日も例に漏れず、コンビニの袋を持ってその場所に向かった。玄関を出て真っ直ぐ、校舎に沿って二度曲がると、いつもは見かけない人影がそこにいた。胡座をかいているが……女生徒だろうか?うん、恐らくそうだ。……知らない人、か?俯いているので顔がよく見えない。私が普段快眠を貪る為用いている枕の倍くらいの厚さの本を足の上に開いて読み耽っている……。
少しの驚きと大分の不機嫌を心の中で仕分けしつつ、迷う。私があそこへ行っても人間二人が寛ぐスペースは十分確保されるが、誠に身勝手ながらここは私のとっておきの憩いの場だ。何か癪に障る。そして何より私のパーソナルスペースは結構広い。気の置けぬ友人ならまだしも(そんな友人居ない)、見知らぬ人とあの距離感で楽にするのは気が引ける。というか楽に出来ない。しかし今更教室に戻って飯を食べるのも嫌だ。……考えるの面倒になって来たな。いいや、もう。なるべく普段の歩調を崩さぬよう近づく。
「隣、失礼するよ。」
震える声を何とか調律しながら言ってみたが、彼女はこちらを見向きもしなかった。本に夢中だ。腹の底で一万回舌打ちをし、彼女の右側の壁際にしゃがむ。所謂ヤンキー座りだ。ハシタナイとは分かっているけれど、誰も見ていないし(目の前の彼女すら私を見ていない)、この姿勢が楽なのだ。梅おにぎりを開封する第一の工程をクリアしたところで、ふと彼女が何を読んでいるのか気になったが、彼女の顔が開いた本と近すぎて肝心の中身が見えない。そして顔も艶やかな黒い髪が阻んで見えない。読んで字の如く、本の虫みたいな女が食い入るように本を読んでいる。この場所で、この距離に人が来ても気付かぬほど面白いのかその分厚い本は。というか暗くないのか?
そこまで集中しているのなら、何だか邪魔するのも申し訳ない。今さっきの私の勇気の結実を完璧に無視した無礼は不問にしてやろう、と自分の心を宥めつつ梅おにぎりの開封作業に戻る。
「いただきます」
わざと少し大きめな声で言ってみる。———あ、今少しビクってした。
彼女は私を怠そうに一瞥しただけで、また本に目を落とした。顔と本の中身が少し見えたが、もうそんなことはどうでも良くなっていた。前言撤回、今日の昼休みは此奴の邪魔をしてやろう。
「なあ、アンタ誰?見た感じ一、二年じゃねーだろ?もしそうだったら三年の私を無視するなんて中々肝座ってるもんな?っていうことは三年?でも見覚えないぞアンタみたいな奴。っていうか広辞苑なんて読んで面白い?それ私物?常に携帯してるの?電子辞書じゃダメ?なあ、アンタ誰?」
「うるさい。」
今度は見向きもされず一蹴された。一番綺麗な一蹴だ。
「すまん。なあ、アンタ誰?」
「人に名を尋ねる時はまず自分から名乗るものよ。」
「確かに。私は阿鼻。アビーって呼ぶ人もいる。」
「知ってる。」
この野郎……。人をコケにしやがって……。
「な、なんで知ってるんだよ!?」
「だって、教室隣でしょ。」
バタン、と広辞苑が閉じる。彼女は右の手首に付けていた黒いヘアゴムで、雑に髪を後ろに結い付けた。やっと彼女が顔を上げてこちらを見た。まず目に飛び込んだのは彼女の顔面左半分に入った刺青。大小様々な三日月みたいな模様がアーティスティックに連なっている。
「え……?何?」
「誰?じゃなくて何?なのね。でもまぁ、そうよね。いつもマスクと髪で顔隠してるし。」
朱殷色のビー玉みたいな眼。滑り台みたいに綺麗な曲線を描く鼻。色素の薄い、けれど見る者を惹き付ける魅力的な唇。瑕疵が見当たらない玉のように美しいこの造形を、刺青で乱暴にグラフィテーしたような、それが彼女だった。しかし、初見のインパクトこそ強いが、なぜか全体として調和している印象を受ける。刺青に焦点を当てると、無計算に彼女の顔面の左側を走っているように思われるが、顔全体を引きで見ると、まるで美術的価値があるとさえ思われてくる。芸術のことなんか無知に等しいが、完璧だと分かる。プロの仕事に違いない。というか―――こんな女子生徒、私は知らない。隣のクラスと言っていたか?いつもマスク……。ダメだ思い出せない。マスクしてる女子なんてこのご時世大勢いる。その上普段から他人の顔なんざ碌すっぽ見ちゃいないんだ。仮令マスクなんざしていなくても……。いや、それはない。流石の私もこれ程容姿が整っている人は自然と覚える筈だ。女優やモデルの顔と名前は人並みには一致する。
シュボ、スゥー。
―――シュボ、スゥー?
その音で我に帰ると、彼女は咥えていた煙草を右手でつまんで口から離し、フゥーと、薄白い煙を吐いていた。そして暇そうな朱殷色の眼をこちらに向け―――
「貴方も如何?」
人間、ほんの数秒の間に信じられない光景が一度に押し寄せると、判断力が鈍るらしい。私はただ上の空で―――
「っ。じゃあ、一本貰うわ。」
私はこの日、人生で初めて罪を犯した。




