850光年の孤独―2
現座標値点から約850光年先の渦巻き銀河。
その中で数多ある恒星の一つからなる星系。生命居住可能領域に位置する惑星には、ある知的生命体と彼らが築いた文明があった。
発達した脳と手先を持つ陸上に棲息する二足歩行動物――自らを人類と呼称する彼らは、幾度かの種全体を巻き込む生存闘争と組織体の確立を経て、その技術体系を発展させていった。
だが、ある技術の普及と共に彼らは必要段階を三段階ほど飛び越えた進化を見せ始める。
それがナノテクノロジーによる身体の設計と拡張だった。
性別、人種、瞳や髪の色。身体能力や知能レベル、趣味嗜好、果ては簡易的な超感覚的知覚や念動力といったPSIに至るまで人間一人を遺伝子レベルから設計することすら可能になったのだ。
そうして生まれた天才たちによりあらゆる分野において革命とも言えるべき変化が続いた。
新理論による重力と時空間の関係性の再定義。
量子論を応用した未来予知とも言えるシミュレーションシステム。
文学から絵画に至るまであらゆるエンターテイメントを自動生成するプログラム。
金融の仕組みを数年で抜本的に改革し、富の理想分配を実現するプラン。
その中でもエネルギー革命と人工知能革命の影響はすさまじく、それらを利用した人類は軽々と生物として次のステージへ到達した。
だが、発達しすぎた再生医療と遺伝子工学。そして、そこから生まれた数多の技術で構成される社会は人類からあるものを奪い去っていた。
前進することへの欲望。
変化への適応力。
人間が本来持っているはずのそれらの要素は、音も立てず、だがゆっくりと人類の中から消失していた。誰しもが理想的な自分として生まれる社会では、なぜかほとんどの人が子どもを――己の遺伝子を残そうとしなかった。
やがてかつて先進国と呼ばれていた国家に見られたような出生数が死亡数を下回るような現象が世界中に広がり、技術革新はある境をピークにその成長を止める。
いつしか170億あった世界の総人口は5億を切り、皆薄々と感じ始めていた。
人類という種がゆるやかな絶滅への道を辿っているのを。
「人類は老い、運命に逆らうことすら拒む。私が生まれたのは、そんな静かな滅びの最中だった」
それでも一部の人々以外は運命を受け入れ、座して滅亡を待つだけであった。あるいは再び活気と希望に溢れた明るい未来が来ることを信じ、全てを投げ棄て電子空間に意識を移植させる者もいたという。
だが、一方で、人類はまだ終わっていない。そう信じる人々もわずかながらにいた。
連邦宇宙航空局にいたバレットもその一人だったのだ。そして、彼は人類の可能性を示すためにある決断を固め、志を同じくする者たちとともにある計画を立ち上げる。
それが人類初の異星文明との接触及びその惑星への到達だった。
「だが、それにはいくつもの課題が残されていた」
人類の退行に対する反論。それを示威をするためにあらゆる準備が必要になる。
どんな環境にも耐え得る宇宙船の船体。内部の生存環境。それを支えるエネルギー源。
そして、無限の闇の中、搭乗者を目的地まで送り届ける移動手段。人間が恒星間移動を行うには数多の障害をクリアしなければならない。
静止点に至るまで等級加速度的に進化を続けていた人類の技術と高度AIにより船体と生存環境、エネルギー源においてはその課題を易々と乗り越えることができた。
だが、肝心の移動手段――光速の壁を越え、事象の地平線の向こうへとたどり着く超光速航法を可能にすることは、それらの技術を以てしても叶わなかった。
どんな方法論でも光速には及ばず、人間が耐え得る加速度にも限界がある。だが、そんな速度では生きている間に1光年先を見ることすらできない。
そこで苦肉の策としてある案が考え出される。
速度で距離を稼げないのであれば、時間で稼げばいいという逆転の発想。
そして、その実行手段として考えられたのが、搭乗者のクローンに目的を託すことだった。
遺伝子改良により細胞分裂を最適化させ、理論値ぎりぎりまで寿命を引き延ばし、現時点の最高加速度にも対応させる。その上、コールドスリープの限度回数と期間を大幅に上昇させ、肉体的にも心理的にも宇宙に適応進化した人間を作り上げることに成功したのだ。
そうして最初の発案から十年後、プロジェクトは遂に実行に至る。
母星カナンを出発し、直径一千万光年のローカルグループに属している同じ銀河系の中からある星に目星をつけ、クレイドル=クラビィシェ号は運行を開始した。
長く果てのない虚空を進み続ける旅路を。
「もちろん、自動操縦によってメッセージを携えた人工知能を受精卵とともに送り届けることもできた。だが、人類自身がその手で成し遂げることにこそ意味がある。我々は……私は、そう信じたのだ」
いつの間にか仮想現は終わり、舞台はあの空白の場所に戻っていた。
「この環境で人生を終える君たちには、本当にすまないと思っている。
だが、どうか信じてほしい。我々の挑戦が人類を再び歩ませる力になることを」
オリジナルのバレットからのメッセージはそこで終わり、ノンレム睡眠から引き戻される。
だが、目を開けた時、視界に広がっていたのは夢の中で見た『空白』と似た汚れなき白の天井と昨日と変わらぬマズルの声だけだった。
『脳内θ波の低下を確認。映像講習に対し、規定数値より集中力が下回っています』
マズルの声ではっと我に返る。
オリジナルから真実を聞かされた日のことを思い出し、目の前の映像講習から意識が逸れていたようだ。
「大陸中央部の地下施設に設置された完全環境再現型バイオスフィア・アガルタでは、大規模な生態系構築実験を――」
バレットは何も言わず仮想現実の設定をオフにし、講習を取り止める。
瞬時に視界がシミュレーションシートの内壁に切り替わる。ハッチを開くと、そこには居住空間と全く変わらない白色が広がっていた。
『タスク未達成。映像講習はあと2時間31分14秒残っています』
講習を終えると同時にマズルが問い質してくる。
だが、自分でもなぜそうしたのか理由はわからなかった。
「明日に回してくれ。気分が乗らない」
『身体の健康状態に異常はありません。要因及び意図が不明です』
「心理的な問題だ。たぶん」
『承知致しました。メンタルスキャンの実行及びカウンセリング――』
「必要ない」
マズルの追撃を振り切り、映像講習スペースを跡にする。
そうして向かったのは、居住スペースの一角。透過隔壁から宇宙空間が見渡せるあのスペースだ。
幾億、幾兆と光り輝く星たち。その星を見る度にオリジナルから真実を告げられたあの夢のことを思い出す頻度が増えていた。
自分が生きている内に目的の星へとたどり着くことは決してなく、母星とは遥か昔に連絡が途絶えている。恐らくオリジナルたちの願いは叶うことなく、人類はすでに滅びたのだろう。
人類のために。
そんな大義名分に置き換えられたオリジナルの狂気染みた自己満足に付き合わされるだけの命。人生。時間。
戻りたい故郷も、目的とする場所もない。
ただゆりかごの中で一生を終え、それを墓標として生きるのだ。
そのことに――不思議と怒りは感じない。ただあるのは、空しさだけだ。
だが、時折、学習映像以外の夢を見ることがある。その時見る夢は決まって同じものだ。
俺は誰かをどこかでずっと待っている。
星明かりひとつない暗い闇の中。
深い地中の中で生き埋めにされているような錯覚すら覚える静寂の中で、何年も何十年も何万年も永遠の意識だけがそこに閉じ込められている。
何もない。
本当に何もない虚空に浮かび、やがて自分自身もその空間に溶けていく錯覚を覚え、発狂しそうになる。
巨大な闇が叫びも狂気も何もかも呑み込み、なんの反響もなく再び静寂が訪れる。
だが、ふとした瞬間に体の感覚が甦り、あることに気づくのだ。
胸に冷たい風が通い、剥き出しの表皮を冷気が包んでいる。あまりの寒さに自分を抱き締めるように座ると、その痛みで肉体の輪郭を思い出して目を開ける。
一欠片の星明かりさえないはずのその場所に、ぼんやりとした星の河がある。
そして、その向こうに広がる闇の中で自分のことをじっと見ている人がいることに。
思わず走って駆け寄ると、その人も同じようにこちらへ駆け寄ってくる。
徐々に見えてきたその姿は一人の老人だ。
喜びに体が震え思わず大手を振って全速力で星の河を渡る。
けれど、その真正面まで来てようやく知った。
目の前には小惑星ほどある巨大な鏡が宙に浮かび、よく見ればその老人は――ただそこに写った自分自身なのだと。
「くそ……」
いくら睡眠サイクルのノンレム周期を長めに設定しても、心に入り込んでくる救いのない夢。
それを見る度に背中に言いようのない悪寒が走る。
心の中に黒い得体の知れないどろどろとした水のようなものが広がり、気持ちが黒く塗りつぶされる。
絶望も。恐怖も。孤独も。
感じにくいように遺伝子設計されているはずなのに。その夢は起きている内も心臓を掴み、離してくれそうになかった。
ぼんやりとした視界の先に透過隔壁越しの宇宙が見えてくる。
ここからではわずか数センチにも満たない星と星との距離。
だが、実際のところその隔たりは何兆、何京も離れていて、決してその光がお互いの世界で交わることはない。
上へも、下へも、右へも、左にも。
どんなに温かさに触れようと手を伸ばそうが、声を大にして己が存在を叫ぼうが。
永続かつ無窮の闇に飲み込まれるだけで、決して誰にも届かない。
決して、誰にも。