850文字のその先で―5
アパートに帰り、風香が風呂に入っている間に布団を敷く。
帰り道から今に至るまで会話はなく、気まずい沈黙を紛らすためテレビをつけるが、地方局はすでに放送を終え、やっているのは国営放送の世界の名峰を紹介する環境映像シリーズだけだ。
疲労と緊張の糸が切れたせいか。風香は風呂から上がると髪も乾かさずに布団に横になり、すぐに深い寝息を立て始める。息をする度に小さく上下するその肩を見ながら、これ以上会話をせずに済んだことに安堵する自分がいた。
テレビのリモコンを取り電源を消すと、静まり返った田舎の夜が部屋の中まで満ちてくる。
その静けさに促されるように部屋の電源を落とし、自分もこのまま眠ろうと机の前の椅子に腰かけた時だ。
視線が引っ張られた。
その先にあるのは、周りの闇と同化したノートパソコンの真っ黒なディスプレイ。
何も写し出していないそれが呼んでいる。そんな気がしたのだ。
何も考えず、キーボードの右上にあるはずの電源ボタンを手探りで押す。
青白い光がうっすらと部屋を満たし、スリープモードにしたままだった画面には850文字の書き出したばかりの世界が浮かび上がる。
書くしかない。
不意にそんな思いが体の内側――脳よりも、胸よりも深い根元から沸き上がり、駆け巡った。
もし俺が仕事もプライベートも全力で、周囲の人望もあって、将来も明るくて。
そんな充実した人生を送る立派な大人であれば、この子にかける言葉が見つかったのかもしれない。
もっとちゃんと慰めて、導ける方法があったのかもしれない。
だけど、俺はそうじゃない。
思いを上手に伝えられるコミュニケーション能力も、度胸も、やり方も知らない。
だから――書くしかない。
この方法しか、俺は、知らない。
どんなことがあっても、文字にして伝えられることが全てだ。
俺も、彼女も。理不尽で、屁理屈ばかりのこの世界に生まれてきたくて生まれた訳じゃないのかもしれない。
でも、生まれたのだ。
惰性かもしれないけど、今を生きている。
ダメ人間の友人同士でだらだら過ごす不毛な時間。
残業明けのコーヒーの苦み。
こんな俺の人生でも、そんなに悪いもんじゃないと思える瞬間がある。きっとこの子には、俺なんかよりもっとそんな時間や楽しい未来が待っているはずなんだ。
俺は少なくともそう思っている。彼女にもそう思ってほしい。
この言葉をどう表現すればいい?
この思いをどう伝えればいい?
答えは、まだ、掴めないでいる。
だから、キーボードに触れ、その先に続く世界に手を伸ばした。
―――――
「立ち去れ。ここは竜の谷……我だけの世界。そなたのような異物は不要だ」
「別に置いてくれなくていいよ。食べてくれればいい」
少女が人を寄せ付けぬこの谷に捨て置かれてから二日。
己を食えという癖に自分は何も飲まず食わずのままの奇妙な少女は相も変わらず、その場を動かずに同じ要求を竜に突きつけた。
「我が何を喰らうかは我自身が決めること。そなたに命じられる覚えはない」
竜の低い声が谷の空気を震わせる。
だが、屈強な獣たちも逃げ出すその声を聞いても、少女の空色の目には絶望も怯えも――感情らしい感情は何も映っていなかった。
「じゃあ、行かない。食べてくれるまでここにいる」
これで何度目になるかわからない言葉の応酬。
それにしびれを切らしたのは竜の方だ。
次の瞬間、大きく広げた翼がわずかに上下に振れただけで、風に乗った少女の痩せた体は小石のように吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
「食べぬとは言った。だが、殺さぬとは言っておらんぞ」
普通の子供なら肺への衝撃で息がつまり、それが引いたとしても続いて体を襲う痛みに泣き出していただろう。
しかし、体と心に施された人間の業によるものか。自分の意思では動かせないまま横たわる少女の目は、先ほどと少しも変わらない。それは山奥の湖のような静けさだった。
―――――
最初は何度もディスプレイに並べられた文字から逃げようとした。
参考資料として彼女が眠っている向こうにある本棚の本たちに手を出そうとした。
だけど、思い止まった。
普段ならそのままその本に没頭してしまい、書くのをやめてしまう。
そうならなかったのは、本棚を見る度、こちらに背を向けて眠る彼女の後ろ姿が目に入ったからだろう。
低空飛行のぱっとしない人生も。
憧れ続けて届かない向こう側への羨望も。
きっと、そんなふうに俺を作ってきた全てが、俺が吐き出す文字に変換されている。
本棚に並べたお気に入りのファンタジー小説の背表紙も見れば、異世界のレンガ造りの街並みと石畳を歩いた感触が足元に再現される。
子供の頃、図書室でわくわくしながら読んだ児童書を脳の片隅に思い起こせば、ただ純粋に毎日を楽しめた少年の気持ちになれる。
古本屋に売り払いもう内容もうっすらとしか覚えていない本たちも、コンビニで暇潰しに立ち読みした漫画ですらきっと俺の中にある。
だから、わざわざもう一度見直す必要なんてない。
俺は竜が飛んでいる時に聞いている風の音も。傷ついた少女が見る青空の美しさも知っている。
例え現実に縛られてたって、そんなふうに思うのは自由なはずだ。
俺は取りつかれたようにそのまま小説を書き続けた。
言葉が文章になり、一行が一ページになり、やがて――物語はできていく。
いざ書き始めると、物語はまるで生き物だ。
あらかじめ決められ、舗装されたプロットの上を歩かせようとしているのに、いちいち横道に逸れて、思う通りに動いてはくれない。
まるで自分が想像した世界のはずなのに、どこかに本当にその世界があり、自分はそこにカメラを置いて覗き込んでいるだけのようなそんな錯覚すら覚える。
だから、あまりにもプロット通りにいかずに筆が止まりそうな時は、物語の中で生きている彼らに尋ねた。
――今、どう思ってる?
――どうして、そうしたの?
――これからどこに行こうとしている?
自分が書こうとしている物語に耳を済ませた。
彼らの声は俺と彼らの世界を隔てる風に掻き消されそうになって、断片的にしか聞こえない時もあったけど。
それでも、届いた。
彼らの声が途絶え、書いていて不安になることも、迷いが出てきて苦しい場面もなかったわけじゃない。
でも、物語を終わらせるまで、自分の中にあるものを確信し続け、手を動かし続けた。
―――――
その夜の嵐は、崖に覆われたこの谷を通り抜けさらに強い暴風へと姿を変える。
狂暴な風が運んできた砂利混じりの雨は、空中を駆け巡る濁流となってあらゆるものを洗い流す。
その本流の中に少女はいた。凍え死にそうな雛鳥のように岩影に身を寄せ、うずくまる少女はもはや生死すらもわからない。そんな少女を竜は少し離れた所で見つめていた。
ただ、見るだけだ。
別にあの少女が死んだところでなんの感慨もわかない。この谷の周りにある山でも、今晩の嵐で多くの命が奪われているはずだ。
この人間の娘もただその一つ。
そう。ただそれだけ。
そのはずだった。
(……なぜだ?)
自分でも意図せぬうちに足が動き出していた。
そして、気がつけば、濁流の中から掬い上げるように少女の体をその翼で覆っていた。
血の気のない少女の体は雨と泥にまみれ、もはや白と黒の塊と化している。
だが、その口元から吐き出される弱々しい吐息は、確かに竜の耳元まで届いている。
やがて、周囲の変化に気づいたのだろう。
無風となった翼の中で少女は顔を上げ、じっとこちらを見つめてくる。
なぜ? と問いかけるような視線が竜を貫く。
だが、問いたいのは竜自身だ。
なぜ我がこのような愚行をせねばならぬ。
我は竜だ。誇り高き竜。今までその誇りを持って生まれ、戦い、一人で生き抜いてきた。こんな小さく、愚鈍な者などほうておけばよいはずだ。
それなのにこの少女の目を見たあの瞬間から――何かがおかしかった。
五百年生きたこの命にも理解できぬ何かが自分の中にあった。
「ねえ」
その自問自答に少女の消えそうな声が割って入ってきた。
「あなたは……ずっと一人でここに暮らしているの?」
「……そうだ」
「そっか。じゃあ、私と同じだ」
いい迷惑だった。頼んでもいないのに少女は生まれからこれまでのことを話し始めたのだ。
最初から「親」という存在はいなかったこと。
馬糞や野犬の尿が散乱するある街の路地裏でゴミやよくわからないものを食べながら生きてきたこと。
石畳の入り組んだ路地裏には、時々両側の家の窓から真っ黒な水が落ちてきて、凍りかけた体で震えていた時に神父さんに出会ったこと。
教会では同じような境遇の子達が集められ、そこで初めて言葉というものを教わったこと。
「私はね……みんなのために生まれてきたんだって、神父さんがおっしゃっていたわ。
国のみんなにとって嫌なものを遠ざけるために……戦うために選ばれたんだって」
竜は少女の話をそれまで黙って聞いていた。
しかし、少女の断片的な話からも感じ取れるその神父の――自分が最も忌み嫌う人間の醜さに思わず口を出した。
「人間の聖職者の言うことはいつの時代も、どの国も変わらんな。神の名を出して、権力者と己に都合のいい嘘しかつかぬ」
少女は何も言わなかった。
ただ、それまでなんの感情も見せなかった顔に初めて笑みを浮かべてみせる。
「……嘘だって、わかってたよ」
痛みがこぼれ出るような微笑みだった。
「だけど、それでも、嬉しかった。こんな私でも、そうすれば誰かに覚えててもらえる。世界に受け入れてもらえるって信じられたから」
そう言うと、少女は竜をしっかりと見据え、今度はあの感情の見えない目で笑いかけた。
「だから……私はね、あなたに食べられなきゃいけないの。
そうしなきゃ、あの世界に私の居場所はないから」
―――――
不意にキーボードを打つ手が止まる。
けれど、それは今までの『850文字症候群』とは違う。自分の技量に対する諦念からではなく、これから描き出すシーンに対する期待からだ。
もう一度後ろに眠る彼女の寝顔と――その背後にある本棚に並べられた背表紙を見た。
一般小説。ライトノベル。純文学。絵本。漫画。アニメ。映画。ゲーム。
ファンタジー、歴史、推理、ヒューマンドラマ、アクション、ホラー、SF、コメディ、童話。
きっと誰からも愛される作品にあるような普遍性は、大多数の人に好かれようと意図したうわべの言葉には宿らない。
うわべだけの言葉の意味は相手に届いても、きっと心までは動かせないのだ。
読む人全てに評価されなければいけない。
それが普遍性へと繋がる。
そうじゃなきゃ書く意味がない。
たぶん俺の頭の片隅にはそんな思いがあったのだろう。
だから、850文字のその先に、いつまでたっても踏み出せないでいた。
書かない言い訳を探し続けて誰からも評価を受けずにいれば、少なくとも自分の中では大傑作のままその作品は――自分のちっぽけなプライドだけは守られるのだから。
(バカだな、俺)
本棚の上から下。右から左。端から端までもう一度見渡す。
愛されるために媚びるのではなく、自分の世界の奥底にまで潜って、潜って、潜り続け。
そうして息苦しくなって自分と世界の境界線が曖昧になった時、ようやく見つけられる書く理由。
それをぶつけて初めて誰かに共感してもらえるのだ。
俺の書く理由。
それが見つけられなかった。
いや、本当は知っていたのに忘れてしまった。
あの子に読んで欲しい。
どんなふうに感じて、どんなふうに思ったか聞かせて欲しい。俺の世界に触れて、共感して欲しい。
そして、この物語でもう一度――この世界を好きになる勇気をもって欲しい。
それに、誰よりも俺自身のために書きたいのだ。
思い描いた世界が自分の手を離れ、誰かの世界と一緒になる瞬間をもう一度味わいたい。
どうせオナニーだ。
理由なんて自分勝手でいい。
自分の思いを伝えたい時、例えそれがどんなに無様で不恰好でも、書き続けて作品を完成させたなら。
きっと初めて許されるのだ。
自分は小説家だと。物語を通して言いたいことがあるのだと。
物語は終盤に差し掛かろうとしていた。
最も伝えたい。そして、俺が一番書きたかったシーン。
今、この瞬間、目の前にできていく物語だけが俺のすべてだ。
―――――
太陽の光に照らされ、木々についた朝露がきらきらと眩しい草原。
鳥たちの声だけが響く目覚め始めた世界の中、竜と少女は連れ立って歩いた。
友人でも、家族でも、恋人でも、愛玩動物と飼い主でもない。この奇妙な関係が終わろうとしている。
竜は足を止めた。
大きな樫の樹が立つそこが竜と人間の世界の境目だ。
「……行きたくない」
「だが、そなたは行かねばならん」
「私……あの世界で幸せになれる気がしない」
少女は座り込みうずくまる。
寄りかかった竜のひんやりとした鱗の感覚と朝日の暖かさが同居する。
その間、竜は何も言わず、身動き一つしない。少女にもわかっていた。自分は帰らなくてはいけないのだと。
ゆっくりと顔を上げ、竜の瞳に映る自分の顔を見て思った。
まっすぐ前を向いて、胸を張って生きる。
簡単なようでこんなにも難しいことが私にもできるだろうか。
これから先の未来。竜の生け贄にされるなんてことは滅多にないだろうけど、きっとたくさんの不幸があるのだろう。
ちょっとしたいやなことから理不尽な不公平。他人からのいわれのない攻撃。
「……わかってるよ。わかってる」
少女はゆっくりと立ち上がり、前を向いた。
これからもきっと傷つき、自分をこの世界から消したくなるのかもしれない。
だけど……生きていたいのなら、立ち上がって、歩き出さなきゃいけない。
そんなことが、できるだろうか。
その時、静寂の草原に一陣の風が吹いた。
出合った頃、己を容赦なく吹き飛ばした風とは違う。優しくそっと背中を押すような風。
その風に押され、一歩、前に踏み出した。
「苦しさも、辛さも、悲しさも。全部そなたの腹におさめ、力に変えろ。
さすれば、きっと、そなたはどこまでも飛べる。どんなことがあろうと……生きている限り、心は自由だ」
振り返ろうとして、こらえた。
きっともう振り向いてはいけない。そんな気がした。
「もう行け。世界が……そなたを待っている」
少女は両目から溢れる滴を拭った。
後ろでも、下でもない。前を向いた。暖かい光が指す方へ駆け出していく。
光に溶けていく小さくて、けれど大きい背中を竜はいつまでも見つめていた。
―――――
「……どうしたの?」
どこかぼんやりとしたその声で潜り続けていた世界から現実へと引き戻された。
部屋の中はいつの間にか昇りきった陽光で満たされ、暖かさと肌寒さが混ざり合い溶けている。
その空気を家庭用プリンターの稼働する音だけが揺らし、上半身を起き上がらせた風香が怪訝そうにこちらを見つめている。
彼女の問いに対し、今は何も答えなかった。
自分が作った作品に期待してはいけない。
無意識にある心の防衛戦が、ずっとそう自分に言い聞かせてきた。
期待したらそのぶん、傷つき、落ち込んでしまう。だから、ダンボールの奥底に押し込めた妄想ノートのように自分の作品に対する希望を押し込め、ちっぽけな自分をなんとか守り通してきた。
だけど、もう、そんなんのはやめにしたい。
やがて印刷は終わり、プリンターはその動きを止めた。
用紙受けに吐き出されたその紙束を手に取り風香の顔をまっすぐに見る。
緊張。恥ずかしさ。いたたまれなさが全身を貫く。
でも、それ以上の興奮が――奥底に押し殺していたその光にゆっくりと気づいていく。
それは紛れもなく自分や自分が創造した世界――そして、そこに込められた意味への希望だ。
だから、俺は寝不足で薄汚い、不細工な笑顔のまま彼女にその原稿を渡す。
初めて、850文字のその先に描き出した世界。
そこに詰めた思いがどうか届くように。部屋に差し込む朝日にそんな密かな祈りを込めながら。
『850文字のその先で』はこちらで完結になります。
お付き合いいただきありがとうございました。
次章は毛色が変わり、少し長い中編になります。
ご興味ございましたら、お付き合いいただけますと幸いです。