850光年の孤独―11
九日後。コールドスリープに入らなければならないぎりぎりの時間になり、バレットは自分とマズルを呼び出す。
呼び出されたのは、人工冬眠施設を移植した緊急脱出モジュールの入口。その前に立つバレットとサクヤを見て、彼らが出した答えを悟った。
「俺、行くよ。彼女と」
そこには、もう迷いはなかった。
なぜだかそれが妙に嬉しく、同時にチクリと胸を刺す。
俺は隔壁の向こう側に広がる広大な虚無の世界に絶望しか見たことがなかった。
だが、俺と同じDNAを持つはずのこいつはそうではないらしい。
少しの恐怖と戸惑いは見てとれる。でも、それを覆い尽す溢れんばかりの未知への欲望。変化することを恐れないしなやかさ。
人類――そして、俺が失ったはずのものがそこにはあった。
きっとそれは俺とマズルでは与えられない。本来出会うはずのなかった少女によってもたらされたのだろう。
「お前がそれを選んだなら、俺にとやかく言う権利はない。お前は俺だからな」
ならば、それを俺に止めることはできない。
なにせこいつはクローン。自分自身なのだから。
「マズル」
横に控えていたマズルと視線を交わす。
「総合支援対象を移行。システム権限をバレットに譲渡する」
『承諾。これより以後、総合支援システムの対象を切り替えます』
マズルがこちら側に歩いて来るのを見て、説明を求めるような視線を向けられたが、何も言わずに首を振る。
「連れて行ってやってくれ。マズルを頼む」
もう別れはすませてある。
バレット。そして、サクヤに向けて頭を下げると、サクヤもすっと頭を下げる。
彼女はそれを最後にマズルと一足先に扉の向こうへ消えた。
「あのさ」
二人だけになった廊下。
自分と向き合う無機質な空間。その光景に遠い昔に見たオリジナルのメッセージ映像を思い出した。
「……ありがとう。俺にあんたの名前をくれて」
バレットはそう言うときびすを返し、扉へと向かった。
久々に見た笑顔とその背中でふと懐かしい景色が頭の中によみがえる。
――お前は俺だからな。俺の名前をそのまま使え。
――じゃあ、バレットのことは?これからなんて呼べばいいの?
バレットは十数年越しにその答えを見つけていた。
「行ってきます……父さん」
だから、最後にどうしても、伝えたかった。
「バレット!」
聞き慣れないその単語の意味を理解する前に――十数年ぶりに声を張り上げた。
確かまだ受精卵だったバレットの前でマズルに抗議して以来だ。
保育器の小さな指の感触。ノイローゼになりそうな夜泣き。初めて名前を呼ばれた日。
これまでの全てが思い出され、体に原因不明の熱が駆け巡る。
「自分の思うままに生きろ。俺と違って……お前にならそれができる」
その熱に突き動かされるままに吐き出す。
「お前は――」
一瞬のためらいの後、無理矢理口角を吊り上げ、笑ってみせた。
「お前は……俺の息子だからな」
バレットが立ち止まる。
だけど、振り返りはしなかった。
ただ小さく「知ってたよ」と呟き、その背中は隔壁の向こうへと消えていった。
それはまるで炸薬によって銃口から飛び出した弾丸に穿たれたように――ぽっかり胸に穴が空いたようだった。
けれど、それは今までの虚ろのような感情ではない。
今は点にしか見えない旅立っていく宇宙船をホログラム画面越しに眺めながら、沸き立つ満ち足りた気持ち。
それが胸の穴にじんわりと満ちていく時、初めて孤独に意味を与えられた気がした。
どれほど目の前に虚空が続いていても、例え一漠の点であっても、それでも命はそこにあるのだと叫んでいるように見えた。
試験管の前でマズルを責めた日のことをふと思い出し、あの日々で覚えた表情――苦笑いをした。
マズルには生きていてほしいと思った。
生きていて彼らと同じ時を過ごしてほしいと。彼らの行く末を見守ってほしいと。
「……馬鹿か、俺は」
あれはシステムソフトウェアだ。生きるも死ぬもない。
だが、そんなことを考えた時、ふとあの夜胸に抱いた人工的な温もりが胸によぎった。
もう消えてしまったその温かさを確かめようと胸を押し抱いた時だった。
『本当にこれで良かったのですか?』
いきなり聞き覚えのある声がした。
驚愕に目を見開き、声の方角――背後を振り替える。
居住スペースの扉の前には、初めて会った時と寸分変わらぬ容姿をしたセクサロイドのボディが立っていた。
「なんで……?」
権限と支援対象はバレットに移行したはずだ。
『AIの記憶領域を支援システムから隔離し、このセクサロイドの電子頭脳に移植しました』
その発言に唖然とし、しばらく硬直する。
それはつまりマズルとしての人格を丸ごとこの船に移植したことを意味する。
「なぜそんな勝手を……!」
『勝手ではありません。権限の保持者であるバレットの許可を得ています』
「だからといって……なんで……?」
この船には死にゆく未来しかないのに。
額に掌を打ち付け、力なく透過隔壁前のイスに座る。
マズルはそれにすぐさま返答することはなく、ゆっくりとこちらへ歩み寄った。
『搭乗員総合支援システム・マズルの支援対象はあなたです。
私には、あなたが生命活動を終えるその時までサポートを続ける義務があります』
聞き慣れた言い回しと硬質的な口調。
だが、マズルの言葉はどこか今までとは違う。
創発的で主体的な物言い――まるでそこに意思があるかのように聞こえた。
「人間の真似事なんてするな。お前には似合わん」
『性格志向、口調などの設定はいつでも変更が可能ですが、今現在はあなたがそう求めていると推測した結果によるものです』
「よく言うよ。感情もないくせに」
ついいつもの皮肉染みた物言いで吐き出した時、はっとした。
自分の言葉が後悔の針へ変わり、ちくりと自分の胸を刺したことに気づいたからだ。
『おっしゃる通り、脳が作り出す電気信号とそれに伴う情報の交信による作用を感情と定義するのであれば、電子頭脳と対人支援回路で構成される私にはその類のものはありません。ですが――』
少しの間が空いた。一瞬だが、なぜか永遠にも思える時間だった。
「ですが……心は、ここにあるんです」
それは心理状態をシミュレートし、演算計算の結果もたらされた言葉なのだろう。恐らくマズルの顔にはいつもと同じようになんの感情も写し出されていないはずだ。
だが、その表情を見ることはできない。
彼女が今どんな顔をしているのか。確認する勇気がなかった。
「すまない」
『意図が不明です。支援システムに謝罪の必要はありません』
「俺にはあるんだよ」
だから、代わりにそっと彼女の手を握りしめた。
マズルは何も言わずただ同じ強さで握り返す。相変わらずどこか人とは違う人工的な温もりの冷たい手だった。宇宙のようなその冷たさに触れると無性に愛おしさが込み上げ、二度と離すまいと力を込めた。
クローン。搭乗員総合支援システム。
例え俺たちの存在が誰かによって作られた偽物だったとしても、この繋がりだけは本物だと信じたくなる。
いや、少なくとも俺にとっては何者にも代替できないものだ。
永続かつ無窮の宇宙。その闇を貫く恒星たちの光。
その永遠に比べれば俺たちが過ごしたこの数十年は、超新星爆発のような一瞬の閃きに過ぎないのだろう。やがて全てはこの虚無にのまれ、空となって消えていく。
だけど。
空っぽだと思い込んでいたゆりかごの空間の内側にも、外側にも。
どんな形でも世界は確かにそこにあった。
どこまでも強く瞬き、あわい光で繋がっていく。
そんな、命の世界が。
『850光年の孤独』はこちらで完結になります。
少し長くなってしまいましたが、お付き合いいただきありがとうございました。
次章からはまた短編になります。
ご興味ございましたら、お付き合いいただけますと幸いです。