第六十二話 禍福門なし唯人の招く所
――――目を覚ましたのは、リリオラには懐かしい匂いの立ち込める木漏れ日の温かな森の中だった。マスケット銃はなく、着ていた服もあの白を基調にデザインした自前の軍服でもなく、いつぞやクローゼットのなかで埃を被せてしまっていたアカデミーの制服だ。
「……戻ってきた、か」
体を起こしてみる。痛みはない。記憶の混濁といった症状も見られない。彼女は間違いなく自分が生還したことを知った。自分がいた、魔術があらゆる技術の繁栄を促す世界を取り戻したのだ、あのディオールから。
お気に入りだったマスケット銃はもう手元にない。ふたつの世界は彼女の術式によって完全に分かれ、飲み込まれる形で消滅した彼女の世界は、以前と同じ時間に巻き戻った姿に立ち戻っている。ひとつだけ違っているのは、どちらの世界からも『ディオール・ヴィーグリーズ』という存在の証明になる歴史が消滅したことだろう。
彼女は立ち上がり、慣れたふうに森を歩き、やがて慣れ親しんだ町へと出た。巨大都市・トリテミウス。それが彼女の生きる町の名だ。どこかしこで当たり前のように術式が用いられ、すべての人間の生活は魔術によって成り立っていた。火をおこすことも、電気を操ることも、水を生み出すことだって自由自在の世界だ。
ひとつひとつをかみ締めるようにリリオラは街中を力強く歩く。自然と笑みがこぼれ、頬がゆるんだ。自分の愛した世界のすべてが、ここにあるのだ、と。
「あれ、リリオラさん。今日は術式の実験のご予定では?」
不意に声を掛けられて振り返ったとき、彼女は石のように固まった。
「……どうかしましたか? 僕の顔に何か?」
「あ、いや……なんでもない。ちょっと疲れていただけだよ――ドミニク」
以前の彼とは違う、少しだけ背の高い姿。しかしそれでも、魂から外見から、すべてが彼であることは間違いない。リリオラの自慢の嗅覚が、たしかにそう告げている。
思わず溢れそうになる涙を必死に堪えながら、リリオラは気丈に振る舞い、微笑んでみせる。今の彼は、あの彼ではないのだとわかっていたから。
「おい、リリオラ! こんなとこにいやがったのか?」と、ドミニクの後ろから見覚えのある男が駆け寄ってくるのを見つけて、急に涙が引っ込んだ彼女は桃色に染め上げた派手な髪色をしたオールバックに、ひどくうんざりとした顔を浮かべた。
「相変わらず声のでかいヤツだな。何か用か、ユアン?」
「何か用か、じゃねえよ。学院長が探してたぞ。見つけたら伝えろってな」
「……ああ、そうか。分かった。礼を言うよ」
「えっ? ああ、おう。別にいいけど……」
ユアンが驚いたような顔をすると、リリオラはきゅっと眉間にしわをよせて「私がなにか変なことを言ったか?」と返す。彼は首を横に振って「いや、そういうんじゃねえけどよ」と少し戸惑いながら。
「てめえが俺に礼を言うなんて珍しいな、ってよ」
「……! そ、そう……か。まあそういうときもあるだろう。ではまた後でな」
ひとまずドミニクとユアンに別れを告げ、彼女の足は学院へと向いた。今は巻き戻ったとはいえ術者である彼女が共に過ごした家族との思いは消えていない。そのせいか、ふと染み付いた癖が出たのだろう、と彼女は少しだけ恥ずかしそうに頬を紅くした。
しかしそんなことを考えるのも少しの間だけで、学院までたどり着くとそれはもうひどいものだった。どういう意味か、といえば挨拶の嵐だ。なにしろ彼女は都市の外を覆う巨大な森の中を闊歩する魔獣たちを駆逐するための術を持つ数少ない魔術師で、彼女のことを知らない人間など学院にはいない。とかく憧れの的。同年代はおろか、年上も年下も誰もが尊敬の念を抱いていて、誰とも知らぬ者からでさえひっきりなしに挨拶が飛んでくるもので、流石に疲れた様子だった。
学院長室の前まできてようやく喉が嗄れるのではと思うほどの挨拶の繰り返しから解放されると深呼吸をして落ち着きを取り戻し、重たい木製の分厚い二枚扉を押し開く。
デスクに向かい、手を組んで椅子に腰掛ける長く伸びた金髪を垂らす気の強そうな顔立ちの女性を見るなり、リリオラは意地悪そうに先に声を掛けた。
「気分はどうだ、アレンスカヤ学院長?」




