第三十七話 最後のワラ一本がラクダの背をつぶす
術式の種類は多数存在するが、医療系の術式だけは扱える魔術師が極めて少ない。というのも、本来はリリオラやフェヴローニャが基本的に扱う術式は魔力を注げば注ぐほど高い能力を発揮するが、医療系に関してのみ〝適した量の魔力を注がなければ逆効果になる〟というリスクがある。ゆえに失敗したとき人体に害を及ぼす危険性が高く、自身の魔力の扱いが完璧でなくてはならない。
それはたとえリリオラのように才能のある人間であっても難しく、何度だって復習して培わなくてはならないほど繊細なものだ。針に糸を通すよりも至難の業といってもいい。だが成功させることができたならば、どんな病であろうと死の淵から生還させることも容易い。いわばハイリスク・ハイリターンな試みだ。
「大丈夫なの?」と、説明を聞かされたフェヴローニャが驚き混じりに尋ねるとリリオラも自信がなさそうに首を横に振った。
「今回ばかりはどうだろうな……。私も初めてだが、この資料の通り上手くやれば素人でも傷を塞ぐくらいは簡単にできそうだ。……ただ、傷跡は残るかもしれないが」
資料に書かれていることは実に丁寧で理解力をさほど要求しないほど細かく書かれている。理解力の高いリリオラであれば、なんの問題もなくすんなりと受け入れられた。手順に従ってフランシスの血液を使って汚れていない部分に術式を書き、ゆっくり、ゆっくりと魔力を注いでいく。一滴ずつ垂らす細やかさで資料を見つめながら一定量の魔力を注げば、フランシスの体にあった風穴に青白い光が渦巻きながら塞がっていった。
「……上手くいった。あとは安静にさせていれば問題ないだろう」
汗を額に滲ませて、おおきく深呼吸をする。リリオラもさすがに初めての経験は緊張したらしい。落ち着くと、近くにあったぼろぼろのソファに移動して寝転がった。ドミニクがどこかから見つけてきた毛布を彼女に手渡す。
「大丈夫ですか、リリオラさん?」
「ああ、問題ない。少し疲れただけだ。もともと魔力は一度に消耗するほうが楽で、徐々に流すほうが体力が要る作業なんだよ」
リリオラがしたことを分かりやすくいえば、からっぽの大きな、たとえば十数キロは入るだろう容器を持ち上げたまま、いっぱいになるまで――ただし溢れるか溢れないかのぎりぎりまで――水を入れるような作業だ。そのうえ、容器を手から床に下ろすまでにも一滴も零してはならない。慣れれば一度で適正量の魔力を放出できるだろうが、初めてだったリリオラはそれをかなり慎重に行ったから、それはもう酷い疲れ具合だった。
そのおかげで、フランシスの命は繋がれたのだが。
「世話の焼ける母親だ。勝手に二度も死なれてたまるか」
リリオラは少しだけ怒った調子で言ったが、口元は笑んでいた。
かつて事故で亡くなったと聞かされたときはリリオラもめったと帰らない両親のことで実感はすぐに湧いてこなかったが、時間が経つにつれて幼かった彼女にも寂しさが理解できるようになっていった。二度と会えないのだと思っていた。それが目の前に突然現れて、また勝手にいなくなってしまおうとするのだから、助けられて良かったと安堵の気持ちもあったがリリオラとしては少し怒るのも仕方ないことだった。
「……フェヴローニャ。それとドミニク」
リリオラがふたりを呼ぶ。頃合なのだ、彼女が話すべきことをふたりに話すときがやってきた。その彼女の声色から真剣さを窺い知ったのか、フェヴローニャもドミニクも何事だろうといった表情をして、緊張感に包まれる。
彼女はひとつ決心でもするかのように、すう、と息を吸い込んで、天井に吊り下げられたランプの頼りない蝋燭の灯りをじっと見つめながらゆっくりと息を吐いて。
「よく聞け。私たちの前に現れたあの男の名は、ディオール・ヴィーグリーズ。私のたったひとりの兄であり、魔力に関しては私を上回る大きさをしているだろう。もっと分かりやすくいえば〝私よりも強い〟ということだ」
たとえ憎かろうとも認めるべきものは認めるリリオラに、ふたりは顔を見合わせる。だが彼女はそれだけではない、と話す。
「ディオールが現れたということは、ヤツの目的が果たされる日が近いはずだ」
「目的……ってなんです?」とドミニクが尋ねる。
「あらゆる世界の融合さ。信じられないかもしれないが世界というものは無数に存在する。その果てにどのような文明が誕生するかを確かめるのがヤツの目的だ。だが、そのためには不老不死の術式を使って、多くの人間の魂を魔力に変換する必要がある。それだけ、異空間への門を開くというのは魔力を消耗する。要は、帝都の人間丸ごとを材料にしても成立しない術式なんだ」




