第三話 昨日は人の身、明日は我が身
外を流れる冷たい風に仄かな寒さを感じつつ、リリオラは帽子を深く被り込むと鼻をひくひくと動かした。
「……うむ、こっちか」と、彼女は精算中のドミニクを待つこともなく歩き出す。その先にあるのは、リリオラが小さな蟻のようにも思えるほど巨大な屋敷だ。大きな門は開きっぱなしになってはいるが、両脇には淡い緑色をした軍服に身を包んだ門番らしき兵士が二人立っていた。
「すまない、ここはウィル・ブランドン氏の屋敷で間違いないか?」
リリオラが兵士に尋ねると、兵士は尋ね人があることに意外そうな顔をして「その通りですが、ウィルは今不在でして……」と話す。それを彼女は手で制して「不在なのは知っているとも。そのことで話をしにきたんだ」と答えた。
「ウィル博士が死亡した件で奥方のエレオノーラ夫人に伝えておきたいことがある。……が。直接会うに、私のことをあまり喜んではくれないだろうから、ぜひとも言伝だけを頼みたいのだが、構わないかね?」
「ええ、構いませんよ。もちろん、内容にもよりますが」と兵士の言葉を聞くと彼女はホッとしたように胸を撫で下ろす。
「では……そうだね。『狼は牙をじゅうぶんに研いだ』と伝えてくれ。それから、このドッグタグを彼女に。ウィルと私が身に着けていた友好の証だ。きっと喜んでくれるだろう、それはもう言葉を失うほどに」
彼女は首から提げていたふたつのドッグタグのうち、一方の乾いた血がこびり付いているほうを兵士に手渡した。怪訝な顔を向けられたが「お任せください」と兵士が返すと、リリオラは嬉しそうに微笑んで「ありがとう」と背を向けて去った。
「あーっ、こんなところにいた! リリオラさんったら僕のこと置いていくのやめてって言ったばかりなのに!」
「知ったことではない。私がやるべきことをしていたんだからな」
「……しなきゃいけないことでも僕を置いていくことはないでしょう? これも僕への罰ですか?」
「いや、これはただの嫌がらせだよ。それより、これから仕事だ」
仕事と聞いてドミニクの表情が固くなる。不安と緊張の入り混じった表情をして彼はリリオラに言った。
「西方にある共和国との国境沿いで戦闘が激化しているそうです。たぶん、そこにもう誰かしら派遣されたんじゃないかと。もう少し時間を頂ければ精確に居場所を突き止めて、」
「必要ない」
ぴしゃり、とドミニクが続けようとした言葉を彼女は切り捨てて、今、その足で戦場へ向かうと言った。彼はリリオラの身を案じ、万が一のことも考えて今しばらくは下調べに尽力すべきと進言したが彼女は首を横に振る。
突然、リリオラが鼻をひくつかせ、臭いを嗅ぐ仕草をした。
「車を借りてこい、ドミニク。我々も国境へ向かう」
「ええっ、いきなりですか!?」
「メス犬が町を出た。おそらくだが、その西方の戦場へだろう」
リリオラは獲物に狙いをつけた獣のように舌なめずりをして、準備があるからと彼に車を用意するよう伝えたあと、自分は支度のために宿へ早足で戻っていく。「よう、リリオラ。今日はずいぶんと上機嫌じゃないか」と宿の主人に声を掛けられると、彼女は嬉々とした様子で軽い挨拶をして、「ああ、野犬狩りの仕事が入ってね」と答えた。主人はなんのことかは理解できなかったが「そいつは良いな」と楽しげに返す。
二階の自室へ入るなり、リリオラは扉のすぐ傍に立てかけてあったマスケット銃を手にとって、引き出しの中にしまいこんでいた炸薬と弾丸を銃口に押し込んで、ラムロッドで奥まで詰めたあと、革のベルトで肩に抱えてすぐに出発した。
しばらく外で待っていると、どこからか車を調達してきたドミニクが渋い顔をした。時間がなく、仕方ないので車を盗んできたらしく深いため息をついて「もう僕立派な罪人ですね」と漏らしたが、彼女はくすくすと笑いながら「元々だろ」と嘲った。
「血で汚れるか泥で汚れるかの違いだ」
「僕は誰も殺してませんよ……」
「だから『僕は悪くない』とでも?」
リリオラにそう言われるとドミニクは唇を噛んで俯いた。本人の意思の如何に関わらず、彼は自分が加担してしまったことについては後悔していて、反論の余地をそこに感じられずに押し黙った。
仕方なく車を走らせると、リリオラはひくひくとまた鼻を動かした。
「……前から気になってたんですが」と彼女のしぐさを見たドミニクが不意に口にした。「それって、どれくらいの距離を追跡できるんです?」と彼は尋ねる。
リリオラは、そう尋ねられると、指先を空に向けた。
「この世にいる限り、どこまでも追い詰められる。地上も、地下も、水中も、上空も。ありとあらゆる場所に隠れて臭いの痕跡を消そうとしても、必ず。狙った獲物は必ず仕留めてやる。この〝オオカミ〟からは逃げられはしないよ」
くすんで輝きを失い薄汚れた狼の刻まれたドッグタグは、銀というより灰色のような鈍い色をしていて、リリオラはそれを強く握り締めた。
「見ていろ、ドミニク。哀れな猟犬風情が牙を剥いた相手がいかに大きな獲物であったかを思い知らせてやる。地獄の底よりも深いところまで追い詰めてやろうじゃないか……!」