第二話 どんな犬にも良い日はやってくる
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「あ、いたいた。探しましたよ、リリオラさん」
古ぼけたカフェの中で一際目立つ少しばかり高い声。それは店内の隅にある窓際の席に向かって投げられたものだ。どこか頼りない木製の椅子にはクッションが敷かれ、一人の少女がとくになんの感情も抱いていないような表情をして新聞紙をじっと覗いている。自分に掛けられた声とは分かっていながらも振り返りはしなかった。
素っ気ない態度だが、その少女に対して声を掛けた茶髪の男には、思ったより機嫌がよく映ったらしい。彼女の前の席に座ると、手に持った紙の包みを広げた。
「表通りで人気の売店に行って、わざわざ一時間も並んだんですよ。ほら、アボカドとクリームチーズのサンド。次はちゃんと買うまで後ろにいてくださいよね。リリオラさんったら飽きたらすぐにどこか行っちゃうから」
リリオラは、初めてそこで新聞紙を下ろして青年を見た。
「それは申し訳ない。お前なら私を見つけてくれると思ったものだからね。それより面白いニュースだ」
リリオラは、特定の記事が見えるようにだけ新聞紙を折って青年に「見たまえ」と手渡す。受け取った彼が目をやった記事には、大きく『帝国軍、傭兵部隊『ハウンド』と契約か』という内容があった。
「これって……ここですか?」
「最近、各地で目撃されていた〝犬の顔〟が刻まれたタグを提げた連中だが、やはり帝都を拠点にしたようだな」
帝国は大陸を支配下に置かんと、その強大な軍事力を持って各国へ侵攻を開始。その勢いは留まることを知らず、ここ最近では加速を始めていた。そしてここ数週間で噂になっていたのが、傭兵部隊『ハウンド』だ。その存在は戦場では恐怖の象徴として君臨した。六人によって構成された部隊であり、戦場に彼らが現れれば得体の知れない力を使って次々と拠点を制圧するために怪物とさえ呼ばれることもあった。これまでも、そうして『ハウンド』と名乗る者たちは帝国を後押ししていたが、ここへ来てとうとう声明を出したようだ。
「リリオラさん……本当にやるんですか?」と青年が尋ねるとリリオラはサンドを一口、咀嚼しながら答える。
「ああ、やるとも。私が決めたことだからな」
「……それって、ウィル博士のため?」
「みんなのためだ。彼がチームと言ったから、私もそれに倣う。たとえ彼らが望まないとしても」
リリオラの言葉に青年はもう一度尋ねた。「彼らが望まないのに」と付け足して「どうしてそんなことをする意味があるんですか?」と。だがリリオラは彼の質問を鼻で笑い飛ばした。
「単純なことだよ、ドミニク。これは私のためでもあるからだ。彼らが望まず必要としていないとしても、今を生きている私にとっては必要なことだからだ。あの研究所でのことは私にとって腹立たしく、凄惨で、醜悪だったからだ」
彼女の表情は大して変化のない、周囲から見れば無表情のそれだろう。だが自身の胸倉を引っつかんで力を込める姿をみれば、彼女がどれほど怒りを抱えているのか青年はよく理解できて、そして申し訳なさそうにした。
「僕が騙されなければ、こんなことにはならなかった」
「そうだな、その通りだドミニク。あの性悪のユアンが外に出て景色を眺めたいなどロマンチストも甚だしい言葉を並べた時点で気付くべきだった。彼は外にいた頃から画家ではなく殺人者だったのに簡単に心を許しやがって」
同じ施設にいたことで心が疲弊していたドミニクにとっては、ユアンのような人間にもそういった穏やかな一面があるのだと意外に感じていたらしい。そのときの彼の表情はさぞ騙しやすそうな顔をしていたに違いない。
ユアンの口車に乗せられて彼の脱走の手助けをしてしまったことは、ドミニクにとって一生の不覚だったし、研究所にいた職員たちについて心から申し訳ない気持ちでいっぱいだった。それでも当時の彼は精神状態がまともに保つことができずに逃げ出してしまったのだが。
リリオラは乱暴にサンドを平らげると、手についたたっぷりのクリームチーズを舐めとったあとで、テーブルに置かれていたペーパーでしっかりと拭き、カップの中身が残っていないかを確かめて「そろそろ行こうか」と席を立った。
ふと彼女は窓から空を見た。曇り空で今にも激しく降りだしそうなほどに暗い色をしていて、リリオラはにやりと笑う。
「今日は良い日になるぞ、ドミニク。……最高の天気だ」