なななぬかき
「いってらっしゃい、あなた」
「……」
結婚してすぐに購入した新築マンションの玄関は、頑張って綺麗にしてきたものの、十年の間に染み付いた何かがくすんで見え、私は部屋着の上からカーディガンを羽織ったまま、無言で革靴に足を押し込んでいる夫に声を掛ける。
新婚当初は出かけがけに頬へのキスは当たり前で、夫も笑顔の時間が多かったように思う。あの頃は本当に幸せが溢れていた筈なのに。
「あら?」
うずくまって靴を履く夫の固く黒い髪の下。ダークグレーのスーツの襟元に気づいた私は、擦り切れた折り目部分を見つけため息が漏れる。
「ねえ、あなた。このスーツはみっともないから、着るの止めてって言ったわよね」
「……」
「ねえ。聞いてるの、あなた」
「……」
眉を逆立て問いただしてみるものの、夫は無言で靴を履き終えると、鞄をぎゅっと握りしめては玄関の扉を開いて出て行ってしまう。
「眩しい……」
夫一人分開かれた隙間から、目を刺すような白い光が音もなく入ってくる。思わず目を眇めている間に、夫の体は光の中に溶け込んでいき、パタンと扉が閉じた途端、見慣れた光景が私の目に映った。
「もう」
短く吐息を落とし、リビングに戻る為に踵を返す。
「結婚十年目なんて、こんなものかしら」
ふう、と再びため息を吐きながらも、私の唇の端は僅かに笑みに上がっていた。
夫が着ていた擦り切れくたびれたスーツは、結婚一年目に専業主婦になった私が内緒で、派遣のアルバイトをして買ったものだ。
丁度会社の同僚だった人から、セミオーダーでも安く購入できるって教えてもらって、それならと同僚から訊いたお店に夫を連れて行った時は、一体何が起こるのかって目を白黒させてたっけ。
『おお、体にしっくりきてて、ものすごく仕事ができる気がする!』
『できる気、じゃなくて、お仕事頑張ってね』
『ああ、ありがとう。愛してる』
『もうっ、こんな所で恥ずかしい!』
完成品を一緒に受け取りに行って、試着室のドアを開けた夫の全身からの感謝の様子に巻き込まれ、私まで一緒に店内の人達から生温かい目を向けられたのよね。
今思い出しても恥ずかしいわ。
それから色んな節目に大事に大事に着てくれたんだけど、どうしても生地が量販されたものだったから、次第に擦り切れちゃって、ちょっとみっともなくなってしまった。
だから、クリーニングに出して、その後はクローゼットの奥にしまっておいたんだけど……。
「何故か昨日まで喪服みたいなのを着てたのに……」
変なの、と私は呟き、リビングへとあゆみを進めたのだった。
「何かしら……この匂い」
ふ、と鼻先に嗅ぎ慣れない匂いを感じる。昔、祖母の家で嗅いだ事のある、ちょっと独特な匂い。
「お香……かしら。これ」
私はくんくんと鼻を揺らし、匂いを辿っていく。とはいえ、然程広くない3LDKのファミリータイプの分譲マンション。リビングの手前を曲がると、トイレと浴室のほかに、将来子供部屋にしようと購入してしばらく空き室だった部屋しかない。
あれは結婚六年目だったと思う。
淡々と無色な生活を送っていたある日。主人が長年空室だった部屋に出入りするようになった。
最初は片付けでもしてるのだろうと、我関せずで静観していたけど、何やら大きな通販の箱を搬入している所を目撃してしまう。
もしかしたら、テレビで男の浪漫と言われる書斎でも作るのかしら、って思ってる内に、主人は寝室へは着替え以外立ち入らなくなっていた。
当時はまだ苦言を呈する程の感情が残っていた私が「なんて勝手な事を」と言った事がある。
だけど主人は「たまには一人の時間が欲しいんだ」と返し、私を避けるようになっていた。
本当は、自分の両親や主人の両親に相談するべきだったかもしれない。しかし当時はなかなか身篭らない私に、彼らは一日も早く孫を、と急かすばかりで、しまいには私が不妊の原因があるのでは、と叱責するようになっていた為、近寄るのも億劫だったのだ。
あの時両親に一言でも相談してたら、主人が家庭内別居みたいな行動をしなかったかもしれない。そうすれば、悩みすぎて不眠にならなかったかもしれないもの。
……いえ、もしかしたら更に最悪の状態になっていたかもしれないわね。
私はふるふると首を振り、自嘲に唇を歪め、匂いの追跡を再開した。
なんとなく匂いが薄らいできた気がしたけど、念の為に主人の個室のドアノブに手を掛ける。が、まるで私の存在を拒絶するように開かない。
「鍵……掛けてるのね」
ここまで主人に否定されるとは思ってなかったから、あれだけ諦めたはずなのに、胸が小さく軋む。
とはいえ、鼻先をドアに近づけても白檀の香りはしないから、ここが匂いの発生源じゃないのは一安心だ。
もし、予想が現実になってしまったら、私は自ら焼けるのを意識して死んでしまうではないか。それは御免被りたい。
なるべく鍵の存在を頭から消したくて、他愛もない事に思考を傾けつつ、今度こそ匂いの元を探す為に部屋の前から離れたのだった。
リビングに向かって歩いてると、途切れたはずの匂いがまた鼻先に漂う。
「こんな事なら、主人の部屋に行かなければ良かった」
もう心が自分にないのを再認識するのは、思ったよりも激痛が伴う。
夫婦なのに、まるで他人に戻ってしまったような、そびえる壁を壊すにも、乗り越えるにも、私の忍耐は擦り切れてしまっていた。
「子供がいれば……。いえ、ペットでもいたら、まだ心癒されたかも……」
独身時代は実家に小型犬が家族として、仕事や家事に疲れた気持ちを安らげてくれた。
しかし、結婚してまもなくの頃、それとなく打診してみたけれど、
「ごめん。僕ペットアレルギーがあるんだ」
彼は心底申し訳なさそうに言ったっけ。
流石に体調を崩されたら困ってしまうもの。私もそれ以上強く言えず、次第に諦めてしまったのよね。
家庭内で別れて生活するようになったとはいえ、こんな状況でも食事は今も一緒に取ってるし、同じ家では動物の毛は完全に除去できない。どちらにしても諦めるしかないのだけど……。
私はリビングに続くドアを憂鬱な動きで開いた。
南向きにあるリビングダイニングルームは、左手にキッチンと寝室につながっていて、右は客間として利用していた和室がある。どうやら強く匂うのは和室の方のようだ。
外から春独特の薄ぼんやりとした空から注ぐ太陽が、リビングいっぱいに入ってくる。そろそろ洗濯をしないと、夕方までに乾かないわね。
角部屋にあるこの部屋は、L字型になっていて、キッチンからも出入りが可能だ。
閑散としたダイニングテーブルに、ソファテーブルにもなにも置かれていない。まるで引越ししたばかりの頃のように、人の気配を感じない。
私は首を巡らせ白檀の行方を追っていると、ぴったりと閉じられた襖に目が行く。
「あの人、こんな所で何をしてたのかしら」
不思議に思って首をかしげた途端、くう、と私のお腹が空腹を主張してきて、誰もいないのに、恥ずかしさがこみ上げてくる。
夫は朝食べない人だから、彼が出勤してから一人分の朝食を準備するんだけど、それよりも……。
「普段、お線香なんてあげない無神論者なのに」
胃袋の訴えも気になるものの、閉じた襖から微かに香る匂いの方が、それ以上に気になった私は、そっと和室に続く襖を開く。
ふわりと鼻腔を甘く擽る線香の香り。妙に心地よくて安堵の息を零していると。
「あら? あんなにお腹が空いてたのに……」
あれだけ主張していた空腹感がすうっと消え、清涼な満足感が体を満たしていた。これ以上何かを口にしたら、気分が悪くなってしまいそう。
無理する必要はないと襖を閉じ、気持ちを切り替え、日課の家事をしようと脳裏に浮かべた途端。
ピンポーン──
玄関から来訪者を報せる音色が、私のいるリビングに広がった。
「こんな朝早くに誰かしら?」
私は「はーい」と玄関に向かって返事をしながら、パタパタとスリッパを鳴らし、慌てて扉を開く。
普段は、リビングにあるインターフォンで対応するのに、何故かこの時の私はそれすら記憶から消えていて、扉を開けるのが最善だと思ったのだ。
「どちら様?」
「はじめまして、おかあさん」
開いた扉の隙間から見えたのは、小学一年生くらいの利発そうな男の子。
「──え?」
何故か未出産なのに、見知らぬ男の子から「おかあさん」って呼ばれてしまいました──
この子、一体誰なんでしょうか?