壊滅の魔女
「本当に、御立派になられて……じいはこの歳まで、これほど嬉しいと思うたことはありませなんだぞ、坊っちゃま」
「相変わらず大げさだな、ネリグ」
感極まったように肩を震わせている老人に、リーグは苦笑しながら答えた。
城の中庭に立つ元教育係の姿を目にしたときの内心の衝撃は、完璧に押し包むことができた。鞭を振り回しながら自分を追いかけてきた五年前から、ネリグの体は痩せて、一回り小さくなったように思えた。
「五年あれば、男はすっかり変わるもの。じいは、すっかり、じじいになりました。坊っちゃまは、立派な男ぶりの武人となられました」
「昔からそれくらい褒めてくれていれば、俺も、もっとすすんで勉学に励んだかもしれないな」
リーグは悪戯っぽく笑ってみせた。
かつて、教育係の手を逃れてこの中庭を軽やかに駆け回った細身の少年は、いまや王都での五年間の修養と鍛錬を経て、強い剣を振るうがっしりとした肩幅とそれに釣り合った逞しい体躯、落ち着いた物腰を備えた若き騎士となっていた。
「それはどうですか、何しろ、昔の坊っちゃまときたらそれはもう……いや、坊っちゃまには、こんなところでじじいの繰言に付き合っておられる暇はない。父君には、もう御挨拶を?」
「ああ、済ませた。これから、西の塔に行く」
リーグの言葉に、ネリグは「おお」と口を開けて手を叩いた。
「そうなさいませ。坊っちゃまがお帰りになるという知らせがあってからというもの、ミュシア様は、いつ戻るか、今日か明日かと、毎日仰っていましたから」
「そんなに?」
「ええ。もちろん、他の皆も心待ちにしておりました。父君も仰せでしたでしょう、最近、長城の向こうに、何かと不穏の動きが――」
リーグはたちまち表情を引き締めた。
近衛兵団のマントを返上し、故郷に戻ってきた理由はそれだ。
「いえ、この話は、後にいたしましょう。まずは、ミュシア様にお顔を見せて、安心させてさしあげねば」
「うん。では、後でな、ネリグ」
深々と頭を下げる元教育係と別れ、彼は足早に西の塔に向かった。
*
城で働く男たちや女たちが、リーグの姿を目にするたびに恭しく脇へよけ、勢いよく頭を下げる。
リーグは、奇妙な居心地の悪さを感じた。
王都の近衛兵団では、最も年若い団員の一人として、自分が頭を下げる機会のほうが多かったのだ。
領主の息子としてこの城に生まれ、暮らしていた少年の頃は、人にかしずかれることが当然であり、何とも思わなかった。
このような感覚を持つようになったことこそが、大人になったということなのだろうか。
久しぶりの城内だったが、建物の位置関係は体にしみついている。
リーグは家畜小屋の横をすり抜け、壁の端のくぐり戸を抜けてもう一つの中庭を通り、西の塔に近づいていった。
石が黒ずみ、半ばまで蔦に覆われた塔の威容は、初めて見る者に威圧感を感じさせずにはおかない。
だが、リーグにとっては、ひどく懐かしい風景だった。
二つ下の妹ミュシアは、生まれてからずっとこの塔に暮らしている。
その年はじめてのスミレが咲いたときにも、川で美しく透きとおった石を拾ったときにも、リーグは飛ぶように塔の螺旋階段を駆け上がり、手に入れた宝物を妹に見せたものだった――
リーグは服装を整え、剣帯の位置を正して、分厚い木の扉を押し開けた。
そのとたん、すぐそこに立っていた青白い顔の男と真正面からぶつかりそうになり、リーグは飛び退きながら反射的に剣の柄に手をかけた。
男が黒っぽい服を着ていたせいで、まるで首だけが影の中からぬっとあらわれたように見えたのだ。
いや、それだけではない。
この塔の中に、男がいるということが、信じられなかった。
「おや」
男はわずかに目を見開き、さして驚いた様子もなく声をあげた。
「貴方は……ああ、なるほど」
それだけ言って、リーグを招き入れるように腕を動かしながら、暗がりの中へと引き下がった。
まだ信じられない思いのまま、リーグは塔の中に踏み込んでいった。
円形の床は土が剥き出しになっており、片隅に小さな卓と椅子が置かれていた。窓はなく、短くなった蝋燭が壁の窪みで燃え、卓の上には大きな書物が置かれていた。
男は長い腕を階段のほうへ振ってみせると、立ち尽くしているリーグのことはそれきり忘れたような態度で席に戻り、書物の上に身を屈め、蝋燭の灯りで熱心に読みふけり始めた。
リーグは、唖然とした。少なからず、腹立ちも覚えた。
男の態度は、領主の息子に対してあまりにも無礼であるように思えた。
この男は、学者なのだろうか。なぜ、ここにいるのだろうか。
王都の「大学」で、似たような男たちを見かけたことはあった。俗世の出来事に関心を示さず、学問に生きる男たちだ。彼らもまた、リーグが側を通り過ぎても、視線すら上げようとしなかった。
この男も、そういう者たちの一人なのだろうか。
だが、リーグは一目見た瞬間から、この男に対する一種の反感を持ってしまっていた。こちらをあからさまに無視する態度に、何か、底意があるように思われてならなかった。
とはいえ、今さら咎め立てするのも、まるで礼儀にうるさい老人になったようで嫌だ。
リーグは、わざと勢いよく体の向きを変え、塔の壁に沿って左回りの螺旋階段をのぼり始めた。
階段の途中にも窓はなく、下の蝋燭の灯りが遠ざかるにつれて、あたりは暗くなった。
やがて、分厚い木の天井が近付いてくる。それがそのまま、上の小部屋の床板となっているのだ。板の一部分が四角く切られており、懐かしい跳ね上げ式の戸がついていた。
リーグは、ほんの少しためらった。昔は、この戸を開くのに、ためらったことなどなかった。
だが彼は結局、昔と同じように、何の合図もすることなく、そっと戸を押し上げた。
*
塔の上の小部屋には、南に向いた縦長の窓がたったひとつ開けられていた。
そこから射し込む陽光だけが唯一の光源だったが、それも分厚い石の壁に阻まれ、板のように細い光がひとすじ、かろうじて床に達しているだけだった。
室内は、灰色の薄闇の中に沈み込んでいた。その薄闇の中に、彼の妹はいた。
陽光を避けるように、彼女は窓から離れたところに椅子を置き、こちらに背を向けるようにして座っていた。
四角く切り取られた空を眺める彼女のかたわらの床には、針と糸をおさめる籠があり、刺繍をするための大きな木枠が立てられていたが、枠には布がかけられていなかった。
リーグは、じっと妹の姿を見つめ、胸を締めつけられるような思いでいた。
だが、内心を妹に悟られてはならぬと笑顔をつくり、再び声をかけた。
「ミュシア。――ミュシア!」
ミュシアは、森で物音でも聞いた人のように、さっとこちらに顔を向けた。その瞬間の彼女の顔には、警戒するような表情がはっきりと浮かんでいた。
しかし、部屋の入り口に立ったリーグの姿をみとめると同時、白い顔にぱっと花が咲くように笑みが広がった。
リーグは、また胸が締めつけられるような気がした。
明らかに、ミュシアはリーグの姿を目にするまで、耳にした物音が兄の声であるとは分からなかったのだ。
彼女の聴力は衰えていた。五年前よりも、ずっと悪くなっていた。
「兄さま!」
だが、澄んだ声の響きは五年前のままだ。
ミュシアは立ち上がり、リーグを迎えた。兄と妹は、弱々しい光の中でしっかりと抱き合った。
ようやく腕をほどくと、ミュシアは微笑みながら言った。
「驚いた! 今、ちょうど兄さまのことを考えていたところだったの。町までお戻りになっていることは聞いていたから、いつ来てくださるかしらと思って。久しぶりに会えて、ほんとに嬉しいわ!」
「きれいになったな、ミュシア」
リーグは呟くように言った。
さらしたように真っ白な肌や髪、紅玉の色をした虹彩は、確かに異相といってよい。だが、持って生まれた顔かたちや姿の良さ、そして活き活きとした表情が、それらの特徴をかえって神秘的なものとして浮き立たせ、一種独特の美を生み出していた。
壊滅の魔女と呼ばれ、敵国に恐れられる白髪の乙女は、くすくすと笑った。
相手の顔を間近に見ることができるかぎり、ミュシアは相手との会話に何の不自由もなかった。唇の動きを読むことができるのだ。
「兄さまこそ、とてもご立派になられて。王都で兵学を修めてこられたのでしょう? さあ、どうぞ、こちらにかけて。今、飲み物を持ってこさせます」
ミュシアは壁に歩み寄り、呼び鈴の紐を引いた。
下で鈴が鳴り響く音がかすかにしたと思うと、ものの十秒後には、跳ね上げ戸をがんがんと叩く音が聞こえた。
「入りなさい」
ミュシアが声をかけると、戸が開き、下にいたあの男が顔を出した。
礼を失するほどに乱暴な叩き方は、ミュシアに聞こえるようにという配慮だったのであろうが、リーグには、やはり不愉快に思えた。
体を使うことなど全くしないような見た目をしていながら、これほどの速さで駆けつけてきたことも、足音が一切聞こえなかったことも、全てが気に入らなかった。
「兄さまに、飲み物を。私にも」
男は軽く目を伏せてうなずき、戸を閉めて姿を消した。ミュシアはリーグを振り向き、微笑んだ。
「アトリは、とてもよく働いてくれるの。私の世話もしてくれるけれど、本当は、まじない師で、私の呪いを解くために力を尽くしてくれているのよ。それでね……」
彼女が一瞬、言いよどんだのは、兄の反応を察していたからだろうか。
「今度の戦には、一緒に出ることになったの」