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かくして、復讐の花は咲きにけり ―濘国宦官物語―

 満天の星の下、街が燃えていた。突如あちらこちらから火の手が上がり、それが瞬く間にみやこ中へ広がったのだ。多くの人々が逃げ惑い、恐慌状態に陥っているようで、皇帝の住まいである太極宮たいきょくきゅうにまでその声が届いていた。


 そんな太極宮を、皇帝つき宦官かんがんである青黎康せいれいこうは走っていた。使用人らが逃げようとして、だけどどうすれば良いのか分からず右往左往する中、彼はまっすぐ前を見つめて走る。向かうのは皇帝の寝室だった。皆、自分のことで精一杯で、それゆえ皇帝に事態の報告が言ってない可能性があったからだ。その証拠に、今のところ皇帝からどうしろ、との指示が出ていない。


(もう指示を出してお逃げになられたが、それが上手く伝わってないだけという可能性もあるけれど……)


 おそらく、それはないだろう。皇帝はたいそう慈悲深く、素晴らしいお方だ。そんな方が民を見捨てて逃げるなど絶対にありやしない。だからきっと皇帝に上手く現状が伝わっていないか、もしくは伝達が上手くいってないのだろう。

 そう思いながら黎康は走り続け、やがて皇帝の寝室が見えてきた。その周囲に人がいないことを訝しみながらも、黎康は「陛下!」と言いながら扉を開けた。


 果たして、そこは血の海だった。とてつもないほどの鉄臭い匂いが漂ってきて、思わず鼻を覆う。それくらい、多くの血が流れていたのだ。

 赤黒い海に沈むのは、黎康と同じく皇帝つきの宦官たちだった。彼らは皆一様に目を見開いたまま、驚愕の表情で倒れ伏していて、思わず呆然とする。どうして、と、唇を動かした。どうして、こんなことに。いったい誰が……。


 そのとき、「黎康か」という声が耳を打った。のろのろと顔を上げる。

 皇帝が、出窓の傍に立っていた。まだ三十にも満たない、年若い主。彼は欄杆らんかんに左手を預けており、体勢からしておそらく、空を見上げていたのだろう。麗しいかんばせは月光を受け、いつもよりいっそう青白く、その美しさを人間離れしたものへと昇華させていた。


 だけど、ふと、違和感を抱く。どうして皇帝は、こんな血の海でも平然としていられるのだろう。今まで仕えていた宦官らが、同じ部屋の中でこと切れているというのに。

 それに、もうひとつあった。太極宮は皇宮の北端に位置しており、市街からは離れている。そんなところにまで民の悲鳴が聞こえてくるほど、街は混乱に陥っているにも関わらず、皇帝はただ空を見上げるだけで何もしていないようだった。あんなに民思いの素晴らしい皇帝が何もしてないなんて、おかしい。


 ざらりとした不安を覚え、黎康は思わず一歩あとじさった。すると、皇帝はすっ、と目を細める。何も後ろめたいことはないはずなのに、責められているような気がして、黎康は皇帝から視線を逸らした。

 それが良くなかったのだろうか。皇帝が再度「黎康」と呼びかけてきた。その声は冷たく、厳しく、苛立ちを含んでいるように感じた。黎康は「はい」と短く応じて、皇帝の方へ視線を戻す。


 すると、皇帝はうっそりと笑みを浮かべ、欄杆から手を離し、こちらへ向けてゆっくりと歩いてきた。黒と紫の皇帝服が揺れる。何かがおかしく、頭の中では警鐘が鳴り響いているけれども、どうしてかここで逃げたらいけない気がした。黎康がじっと立っていると、皇帝が腰に下げた鞘から剣を抜く。


 そこにはべっとりと、赤黒い血がついていた。


(……どういうことだ?)


 呆然と、月明かりに輝くそれを見つめる。倒れている宦官に、死体に無関心な皇帝、そして彼の手にある血に塗れた剣。それだけ揃えば、誰が宦官を殺したのか、嫌でも分かってしまう。だけどそれはありえないことだ。だって、皇帝は気高く、優しい人物で、そんなことしないはずで……。


 ぼけっと突っ立っている間にも、皇帝は血を跳ねさせ、死体を蹴りながら進み、黎康の少し手前で立ち止まった。その顔には、ほの暗い笑み。

 唇が動いた。


「じゃあな、黎康」


 その言葉とともに、剣が振り上げられて――。

 黎康は慌てて体をひねって避けようとした。けれども行動が遅かったらしく、背中に激痛が走る。焼けるような痛み。宦官になったときよりも痛い気がするのは、信頼していた皇帝に斬られたからかもしれない。傷のないはずの胸が痛かった。


 そんなことを思いながら、黎康は外へよろよろと飛び出した。そのまま逃げようとして、だけどすぐに背中からさらなる痛みが襲いかかってきて、足を止める。せり上がってくる血を吐きながら胸を見れば、剣先が生えていた。


 それをどこかぼんやりとした目で見つめていると、全身から急速に力が抜けていった。思わず倒れこむ。顔が床にぶつかるのはひどく痛かったが、首から下は何も感じなかった。

 ああ、死ぬのか、と思った。理由も分からないまま、信じていた皇帝に殺されて、体は炎に巻かれて……。

 そのとき、虚ろな声が鼓膜を揺らした。


「復讐を、したはずなのにな……どうして、こうも虚しいのだろう」


 皇帝のものだった。迷子の子供のように孤独で、頼りなさげな、今まで一度も聞いたことのない声色だった。

 復讐、と、黎康は心の中でつぶやく。復讐。いったい何がそれ(・・)なのだろう。黎康らを殺したことか、それとも――。


 だけど答えが出るはずもなく。

 黎康の意識は次第に遠のき、闇に溶けていった。



   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 ほんのりと、頬に日の当たる感覚がして、黎康はゆっくりと瞼を押し上げた。真っ青な空がそこにはあった。白い雲が浮いており、名前も知らない鳥が二羽、並ぶようにして飛んでいた。

 そんなのどかな光景をぼんやりと見つめる。そもそも、今まで何をしていたのだろうか? ゆっくりと頭を動かして――確か、そう、みやこが燃えて、皇帝の元へ向かったら、その彼に殺されて……。


 ぶるりと身を震わせた。そうだ、殺されたのだ。殺されたはずなのに、


「どうして生きている……?」


 そう、思わずつぶやいた声は、聞き慣れたものとは少し違った。黎康は慌てて喉を押さえる。その感触に、どことなく違和感を感じた。だけどその正体が掴めなくて首を傾げていると、「黎康!」と声がした。

 それを聞いた瞬間、どきりと心臓が跳ねた。つ、と、冷や汗が背筋をつたい、地面についていた手のひらからもじんわりと汗がにじんだ。呼吸が荒くなる。


 ――皇帝の声だった。敬愛していた主の声。


 殺されたときの感覚がよみがえり、黎康は今すぐ逃げ出してしまいたくなった。だけれども足腰に力が入らなくて、立ち上がることさえできない。


 しばらくして、目の前がかげった。「黎康?」と、訝しげな声が頭上から降ってくる。

 ふと、その声が、黎康の知る彼のものよりも幾分か若々しいことに気がついた。ハリがあって、代わりに皇帝としての貫禄がない。


 ――目覚めてからこれまでに感じてきた違和感。それをあわせると、あまりにもおかしくて、馬鹿馬鹿しい、ある結論が導き出される。現実にはありえないようなもの。たとえあったとしても、黎康のようないたって普通の人物にはには降りかかるはずのないものだ。

 だけど一度その考えが思い浮かぶと、そうとしか思えなくて。それを確かめるため、黎康はおそるおそる顔を上げ、皇帝を仰ぎ見た。


 そこにいたのは、確かに皇帝だった。だけど皇帝ではなかった。

 まだ少年のような顔立ちをしており、おそらく十五歳ほど。衣装も豪奢なものだが、禁色を使っておらず、皇帝の着るようなものではなかった。つまり、彼はまだ皇帝になっていないのだ。


 ぽかん、と口を開けて、彼を見つめる。まさか、そんな、と心の中でつぶやいた。こんなこと、ありえるはずがない。時間が巻き戻る(・・・・・・・)なんて……。

 思わず「へいか……」と、喘ぐように呼びかけた。彼はすっ、と目を細め、厳しい面持ちで黎康を見下ろした。その表情に、殺されたときのことがよみがえり、冷や汗の量が増えた。

 彼が口を開く。


「何を言ってるんだ、黎康。私をそう呼ぶのは、皇帝陛下に不敬だぞ」


 ああ、そうだ、まだ彼は皇帝でなかったのだ。そのことに思いいたり、黎康は慌てて「すみません」と謝罪した。今、彼が皇帝でないことは予想できていたが、動転してしまっていて、そこまで気がまわらなかった。


 すると、彼は目元を和らげ、「なら、いい」と言った。ピリッとした雰囲気が霧散し、ほっと息をつく。すると「隣、いいか?」と尋ねられたので頷けば、彼は地面の上に直接座りこんだ。さぁ、と、風が吹く。彼は気持ちよさそうに目を閉じ、髪をなびかせた。


 よくよく辺りを見渡せば、ここは東宮の、それこそ皇帝――皇子と黎康くらいしか来ない池の傍だった。景観が悪いため女官も来ることがなく、幼いころからよく二人でここに来て息抜きをしていた。だからおそらく、彼はそれが目的で来たのだろう。人がいるところでは見せない、柔らかな表情を浮かべていた。


 そんな皇子の横顔を見ながら、黎康は考える。今がいつなのか正確には分からないが、時間が巻き戻った。それならば、黎康が死なずに済む未来に変えられるのではないだろうか?


(きっと、私がこうして記憶を持ったまま時間が戻ったのは、神のおぼし召しに違いない。陛下が――殿下が過ちを犯さないよう、こうしてくださったのだ)


 そうであるならば、神の願いに応えなければ。殿下が今度こそ間違った道へ進まないよう、きちんとしなければ。そう思いながら、黎康は空を見上げる。いつの間にか、名前も知らない二羽の鳥は、どこかへ飛び去っていた。

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