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僕が好きだからトロける君から離れたい

 剥き出しのコンクリートで出来た床は冬の寒さも相まって氷の様に冷たい。ヒビ割れた窓から差す夕陽に色濃く写し出される僕らの影。


 耳にかかる吐息、砂糖菓子の様に甘い匂い。薄いブラウスから覗く柔らかそうな肌。重たげな黒い長髪が灰色の床で半円形に乱れている。


「我慢しなくて良いんだよ」

 髪と身体を揺らしながら大きな黒い瞳で真っ直ぐ見つめ覆い被さった僕が触れるのを待っている。

「ッ……」

 奥歯をキツく噛み締める。そうしたい。そうしたいけれど、それをするには『足りない』んだ。


 悲しまない心が。

 それがあればきっと彼女を、


 殺してしまえるから(好きになれる)


「なんで……僕なんだ……」

 口に出すつもりの無かった言葉が自然と漏れていた。……同時に涙も。

 体を起こして彼女から距離を取る。全体像が視界に納まって、やっと僕達はどれ程近くに居たかを知った。指先一つ動かせば触れられる距離。それがどんな意味を持つのか、彼女は分かっているのに。


「なんでって……ただ、私は恋人になりたいだけ」

 そう言って起き上がった彼女は短くなった(・・・・・)黒髪をくるりと指先で(もてあそ)びながら囁いた。(とろ)ける様に甘い声色で。


「『人』を好きになるのが最も人間らしいもの」

 そう言いながら腕を伸ばし、刻まれた傷痕の数々を見せつけてくる。裏も表も無い、痛ましく醜い傷痕。抉れたまま戻らない傷痕。変色し腫れ上がった傷痕。傷痕、傷痕、傷痕、傷痕。

 全て、僕が拒んだ傷痕(あかし)


「君はいつ私を殺して(愛して)くれるの?」

 目を閉じて唇を手首に当てた。

 数秒が経ち彼女が口を離す。その唇は朱色に染まり、手首には鮮血。血が音を立て床を汚していく。陽光に照らされた小さな湖が輝きを帯びていく。


 彼女は傷を抑えながら楽しそうに笑う。

 まるで遊園地に来たみたいに。

「これが恋の痛み……」

 それは違う。喉元まで出かかって、飲み込んだ。止血する指の隙間から漏れ出す血液があの時(・・・)を思い返させたから。


 彼女はソレを楽しめるんだ、僕と違って。

 破滅しかないと分かりきっているのに。


 ◆


 始まりはーーいや、最初から始まりだった。


 一番古い記憶は母親の怯えた目、一番最初に覚えた言葉は「触らないで」だった。年中、肌を隠す事を徹底させられ幼稚園、小学校の先生達は常に不安そうな目をしていた。


『さっ、帰ろ……ユウ』

 毎日、園の前で母親がおずおずと差し出す手はいつも震えていて、僕がその手をぎゅっと握ると、ぎこちない笑顔を浮かべる。その表情を見たくなくて車道と歩道の白線(境い目)に目を落としながら帰るのが日課だった。小学校になって手は繋がなくともそれは変わらなくて、だから小学校四年生になって初めて反抗した。今までの服装を守れるならと約束を取り付けて。


 小学三年生の三月、前園夏希(クラスメイト)に初恋をした。けれど『触らないで』という母親の言葉が呪いみたいに、たった一歩を躊躇わせた。そのまま数ヶ月が経って七月。

 今でもこの時期、この日の記憶だけは鮮明だ。いつ、なにを、どう感じたか、全て思い出せる。


 その日は暑くて袖が長いから強烈に蒸れる。だから袖を捲り上げて学校に行った日。

 ーー初めて母親との約束を破った日。


 二時間目。

 算数を習っていた時、勢いよく教室の扉が開いて、その向こうに母親が立っていた。肩で息をしながら教室に入って来て、僕の前で足を止める。


「なんでっ、っ、なんで!」

 嗚咽、怒り。恐怖。混濁とした声。

 どうして怒っているのか自分を見下ろしてやっと約束を思い出す。


「なんで、私の言う事が守れないの!」

 感情の波は止まらない。周りの目も気にせず、顔を歪ませながら泣き、叱り、そして関係無い事まで持ち出してきて、最後に「ひゅぅ」と短く小さく呻いて崩れ落ちた。悪い事をしたなら謝る、当たり前の事だ。なのに僕は逃げだした。


 怒られている所を見られたく無かった。

 クラスメイトに、好きな人に。

 そんな馬鹿げた理由で逃げだした。


 教室を飛び出して、上履きのまま学校の外へと駆け出した。横断歩道が赤に変わって立ち止まり、家の方向へと走っている自分に気がつく。


 辺りを見回してもただ家が並んでいるだけのいつも通りの光景。いつも通りに車が知らない道へ消えていく光景。


 母親の怒る顔が脳裏に過る。

「僕は悪くない……っ」

 ちっぽけな反抗心がその車を追いかけさせた。道を曲がると別の車が僕を追い越して消え、それを追いかけて、追いかけてーー。


 僕は道を踏み外した。


 その先の景色はいつも見る場所と変わらないのに輝いて見えた。細い路地を通れば痩せ細った猫が居たり、嗅いだ事ない匂いがしたり。


 そうしている内に日が暮れていて、僕は知らない公園に辿り着いた。砂利混じりの茶色い土、音の鳴るブランコ、変色した滑り台。公園を眺めていると、


「あれ? ゆうくん?」

 海歌ちゃんの声が聞こえて振り返る。公園の入り口に、ランドセルのベルトを握りしめた彼女が立っている。


「何してるの、お母さん心配してたよ」

 彼女が近づいてきた。

「う、海歌ちゃんこそ何してるの」

「わたしの家この先だから、帰り道なんだ」

 にへへと彼女が笑う。その笑顔に胸の奥が締め付けられる。この感情がどういうものかはよく分からない。けど、彼女を見ているといつもこうだ。


 だから僕は彼女が好きなんだ。

 訳がわからない何かを与えてくれた彼女を。


 風が止み、辺りは静まりかえる。時間も止まったかのようで、喉が渇く。心臓がバクバクと音を鳴らしている。


「ねぇ、海歌ちゃん……」

 僕の顔を見て彼女が少し驚いた表情を浮かべ「な、何……?」とランドセルを持つ手をぎゅっと締める。


 勇気を振り絞り、彼女の手を握る。

 好きです。

 そう言おうとして、


 泥を掴んだみたいな感触が返ってきた。

 手の内が熱い。肉の焦げる臭いがして、握った手を離そうとした。その瞬間、指の隙間からドロドロとした肉が


 ーーーー(とろ)け落ちた。


「えっ……」

 その声を漏らしたのはどっちだったか、顔を見合わせるとその間を白煙が登っていった。

 僕達の足下は赤く染まっていて、彼女の手の感触はもう無くて、僕の手は何も握っていない。

 手を開くとへばりついたゲル状の物体がニチャァと伸びた。


 一歩二歩とたたらを踏んで、

「あぁあああぁああーーーー!!!!」

 彼女とは思えない獣の叫声があがる。痛いと熱いしか知らないかの様に二つの言葉を何度も繰り返し、無くなった手を抑えてうずくまる。


「大丈っーー」

 手を伸ばしてしまいそうになって、引っ込める。

 触れちゃ……駄目だ。


 やって来た大人達がその場で救急車と警察を呼んだ。大人達に取り抑えられたが、抵抗も言い訳も出来なかった。


 その日から僕は学校に行けなくなった。

 後日、僕が『奇病』に罹っている事を両親から知らされた。


 異人病。ある日突然、全世界に広まった病気。

 特定の感情をトリガーに、対象に触れる事で『溶かす(発症)』する。特定の感情というのは恋や友情嫉妬、殺意など様々だ。

 僕は第一世代。危機感も病気への理解も薄く「個々人の判断でどうにかして」と言われていた時代。その所為で僕の様に、殺人にも発展する事件事故が多発して、やっと世間的に認知され対策に乗り出した。僕らを守る動きも有れば過激な意見を叫ぶ集団も増えた。

 

 ーー六年。現在(いま)は高校生。

 『化け物』用の通信制の高校に通っている。

 そして今日は学校で定期健診が行われる。その為だけの登校日だ。服すら焼き尽くすから無意味なのに、外に出る時は手袋、マスク、メガネ、マフラーを着ける。皺くちゃの制服に袖を通し、フード付きのパーカーを目深にかぶって、長い靴下を履く。体の変化、位置情報などを送る機械仕掛けの腕輪を袖に隠す。


「母さん」

「はい、はい。うん、良いよ」

 僕のトリガーは『恋情』。心傷(トラウマ)をおっているのも含めて再発の可能性は低いとされて、母親のチェックを受けるだけで済む。今は。

「いってきます」

「真っ直ぐね」

「うん」


 駅構内ですれ違うたびにチラ見される度にその視線に息がつまる。ホームへの階段を駆け上がると人が居なくて、少しだけ安心した。


 五分ほど待っていると電車が来た。電車内は空いていて、僅かに人が居るだけだ。端っこに座り発車するのを待つ。


 また一分ほど待っていると扉が閉まり動き出す。揺れる車内、ドンっと肩が当たる。心臓が止まった気がした。精一杯の声を出して謝る。

「すいません……」

「いえ、お気になさらず」

 横を見ると長い黒髪を蓄えた制服の少女、同年代。でも……いつの間に。


「あの……」

 少女が話しかけてきた。僕はそれを無視する。なのに彼女は構わず話を続けてきた。

「夏、ですよね。暑くないんですか」

 暑い、が黙ったままでいた。数秒が経ち「あぁ…」と彼女が吐息を漏らす。

「その腕輪……ふふっ」

 微かに見える腕輪を見て笑うと彼女が立ち上がり席の前に立つ。咄嗟に顔を伏せるがフードを取られて、顔を覗かれた。

「何するんですか……」


 目と目が合う。宝石の煌めきを宿した黒の瞳、けれどその瞳は暗く純粋で、何も無い。


 ーー『化け物』の目をしていた。


「ふふっ。優しい『人』の目をしてる……。羨ましい、良いなぁ。良いなぁ。なんてズルい……」

 うわ言のように、嫉妬と羨望に満ちた感情(こえ)を吐き出しながら、彼女は笑みを浮かべた。

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