ばじとうふ~! あたしの好きにするんだからっ!!
「モーフィアス様~、モーフィアス様~?」
桃色のコウモリ姿をした小間使い、サリーが小さな羽をはためかせる。
訪れたのは魔王城の調理場。
皮を剥がれた地底イノブタがフックに吊られ、ブランコのように揺れている。
火にかけられた鍋の中は、マグマのように真っ赤に煮えたぎっていた。
その端の調理台に人影が一つ。
外套に身を包んだそれは、鼻歌混じりで作業をしているようだった。
「あ、いたいた。モーフィアス様!」
「あら……その声はサリーね」
サリーの声が届いたのか、九代魔王の一人息子モーフィアスが振り返る。
黒髪は肩に届くほどの長さで目鼻は整っており、一見すると魔族というより人間の女性のような見た目であるが――
「モーフィアス様と人間界へ行くよう言われたんですが……うわ! 何ですかその顔」
振り返ったモーフィアスを見て、サリーが声をあげた。
持ち前の端正な顔立ちも、今や見る影もないほどにあちこち腫れ上がっていた。
魔族ですら顔をしかめるほど醜さだ。
「パパにやられたのよ。ほんと酷いわ、乙女の顔をこんなにするなんて」
あんたは男だろう――という言葉を飲み込むサリー。
「また何かやったんですか?」
「なにもしてないわよー。またパパの癇癪だわ、いやね歳をとるって」
モーフィアスは腫れた頬を膨らませて「プンプン!」と怒ってみせると、再び作業に戻る。
サリーは肩越しに覗き込む。
「何やってるんです?」
モーフィアスはブッチャーナイフを器用に使い、黒い塊を細裂にしていた。
「何って、刻んでるのよ。チョコレートを」
「あ、またお得意のスイーツ作りですか? 出来たら私にも下さいよ」
「あーら残念、これは今からセシルちゃんに持っていくものなの。ここへ招待するのに手ぶらで伺うのも無粋でしょー?」
サリーは眉をしかめた。
「え……ちょっと待ってください。セシル姫って人間界の王女様ですよね」
モーフィアスは手元から目を離さず「そうよー」と相槌を打つ。
「たしか人間界から同盟破棄、さらに我々に宣戦布告されましたよね?」
「そうねー」
「ていうか、人間界代表として宣戦布告したの、セシル姫の父でしたよね」
「みたいねー」
頭をひねるサリー。
「え……と。つまり敵対関係にある相手の娘を招く……んですか。この魔王城へ」
「そう。早速セシルちゃんを招くよう、パパが言ったの」
「ナイアラット様が!?」
九代にして現魔王、ナイアラット。本気になれば魔界どころか人間界まで消し飛ぶと恐れられる、魔界史上最強の王だ。
そんな魔王が人間を招待するなど想像もできなかった。
どのようなお気持ちの変化があったのか――と、サリーは頭を抱え始める。
そんなサリーを尻目に、モーフィアスは小さく呟いた。
「パパが言ったんだからね……あたしに任せるって。誘拐も招待も、たいして違いはないわよね」
*
魔王城、玉座の大広間。
魔界の重鎮らが一堂に会し、両脇に並んでいた。
溶岩の中に住まうサラマンダー、死の森を根城にするダークエルフ――その他の顔ぶれも、魔界の種族の代表らばかりだ。
奥の椅子に座しているのは、魔界の頂点に君臨する九代魔王、ナイアラット。
彼を一言で言い表すとすれば『闇』である。
身体全てが黒一色であり、目と口だけが白く、鋭く闇に浮かんでいた。
身体は人間と同じ形をしているが、その背丈は人間五人ほどの大きさだ。だがその姿も便宜上のためでしかない。
ゆらゆらと黒き炎のように揺らめく身体は、ナイアラットの自由自在に変えられる。
ある時は雷雲を駆ける龍となり、ある時は地面と同化し漆黒の底無し沼にもなる。
もはや生物という枠を超えた『神』に等しい存在だ。
「……よくぞ集まった」
低く、地を這うような声が広間に響き渡る。
一瞬で空気が重さを纏う。
「此度……人間界の王、ライナスより書簡が届いた」
紙切れを掲げるナイアラット。
その言葉に「そんなことか」と安堵する重鎮もいた。だが、長らく仕えた配下らはナイアラットから漏れ出す怒りを察し、身を強張らせた。
「長らくに渡って魔界と人間界の血生臭い争いがあった。ちょうど百年程前、慈悲深き我が父ヴェーコンが停戦と同盟の提案をこちらから申し出た頃だ。そのような時期に書簡とは同盟の継続だと思っていたが――」
椅子の肘掛に載せた腕が僅かに震える。
「此度の内容は、我が魔界との同盟破棄。そして我々への――」
玉座の肘掛から両腕が離れる。
目ざとく察知したナイアラットの配下らは一斉に目と耳を塞いで身を低くした。
「宣戦布告だ!!」
瞬間、大広間の壁がたわむ。
油断していた重鎮らは、ナイアラットから放たれた音速の咆哮に吹き飛ばされた。
吊りさがった魔界製のシャンデリアが粉々になって鎖やフレーム、ガラス片が降り注ぐ。
「我々は穢れた卑しき汚物であり、醜き不快害虫であると……そして全ての魔族を滅ぼすとぬかしおった‼ 許さぬ……我ら魔族を愚弄したことを後悔させてやる!!」
モーフィアス! と怒号が響く。
すると、一つの人影が脇から広間中央に姿を現した。
肩まで届く黒髪はナイアラットの咆哮でくしゃくしゃに、服装は黒と赤を基調にした外套を纏っていた。
シャンデリアの成れの果てを踏まないよう、ステップを混じらせてナイアラットの前へ躍り出た。
「はぁいパパ」
お茶目な女子のように手を開いて笑顔を向ける。
「モーフィアス……貴様は人間の造詣が深い。これより単身で人間界に紛れライナスの娘、セシル姫を攫ってくるのだ。ちまちまと殺るのは好かん、姫の奪還に息巻いてやってくる阿呆どもを我が魔界に誘い込むのだ。我が一撃で雑兵を無に帰してやる」
配下らは、その唐突なナイアラットの言葉に声を出せなかった。
それはモーフィアスも同じだった。
たった今、魔界と人間界の全面戦争が決まったのである。瞬時に理解しようにも無理がある。
だが、彼らの反応など気にする素振りもなく、煮えたぎった怒りを呪詛のように呟く。
「ライナスめ……待っていろ。彼奴の腑を引きずり出して七日間苦痛に顔を歪ませ、許しを請う奴の前で娘の頭蓋を引き抜いて酒杯にしてやる……」
地鳴りのような低い笑い声が、大広間に広がる。
思わず、配下らが背筋を震わせる。
だが、モーフィアスだけは唇を尖らせていた。
「やだっ、ばんぞく~~!!」
モーフィアスの声が大広間に反響した。
途端、ナイアラットの笑いがピタリと止まる。
並の心臓の持ち主なら重圧で鼓動を止めたであろう。だがモーフィアスは続けた。
「もしかして、何かの間違いかもしれないじゃなーい。第一、私とセシルちゃんはズッ友なんだからそんな酷いことできるわけないじゃない! じょうしき~~!!」
配下らの背筋は氷点下まで冷え込んでいた。
誰もがこの場から一目散に逃げ去りたいと願っただろう。
ナイアラットは静かに、モーフィアスの前まで歩み寄る。
そして、くしゃくしゃになった紙切れを見せつけた。
「間違いかどうか見てみるがよい……」
「どれどれ~」
と、内容を読もうとモーフィアスが顔を近づけた瞬間だった。
頭上から、大槌のようにナイアラットの拳が振り下ろされた。拳が頭頂部を捉え、モーフィアスの顔面が真下へ叩きつけられる。
龍の炎にも耐え、酸の沼に漬けても溶けることのない魔石が敷き詰められた床。
それが叩きつけられたモーフィアスの頭を中心に、蜘蛛の巣のようにひびが走る。
「ひっ」
配下らが思わず悲鳴をあげた。
ナイアラットの怒りはそれだけでは収まらなかった。
代わる代わる拳を振り下ろしてモーフィアスの後頭部に叩きつける。
次第にモーフィアスの頭は耳が僅かに見えるほど床に埋まってしまった。
ナイアラットはそれでも飽き足らず、今度は足で踏みつけ始めた。
衝撃でモーフィアスの身体が何度も激しく跳ねる。
何分、続けられたであろうか。
モーフィアスの後頭部が床よりも下になった時、ようやくその暴行は終わった。
――あぁ、死んだな。
配下らは改めて主の恐ろしさを思い知った。
「解ったな、モーフィアス。姫を此処へ連れてこい――貴様に任せたぞ」
ナイアラットが玉座に腰掛けると、静かに口を開いた。
「う、うけたはまひぃ~」
一同が怪訝な顔をした瞬間――モーフィアスの身体が動いた。
埋まった頭を引っこ抜くと、ふらふらとした足取りで出口へと向かう。
その顔を見た者たちが一様に小さな悲鳴をあげる。
醜く腫れ上がっており、見る影もなかったからだ。
モーフィアスの姿が扉の向こうに消える。
ナイアラットは大広間を見渡し、おどおどとしたウェアウルフに目が止まった。
「おい貴様! モーフィアスの小間使いはサリーであったな!?」
ウェアウルフは辺りを見回した後、自分に問いかけられたのが解ると申し訳なさそうに口を開く。
「あの、申し訳ありません……私はその、庭師なので解り兼ねます」
言い終えてちらりとナイアラットを見やると、双眸が一文字に細くなっていく。
「ひ……」
「お前が何処のものか、など聞いておらん……。モーフィアスと共に人間界へ同行するようサリーに伝えろ」
「は、ははぁ!!」
慌ただしく出て行くウェアウルフ。
静まり返った大広間で、ナイアラットは唇を半月に歪める。
魔王城に、怖気の走る笑い声が木霊するのであった。