よろず屋マイカとお気楽人魚は、終末の街の底で舞う。
肉を、喰った。
その時、その肉が何なのかを考えようともしなかった事を、私は今も後悔することがある。ただいつもは死骸を啄んでいる海鳥達が、それに限って近寄らないことには少しの疑問を持ちながら、でもその時私の中では、飢餓感が勝ったのだ。
浜辺に打ち上げられている以上、魚か何かだろう。もしかしたら鯨の子供かもしれないが、ともかく寄生虫には当たらないようにと願いながら、念入りに噛んだ記憶がある。
砂浜に横たわったそれは、私が見つけた時には既に、頭を失くしていた。対照的に首から下は比較的綺麗で、だからこそ食そうと思い至ったのだ。身体はすらっとしていて、腕など特に細く、五本の指も華奢。
腕。
そう、あの時私は気付くべきだったのだ。あの死骸には間違いなく腕があった。魚のようでいて、その節々にヒトの特徴を兼ね備えていたのだ。常人なら直ぐに気付いただろう。しかし何度も繰り返すが、私は極限状態だったのだ。注意力は散漫だった。
肉は少し淡白な味で、ほんの少し海の香りがした。
私が人魚の肉を喰ったのは、こういう経緯だった。
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「なぁマイカ、海行こう」
呼び声を無視し、私は一心に、台所に溜まった食器を洗っていた。ずぼらな性格が災いしてか、一人分の皿は塔のように積み重なっている。水が冷たい。
「マイカぁ。なァ聞いてる?」
「嫌よ。冬の海になんて絶対行きたくないし、今月はまだ仕事が残ってるわ」
私はため息混じりに水を切り、食器棚の戸を開ける。背中から、そうは言ってもサと不服そうな彼の声が聞こえた。
「泳がぬ人魚はただのヒトだぞ」
彼はその半透明の中性的な顔を不服そうに歪めながら、空中でくるりと回転し、尻尾をぱたぱたと振った。そう、彼とは人ではない。更に言うなれば、生きてすらいない。彼は、人魚の霊なのだ。
偶然とはいえ、私は人魚の肉を食した。それにより身体には、二つの変化が生じた。一つは地元の土地に古くから伝わる昔話のように、肉体の老いが止まったことだ。
周りには大層気味悪がられたが、十八という若さを保っていることは、なにかと都合が良かった。私の過去を知る者は、皆死んだ。新しい人生を切り出すには十分だった。
二つめが、彼である。肉を食べた後、鼻筋の通った黒髪の美青年が、死体から浮かび上がったのだ。私も自分の容姿にはある程度自信があったが、彼は遥かに美形だった。そして驚くべきことに、続いて出てきた首から下には、先ほどまで私が貪っていた、魚の身体がくっついていた。
人魚だ。私がその事実に気付き、浮かび上がったその姿に見惚れていると、それは興味深げに私の顔をじっと見つめ、やがて口を開いた。
『こんにちは嬢ちゃん。キミは肉と一緒に、僕の魂まで喰らったようだね。新しい魂の器として、これからよろしく。僕は−−−−』
幸い彼は、死体を食い荒らした私を呪うこともなく、私の魂は彼に押し出されることなく、共存するに至った。偉い学者様の話によると、害のない憑き物の一種だとかなんとか。ともかく結果として、彼は私のそばをふらふらと漂う幽霊となったのだ。
私たち自身も、未だに仕組みを理解しているわけではない。私はため息をつくと、不思議な因縁で結ばれた彼の名を呼んだ。皿洗いの残りは、帰ってからだ。
「美龍、仕事行くよ」
美龍、それが彼の名前である。
私はコートをきつく体に巻きつけ、今や愛用の品となった拾い物のキャペリンを被って長い髪を押さえた。扉を開けると、冷たい空気が肺に満ちた。
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私たちの住まいは、かつてトーキョーと呼ばれた地に作られたスラムの一画にある。林立する高層ビル同士は無数の連絡橋と階段で結ばれ、違法増築を繰り返した部屋一つ一つには、私のように複雑な事情を抱えた者たちが棲みついている。
「……今日の最初の仕事は、靴十足の納品ね。宛先は老靴」
私は螺旋階段を登りながら、先日家に届いた依頼書を読み上げた。なぜ私が靴の配達などしているのか。それはひとえに、私が『仲介業者』だからである。
「またあの爺さんか」
美龍は眠そうにあくびをする。
「靴は主食だもんなァ。あれでよく腹が膨れる」
「文句言わない。主食ニンゲン、なんてのより百倍気がラクよ」
老靴とは、この地区に住む妖怪の一人だ。
妖怪といっても、比喩としての妖怪ではない。昔話に出てくる、あの妖怪だ。まぁ人魚が実在していた以上、妖怪も存在していたのも頷ける。
だが、かつて栄華を極めた蛇蝎磨羯、魑魅魍魎の数々は科学文明の進歩に追われるように姿を消し、その存在は伝説となった。
だが、歴史は変わったのだ。
「……進歩しすぎたテクノロジーも考えものよね、はいご苦労さん」
私は錆びついた階段をつま先で弄りながら、ドローンから今朝の新聞を受け取った。美龍が私のポーチから小銭を取り出し、料金箱の中に落とす。カラン、と硬貨が底に当たる音が響いた。
妖怪たちは、復活した。とめどない進歩を続ける科学技術に対する民衆の『未知』や『無知』、『不信感』は、鉄の塊にもう一度、怪異の名を授けた。
歯車式の龍、解剖学者の愚行で産まれた合成獣、過剰投薬により甦った水落鬼や産鬼、天候衛星と接続した人造動物《魃》など。
妖怪たちは機械の肉を受け、もう一度この世界に産まれ落ちたのだ。
だが彼らは自分の意志を持つとはいえ、その多くは元は機械である。機械である以上、人に使役されることを前提としてプログラムされている。だがそれは仕えるべきヒトの激減により困難になり、妖怪たちは互いに助け合うのを余儀なくされた。だがこのままでは、命令系統などに問題が多く発生する。
そこで『元』人間の私は妖怪たちの仲介業者として、彼らの生活を回すのに一役買っている。いわば、よろず屋だ。もちろんヒトを憎む妖怪もいるし、楽な仕事では無い。
「こういうのなんていうっけ……電脳社会? 」
「黙示録の後日談、だ。残念ながら、最近はそもそも活字にすらお目にかかれないがな」
長く生きすぎた私たちの暇つぶしは、しばらくの間は読書だった。互いに考察を話し合う程度には、私たちは本に凝っていたのだ。私の好物は推理で、彼は幻想文学。一時期は共同執筆などもしていたが、ようやく仕上げた本を死海に落としてしまい、それ以来筆をとっていない。
「創作活動なんて、金と時間と心に余裕が無いと出来たもんじゃないわ。今のヒトにそれを求めるのは酷ね」
「その通り。まぁ、一部の妖怪……例えば文車妖妃たちなんかは、未だにせっせと本を書いているらしいがな。大方辞書の類いだろ」
そのジャンルは専門外である。私はざっと新聞に目を通すと、階段の外に放り投げた。この地区の地表はごみ処理場の役割を果たしているのだ。底で何が蠢いているのかは、知りたくもないし見たくもない。
「……やァ舞香チャン、今日も可愛いね」
突然私の名を呼ぶ声がした。驚いて振り返るとそこには、巨大な鞄を背負った青年が立っていた。美龍に負けず劣らず整った目元は、まっすぐ私を見て笑っている。そこから下は、布で隠しているのだ。誰も彼の素顔を見たことはない。
「おはよう百神、丁度良かったわ。お世辞はその辺にして、頼みがあるの。靴を十足ほど用立ててほしくて」
百神はいいとも、と気前よく笑い、鞄に括り付けていた、靴の入った袋を差し出した。
「知ってたの?」
「頃合いだからね。あの爺さんはきっちり2週間で靴を食べきる」
美龍が袋を受け取る。私は礼を述べると、代金を彼に手渡した。
「まいどありッと。さて、何か見ていくかい? 新たな付喪神も仕入れてある」
彼は商売人の目に戻ると、狭い階段の上に器用に品物を並べていった。歯車がむき出しになった茶釜や水筒の割れ目から、ぎょろっとした目玉がこちらを見据えている。付喪神だ。
百神は付喪神の商人なのだ。付喪、つまり九十九とは、百という完成まで一歩足りないという意味である。百に届かなかった九十九たちを売り捌く彼は、付喪神たちを超越した存在と言えるだろう。それゆえ、彼は百を名乗るのだ。
「いや、食器類は間に合ってる。また今度ね」
私は彼に一礼し、その場を後にした。なにせ食器は溢れている。これ以上増やすわけにはいかないのだ。
私は老靴の店の前で立ち止まると、帽子を脱いで暖簾をくぐった。店といっても、路地に隣接する壁を取っ払った住宅の一室である。部屋の中は薄暗く、世界中から集められた靴が所狭しと並べられている。部屋の奥に目を凝らせば、車椅子のシルエットが辛うじて見えた。
だがその影の主は、私が口を開く前に、こう告げたのだった。
「……舞香、お前さんに……死が見える」
「……え?」
馴染み客である老靴は、震えた指で私達を指差していた。美龍は驚きのためか、抱えた袋をどさっと落とした。
−−−老靴とは、死期を予言する妖怪である。
「ええええええ!?」
私と美龍の叫び声が、トーキョーの空に響き渡った。
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栄華を極めたヒトの世は既に壊れた。その文明の残滓は、全く別の者たちが引き継いだ。
−−−−天下は、妖の世である。