第七話 さよならは言わない
「さてと、行きましょうか」
「ちょっと待ってくれよ!」
すたすたと歩き出したアンナの腕を、ネスは半ば強引に引っ張った。あまりに勢いよく引っ張ったので、二人揃って転げそうになる。
「何よ急に。感傷に浸っていたのかと思ったら、痛いわね」
「ごめん……」
そう言いながらもネスは、アンナの手を離さない。じっとりと、自分の手が汗ばんでいる。
「あんた、まさか……」
アンナの顔が少しだけ赤らむ。先程の事故を思い出したのだろうか、つられてネスの顔も赤くなる。
そんなネスの手に、あの柔らかな胸の感触が蘇った。さっきは母の前ということもあり、ギリギリの所で理性を保ちなんとか抑え込んだものの、このままでは──不味いことになるとネスは気が付いた。
(落ち着け……落ち着け……!!)
すかさず掴んでいた手を離して、アンナに背を向ける。出発したばかりだというのに、ここで落ち着かねばアンナに罵られることは目に見えていた。
「き、聞いておきたいことを二つ思い出して」
「な、なんなのよ」
平静を装ったつもりのネスの声は、あからさまに上ずっている。そんな彼つられてアンナの声も上ずってしまった。それを隠すように、彼女は大袈裟に咳払いをした。
「ダフニスのことだ」
突如襲いかかってきたダフニスの正体。首を落としたにもかかわらず、アンナが「復活するから」と言ったあの男の正体を、ネスは昨夜聞き忘れていた。
「ああ、あいつは……他所の刺客よ」
背を向けてアンナは歩き出してしまった。その背中を追いかける。
「他所?」
「他所って言うのはあたしとあんた以外の破壊者のことよ」
「他所の破壊者がなんだって襲ってくるんだよ。世界の終わりを止めるために集結するんじゃないのかよ」
「世界の終わりを望む破壊者がいるってことよ」
「……本当かよ」
「あたしだってここ数年、そんな奴等と追い追われだったし、すぐ慣れるわよ」
アンナの言葉にネスはずしりと重みを感じた。
彼女は何年もの間ずっと一人で、死が隣り合わせのこの重圧に耐えてきたのだろうか。支えてくれる家族や仲間はいなかったのだろうか。実の兄は彼女の腕に呪いをかけたと言っていたが──。
(今のところ俺にはアンナがいる。命に代えても自分を守ると言ってくれる……けれどアンナにはそんな存在がいるのか?)
「自分が強くなればなるほど、命を狙われることは少なくなっていくわ。だからあんたも強さを身に付けなさい」
心の底から絞り出した、消え入るような声だった。
その寂しげな背中を見ると、そんなことは到底聞けなかった。ダフニスに襲われた時は、あんなにも頼もしく見えた背中なのに、今は全く別人の背中のように思える。
あの時のネスは、彼女の強い部分しか知らなかった。
だが今は違う。
たった一日の間にネスはアンナの色々な表情を、そして感情を見た。ただそれだけのことで、女とはこんなにも別人に見えてしまうものなのか。
「もう一つの質問はお預けね」
アンナが急に足を止めた。彼女はネスの方を振り返り、前方を顎でしゃくった。坂を下った先の、見覚えのある姿が目に入る──サラだった。
*
ネスは坂を下りきり、サラの一歩手前で足を止めた。アンナはその更に後方に控えている。
「……おはよう」
消え入るような声で言い、ネスはちらりとサラを見た。彼女はなんとも恨めしそうな目で睨み返してくる。少しの沈黙の後サラが大きな溜め息をつき口を開いた。
「全部カスケから聞いたわよ」
なんで私には教えてくれなかったのよ、とネスは非難される覚悟だったが、サラはそこまで責め立てなかった。
実は昨夜遅く、ベッドに潜り込んでもなかなか寝付けなかったネスは、親友に別れを告げずに旅立つことになるのがどうにも耐えられず、こっそりと自室の窓から抜け出し、カスケの家に忍び足で出かけて行ったのであった。
他言無用の細かい事情などはひた隠し、「家庭の事情」「父親絡み」と言い繕い、嘘に嘘を重ねて旅立つ理由をカスケには説明した。
「二か月以内には帰れると思う」
と言うと、カスケも、
「小旅行みたいなもんだな」
とニヤリと笑ってネスの背中を叩いた。
サラには適当に説明しておいてくれと頼んだものの、まさか朝一番に話が伝わり、その上サラがやって来るなんて想定出来ようか。
「ねえ、どういうこと? お父さんの仕事の手伝いだってカスケは言っていたけど、どうして戦士様と一緒なの?」
(カスケも本当に適当に説明したんだな……)
「道中危険が伴うから、あたしが付き添うことになったの。これはネスの父からの頼みでね」
サラの肩にぽんと手を置き、にこやかにアンナが話しかける。にこやかといっても、目は全く笑ってはいなかったが。
「付き添い? あなたが? 冗談でしょ?」
サラは挑発するような口振りで肩に乗せられた手を掴んで振り払う。
「戦士だか何か知らないですけど、あなた本当にアグリーを倒したの? あなたみたいな綺麗なだけの人に、そんなことが出来るんですか? ましてやネスを危険から守るなんて……」
「言い過ぎだサラ。この人は……」
ネスが言いかけたところで、アンナがクスクスと笑い出した。笑うといっても声だけで、目は相変わらず笑ってはいない。
「綺麗なだけの人? このあたしが? 初めて言われたわ、そんなこと」
そう言ってアンナはサラに詰め寄った。
「あなたがネスとどんな間柄かなんて知らないけど、そこを退きなさい。急いでいるのよ」
「嫌よ。あなたがネスを守れるって証拠でも見せてもらわない限り通さないわ」
「困ったお嬢ちゃんね」
そう言ってアンナはネスを睨んだ。その目は「面倒なもん巻き込みやがって」とでも言いたげだ。
「まあいいわ。とりあえずあなた達、死にたくなければあたしの後ろに下がりなさい」
ネスとサラは顔を見合わせると、言われるがままアンナの後方へと下がった。
「……こっちかしらね」
アンナはアマルの森の西端を正面に捉え、右腕を前に突き出した。すると右の腕の刺青から漆黒の炎がゆらゆらと沸きだし溢れ出た。それ自体が生き物のように、腕の回りを這い回る。アンナが、ばっと五本の指を開いた次の瞬間──
「っと!」
────ギュ ィ ィ ィ ィ ィィンッッッ!
聞いたこともないような音を立て、漆黒の炎の塊が、目にも留まらぬ速さでアンナの右腕から飛び出した。炎はそのまま大地を飲み込み、衝突した森をも消し去る。
勢いそのままそれは海にまで達し、到達する寸前で急ブレーキをかけたように止まると、音もなく消滅した。通り道には何も残らず、その部分だけまるで何かに切り取られたように、真っ黒な空間が広がる。
想像を絶する出来事に、ネスは絶句した。
(黒い炎……これは神力なのか? どちらにしても人間業じゃないだろ……。あぁそうか、この人は人間じゃないんだっけ)
隣のサラを見ると、彼女はぺたんと地べたに尻餅をつき、わなわなと小刻みに震えていた。最もらしい反応だった。
「魔法使いが来ない限り、消滅した部分は百年間、草すら生えないから」
汚れを落とすようにパンパンと両手を打ち鳴らすアンナの右腕を見ると、皮膚の上であの刺青がうねうねと蠢いていた。当の本人は平然としているが、何だか気味の悪い光景である。
やがて動きを止めた刺青は、先程までと模様が違って見えた。まるで成長でもしたかのように、その面積を広めたようにも見える。
「お嬢ちゃん、これでもあたしが綺麗なだけの人に見えるかしら?」
流石のサラも、見えるなんて言えないだろう。圧倒的な力──その気になれば一瞬で殺されてしまう、サラはそう思ったに違いない。一度だけ唸るとそれ以上口を開かなかった。
「ネス」
「なんだよ」
「あたしはこの道の先、アマルの森の入口で待つわ。十分以内にそのお嬢ちゃんに別れを告げて来なさい」
(十分だって? ここから森の入口まで走っても五分はかかる。そんな短時間で大事な女に別れを告げろって言うのかよ)
「悩んでる時間は無駄よ。遅れたら……分かっているわよね?」
そう言うとアンナは一人、森に向かって行ってしまった。
*
「サラ聞いてくれ」
ネスが振り返るとサラは立ち上がり、真っ直ぐな瞳でネスを見つめていた。 なにか言おうと口を開いては閉じ、もじもじと下を向いては顔を上げ、その姿はなんともいじらしい。
「細かいことまで説明している時間がないんだ。だから……」
「ネスは何にも分かってない!」
普段のサラからは想像も出来ない、悲鳴のような叫びだった。ネスは気圧されて何も言えなくなる。
「わたしの気持ちなんて何も、何も分かってくれないくせに! どうして……ただ、あなたに振り向いてほしかっただけなのに、こんなお別れしたくないよ!」
「サラ……」
目に浮かべた涙は頬を伝い、レモン色のワンピースに染みを作った。サラが瞬きをする度に染みは広がり、胸元に歪んだ模様を作った。
「わたしは……わたしはネスのことが好き、ただ勇気がなくて……この気持ちを伝えて、三人の関係が崩れるのが怖かった。カスケがわたしのことを好きだって言ってくれたから、一緒にいただけ。あなたの気を引きたかっただけなのに……ねえどうして! こんなお別れ嫌! どこにも行かないで一緒にいてよ……」
小さな体から溢れ出す、悲痛な叫び。拳を握りしめたサラの体は、小刻みに震えていた。
何も言えなかった。自分はなんと愚かなのかと。
(勇気がなかったのは俺の方じゃないか。好きな女を泣かせて、苦しめて……俺が、俺がはじめから勇気を出してこの気持ちを伝えていたなら、こんな苦しい別れ方をしなくて済んだかもしれないのに)
「泣かないでくれ、サラ」
サラの目からは止めどなく涙が溢れてくる。ネスがその涙を指で拭ってやると、恥ずかしそうに顔を赤らめた彼女はそっぽを向き黙りこんでしまった。堪らなく愛おしい表情だ。
これが今生の別れになるかもしれないと思うと何でも出来そうな気がして、気が付くとネスは──サラの体を抱き寄せ、唇を塞いでいた。
(離れたくない、離したくない……)
「……痛いよ、ネス」
どのくらいの時間、その体勢でいたのだろう。サラが苦しそうに声を上げる。どうやら腕に力を込めすぎていたらしい。
「ごめん……」
すっと体と体を離す。もう戻れない、彼女の体温を感じることは、出来ない。
「あはっ。ネスって結構大胆なとこあるんだね」
サラは恥ずかしそうに笑った。その目から涙は消えていた。
「ごめん」
「なんで謝るのよ。不本意だったわけ?」
「いや、そうじゃないけど」
「だったら、謝らないでよ。わたし、待ってるから。あなたが帰ってくるまで、待ってる。カスケにも、ちゃんと話すわ」
「ごめん」
「もう、ごめんごめんって、それしか言えないの? だったらさっきの……その……キス返してよ」
「それは……」
カッと顔が熱くなる。それを見たサラの顔も真っ赤になっていた。二人はお互いに顔を背け、暫し沈黙する。
「時間がないんでしょ? 急がないと戦士様に怒られるんじゃないの」
(そうだった……アンナが立ち去って何分経っただろう。時間を確認しておけばよかった!)
「じゃあ行くよ」
名残惜しかった。お互いの気持ちが通じあったその瞬間、別れなければならないなんて。自分の運命とアンナをの登場を少し恨んでみたが、考えてみればアンナが現れなければ、こんな状況は起こり得なかったのだ。
「うん、気を付けてね」
にっこりと微笑み、ほんのりと赤らんだままサラの姿は、先程にも増して愛おしい。ネスはもう一度サラを抱き寄せ口づけをかわすと、耳元で愛を囁いた。
「サラ……これはお別れじゃない。俺は必ず生きて帰ってくる。それまで待ってて欲しい」
こくんと頷き、ほうっとのぼせるサラを残し、ネスは全力で走り出した。
カスケが家の窓からこの光景を見ていたことに、二人は気が付く由もなかった。




