第七十二話 殺し屋の住む国
月曜に投稿予定だったものです。遅くなり申し訳ありません。
数年ぶりに見上げる、故郷の自然要塞──天にまで届くのではないかと思わせる、その煉瓦色の巨大な岩壁。列を成し、果てなく続く海の彼方まで、それは延々と続いている。
ファイアランス王国沿岸部、北西。
ミリュベル海賊団船医ハクラ・バルバートンは、白いものが目立つようになってきた上、薄くなった頭を撫で、その土壁に向かって頭を垂れた。
「帰郷するのは何年ぶり?」
そんなハクラの背に、声を掛ける者が一人。胸元の開いた、いつも通りの黒いドレスだが、腹部から下にかけてはゆったりとしたデザインになっている。
「おはようございます、アンナ様──そうですね、もう九年になりますかね」
「あれからもうそんなに経つのね」
ハクラはかつて、このファイアランス王国の王室専属医師であった。ミリュベル海賊団が結成されこの船に乗り込んだ彼は、それ以来故郷の土を踏んでいない。
「アンナ様こそ、久しいのでは?」
ハクラは、十八年前にこの国で起きた惨劇を知っている。奇跡的に生き残った彼は、アンナの心に住み着く傷についても、少なからず知っていた。
「そうね……命日には毎年帰ってるけど──あれからちゃんと滞在した記憶は、殆どないわね」
「国王陛下はさぞ寂しいでしょうな」
「父上が? まさか。娘に拷問をするような人よ。寂しいなんて感情を持っているはずがないわ」
少しずつ顔を出し始めた朝日が、甲板に二つの影を作る。
「そんなことありませんよ。あの方は優しい御方です──」
独り言のように、ハクラがぽつりと呟いたその言葉は、アンナの耳にはっきりと届くことはなく──
「ん、何か言った?」
「いいえ」
そのまま朝の凛とした空気と一体となって消えた。
「うわあ……すごいな」
ネスの感嘆の先にそびえ立つのは、これでもかと言わんばかりに視界を支配する岩壁だった。明るめの茶色のそれの高さは、三百メートルを優に越えているように見える。
「これ、一体どこから入国するの?」
起き抜けのぼんやりとしたネスの声に、いち早く反応したのは船医のハクラだった。他の乗組員達は皆忙しそうに、各自の持ち場について仕事をしている。
「もう少し進むと、岩壁がくり貫かれた港があるんです。この国へ海から入国しようとするなら、そこからしか入れません」
自身の朝仕事を済ませたハクラは、不思議そうにそれを見上げるネスの横に並びながら言う。
「へえ……陸地だと北と東から入国出来るってこと?」
「いいえ──国の東側は国土拡大に向けて日々交戦中ですので、立ち入ることは出来ません。北側に正式な入国口があるのですよ」
「ハクラ、詳しいんだね」
眠い目を擦り、ネスは隣に立つ初老の船医の皺の刻まれた顔を見つめた。
「母国ですからね。この船に乗ってから帰国するのは初めてですが」
「え、う……生まれた国なの?」
「はい、そうですよ」
瞳の色を見て分かりきってはいたが、ハクラはティリスだった。
ミリュベル海賊団の船員の多くは人間が占めているが、ハクラを加えて七人のティリスが乗船している。
「私はこの海賊団が結成されると同時に、この船に乗った身ですからね……あの頃が懐かしいですな」
「あの頃?」
「ええ──エディン船長は今のアンナ様と同じくらいの歳で──ウェズ君はまだほんの子供で──」
目を瞑り、過去に思いを馳せるハクラの瞼の裏には、今よりも多少若かった頃の自身の姿や、青臭かった船長の笑顔がしっかりと焼き付いていた。
そんなハクラの幸福に満ちた横顔を通り越した先──そびえ立つ岩壁から少し離れた場所から、こちらに向かって飛行盤を操りながら飛んでくる人影が一つ。
「──ん? あれは──」
目を凝らしたネスが身を乗り出し、その者の正体に気が付いた時には、彼は飛行盤の周りで旋回する火の神石を消し去っていた。そしてとんっ、と甲板に下り立ち、にこやかな笑みを二人に向ける。
「エリック、おかえり」
「ああ、ただいま」
「どうだった?」
「ばっちりだよ」
神力が消え、足元に転がる飛行盤を無限空間にしまいながら、エリックは流れるような動きで煙草に火をつけた。
「──おっと……」
言った直後にその火を揉み消す。彼は苦い笑みを浮かべながら、ポケットから取り出した箱ごと握り潰し、それを手の中で燃やした。
「ごめん、ごめん。なかなか──ね」
アンナのことが分かってからというもの、エリックのこの行動をネスは何度も見ていた。流石に箱ごと燃やしてしまえば、もう吸うことはできないのだろうが、しかし。
「あまり無理はしないほうがいいんじゃないの?」
「うん、まあ……でも、頑張るよ」
頑張り過ぎないようにな、とネスが言うと、それを見計らっていたかのようなタイミングでアンナが姿を表した。袖の部分がふんわりと軽やかなデザインの、Vネックでゆとりのあるドレス姿の彼女。エリックの姿を見つけると「どうだった?」と口許を綻ばせ訊ねた。
「問題なかったよ。このまま南下して、西の港に船を泊めて入国可能だ」
先程ネスに対してハクラが話してくれた、ファイアランス王国の入国事情。普通の貿易国の商船類ならば、何の問題もなく港に近寄ることが出来る。
しかし、だ。この船──ミリュベル海賊団の船は、明らかに髑髏印を掲げた悪人達の乗る船だ。近付こうものなら、海の藻屑にされてしまう。
そうなる事態を防ぐために、エリックはわざわざその港まで出向き、事情を説明してきたのだ。彼のお陰でこの船は、破壊されることなく着岸することが出来る。
「悪かったな、エリック」
声を掛けてきたのは、作業の手を止めたこの船の主──エディンだった。
「いや、気にしないでくれ。このまま南下して大丈夫だ」
「わかった、ありがとう」
そう言うとエディンは足早にその場から離れていった。自分の作業と平行して、他の船員達にあれこれと指示を出している。船長として、彼は彼で忙しいのだろう。
「さてと、じゃあ行くか」
そう言うとエリックはスッとアンナに近寄り、彼女の肩に一瞬手を添えた。そしてその手を滑らせ腋と膝の下に手を差し込むと、彼女を横抱きにした。
「え……やぁぁっ! ちょっと!」
頬を赤らめて可愛らしい声を上げるアンナに、その場にいた者達の視線が一気に集中した。船員達は作業の手を止めて目を光らせ、がばっと振り返ったほどだ。
(なんかこの声前にも聞いたな……)
ネスはノルの町で、アンナがベルリナに押し倒された時のことを思い出した。そして体が熱を持っていることに気が付く。
(いかんいかんいかん────俺もまだまだだな……)
「ちょ……ちょっとエリック、何するのよ!」
そんなネスの気も知らず、アンナはエリックの肩をぐいぐい押しながら、下ろせと抵抗している。その度にひらりと揺れるドレスの裾がなんとも────
「大事な体なんだから、飛行盤なんて使ったら駄目だ」
「んな大袈裟な! 大丈夫よ!」
「だーめ」
「大丈夫だって!」
「駄目」
「うう……わかったわよ」
反論も空しく、アンナはエリックに言いくるめられてしまった。顎を引いて顔を伏せ、自分の胸の辺りをじいっと見つめている。
「一緒に船で行かないのか?」
無限空間から飛行盤を取り出すエリックを見て、ネスは声を掛ける。
「ああ、悪いね──俺達が港から入国する所を一般市民の皆様方に見られでもしたら、大騒ぎになってしまうから」
「大騒ぎ?」
「一応、あと数日で結婚式を挙げるこの国のお姫様と、その相手だからね。嫌でも人が集まってくる」
「なるほど……」
「それでなくてもアンナは人気者だからね、滅多に帰国をしない分、他の家族とは野次馬の数が違う」
言われてみれば確かにと、納得が出来た。
(アンナのお姉さん──マリーさんも、アンナに「あまり帰国していないのだろう」というようなことを言っていた気がするし──)
「そうだネス君、入国したら守ってほしいことが二つある」
一旦アンナを甲板に下ろし、言った数だけ指を立てながら、エリックはネスを見た。
「なに? というか、俺だけ?」
「ああ、ごめん──この船の全員に伝えたいけど、皆忙しそうだからね。エディンには聞こえているだろうから、後で彼の口から皆に話して貰えばそれで大丈夫だから」
ネスが振り返ってエディンを見ると、彼は片手で荷物を担ぎながら、反対側の手を軽く上げてひらひらと振っていた。「わかった」という意味なのだろう。
「しかしエディンも耳がいいな……」
「ライル族は皆あんなものなんじゃないかな」
エリックの答えにネスは首を捻りながらも、自身の経験と重ね合わせる。
(耳が良くなったって、実感した記憶がないな……)
ひょっとしたら、これから発達するのかもしれないな──などと考えながら、ネスはエリックの立てた指が折れるのを待った。
「ええとね、まず一つ──国内で俺とアンナの関係者だと口に出さないこと。名前を口にするのも駄目だ」
「名前も駄目なの?」
「アンナ様って言えるならいいけど──もしものことを考えたら、始めから口に出さない方がいい」
それはきっと騒ぎになってしまうから、という理由からなのだろう。こんな小僧が王国の姫君を呼び捨てにしようものなら──考えただけでも恐ろしい。
「二つ目──騒ぎを起こさないこと」
「……騒ぎ?」
エリックは二本目の指を折り、ネスは更に首を捻る。
「余計ないざこざに、首をつっこむべからずってことだよ」
「気を付けるけど。どうして?」
怪訝な声でネスが訊ねると、エリックは困ったように顎に手を添えて説明を続ける。
「ファイアランスの軍人は優秀だからね……悪目立ちしているとすぐに駆けつけるんだ。下手をしたら死刑」
「死刑とか、怖すぎるだろ……」
悪名高い殺し屋一族の治める国──軍人はともかく、国民に至るまでこんな風だとしたら──
「大丈夫よ。国民は多分普通よ」
ネスの考えなど筒抜けだったのか、間髪入れずアンナが言った。
「多分とか不安でしかない……」
「何とかなるわよ。あ、そうだネス」
無限空間をごそごそと漁り、アンナは綿素材の白っぽい布の塊を二つ取り出した。「ん」と、両手でそれを掴んで広げ、ネスに差し出す。
どうやらそれは帽子のようで、被ってしまうと髪は当然のこと、目の上までしっかりと隠してしまうほど、大きなものだった。
「集団で動くのに、その髪はちょっと目立ちすぎるのよね。もう一つはレスカに渡して頂戴」
「うん、わかったよ。ありがとう」
試しに被ってみると、やはり前が見辛い。不満げに唸るネスに、アンナは「王都に入って人が落ち着いたら取っていいから」と言った。
「王都に入ったら、王城に向かってね。入口にサーシャがいるから、言えば全員いつでも入れるようにしておくから」
「サーシャ?」
聞き覚えのない名前に、ネスは疑問符をつけてアンナを見た。
「ああ……シナブルの妻よ」
「お……おう、そうなのか」
ノルの町でネスが根掘り葉掘り話を聞き出した、シナブルの妻。
(たしか、見合い結婚みたいな感じだったって言ってたな……)
「じゃあエディン、頼んだわよ!」
少し張り上げたアンナの声に、エディンは「ああ!」と手を上げて応えた。
「んじゃ、行こうか」
「……やっぱりそうやって抱くのね」
飛行盤を取り出したエリックは先程と同じようにアンナを横抱きにして、ふっと微笑む。
「それじゃあネス、また後で」
「ああ」
「気をつけてくるのよ」
「二人もな」
ネスが言い終えると、アンナとエリックは一瞬だけ目を合わせ、柔らかな表情になった。
エリックの足元の飛行盤の周りに、神力が瞬時に出現し、それはヒュン──ヒュン──と音を立てながら回転を始めた。軽くエリックが飛び上がると、二人の体がふわりと宙に持ち上がった。
「じゃあ──」
そう言い残すと二人は一気に空へと飛び上がり、その姿はあっという間に小さくなっていった。




