第六十八話 海容
ネス<アンナもエリックも、二十年前と随分雰囲気違うくないか?
アンナ<そりゃあ二十年も前だもの、違って当然よ。
ネス<エリックはともかく、アンナは酷いな……。
アンナ<失礼ね。
ネス<何がアンナをここまで変えたんだ……。
アンナ<あんた、読んでてわかんなかったの?
「エリック! おい、エリック大丈夫か!?」
心地良さそうに眠っていたエリックが額に汗を浮かべ、突然目を覚ました。苦悶の表情を浮かべ崩れ落ちるようにその場に屈みこんだ彼に、ネスは駆け寄った。
「ネスくん……か」
眼下に広がる青い海、それに眩しい橙色の髪。心配そうに肩を掴むネスに、エリックは出来る限り優しく微笑んだ。
「どうしたんだよ、汗だくだぞ」
見ると、エリックのうなじを控えめに隠している髪は湿り気を帯び、ピンストライプの淡いグレーのシャツの襟の一部は、濃い色に変色していた。
「大丈夫だ。ちょっと夢をみていただけだよ」
「夢?」
「ああ……悪夢だった」
悪夢だったと言いながら、なんとなく嬉しそうなエリックの態度に、ネスは戸惑う。そしてやはりいつものように、それを口にしてしまう。
「……嬉しそうだね」
と。
立ち上がり、不思議そうに眉を上げるとエリックは「そうかな?」と、首を傾げた。
「アンナに初めて会ったときの夢だったからかな──」
「初めてって……それは……」
「ティファラが殺された時のことだよ。シナブルから聞いただろう?」
ネスはたしかにその時のことをシナブルから聞いてはいた。しかし、それが初対面だったとするならば、第一印象は相当悪かったはずだ。
なんせ彼は、アンナに恋人を殺されたと思い込んでいたのだから。
「あ……ねえ、ところでエリック」
「なんだい?」
エリックが少しだけ首を傾げると、左耳に着けた金色の二連ピアスが揺れた。よく見ると、それは整った雫形をしていた。互いが互いを刺激して音が出ないように、ある程度離れて着けられているようだ。
「エリックはティファラ……ティファラさんがアンナに殺されたわけじゃないって、いつ知ったの?」
ノルの町でエリックと別れる際、ネスはこの事について彼と色々と話をしていた──初めは敵意しかなく、気が付くと同情しており、それはいつしか愛情に変わっていたと。
その経緯をネスは全く理解できていなかったのだ。
いくらエリックが心の広い持ち主だったとしても、自分の恋人を目の前で殺した──と思い込んでいた相手を、そう簡単に愛するなんてことができるのだろうかと。
「ああ、それはね──フォードが殺された後だよ」
「え……じゃあ、それまでエリックは、ずっと──」
「そうだよ」
船縁に肘を付き、遠くを見つめながらエリックは言った。
「ティファラが殺されて、俺はファイアランス王国に連れていかれた。その二年後にフォードが兄上に殺されるまでずっと、アンナがティファラを殺したと思い込んでいたんだ」
それならば──アンナに対して相当の恨みがあったはずだ。
「──どうして、そう思い込んでいたのか聞いてもいいのかな」
「構わないよ」
ズボンのポケットに手を突っ込み、煙草を取り出す仕草を見せたエリックは、何を思ったのか取り出しかけていたそれを元に戻した。
「──まあ、単純にティファラが殺される瞬間が、俺からは死角になって見えていなかっただけなんだよ。その後もフォードを庇って、アンナ本人がティファラを殺したように振る舞っていたしね。ずっとそう思い込んでいて──毎日殺し合ったよ」
「毎日!?」
驚き、肩を跳ね上がらせたネスを見て、エリックはクスリと笑った。
「毎日だよ。恋人を殺した奴が隣の部屋に寝ている環境だったからね。毎日殺しに行ったさ。それを防ぐために見張りをしていたフォードとシナブルは、大変そうだったけどね」
「すげえな……」
ネスは脳裏でこっそりとその光景を想像してみた。
(──恐ろしい)
「フォードが死んだ翌日に、シナブルが俺に真実を告げに来たんだよ。俺とアンナがあまりにも仲が悪いものだから、このままでは国の為にならないからって」
「国の為にならない?」
「俺が何のためにファイアランスに連れて来られたか、知ってる?」
「ああ……シナブルから聞いたよ」
エリックはアンナとの間に子を成す為に──一族の糧にする為に──国王エドヴァルド二世はそう考えて、エリックをファイアランスに引き込んだのだ。
「──フォードとシナブルはね……いい加減、本当の事をアンナに話そうと決めていたんだって。俺たちは仲が悪すぎて、子作りどころじゃなかったからね。……まあ、彼等がそんな会話をした翌日にフォードは死んでしまったわけなんだけど──」
「フォードさんの、遺志──」
「そうだね」
エリックが言葉を止めたので、ネスは彼に倣って海を眺め、空を見つめた。眩しすぎる太陽に目を細める。
「まあ、俺がアンナに惹かれたのは、フォードの遺志ってわけじゃないんだけど」
「そりゃあそうだよね……。けど、相当憎んでいたんでしょ? アンナのこと」
「ああ。でもね──ティファラを殺したフォードが死んで、俺の憎しみの向かう先は何処にもなくなったんだ」
そう言ってエリックは、再び遠くを見つめた。
「アンナを憎む必要がなくなって、俺は……彼女にどう接すればいいのか、わからなくなった。殺すべき対象としてではなく──少し離れた所から見る彼女があまりにも魅力的で、最初はかなり戸惑ったよ」
「それは……わからなくもないかな」
人を好きになる行為に、理由など必要ない。ネスの兄ルークも、同じようなことを言っていた。
もっと大人にならなければわからないだろうと思っていたが、ネスにはそれが何となく理解出来たような気がした。
──気がしただけかもしれないが。
「アンナは魅力的だからね。仕方がないよ」
エリックは、饒舌すぎるほどに饒舌だった。その不信感が顔に出てしまったのか、エリックはネスの顔を見ると照れ臭そうに笑った。
「すまない。嬉しいことがあると、つい饒舌になってしまうんだよ」
──先程知った、嬉しいこと。
「父親になるって、どんな感じ?」
ネスが悪戯っぽく聞くと、エリックは困ったように眉を潜め「うーん」と唸った。
「そうだね……。まだあまり実感はないんだけど、宝物が一つ増えたような感じかな」
「なるほど……」
ネスが顎に手をあて納得する仕草をとると、エリックは再びポケットに手を突っ込み、煙草を取り出し火をつけた。しかし彼はそれを口に持っていくことはせず、じいっと見つめたまま動かなくなってしまった。
「さっきから何やってるの、それ」
吸いたいなら吸ったらいいじゃないか、とネスが言うと、エリックはその煙草を名残惜しそうに、手の中で燃やし尽くした。
「いや、だってアンナの状態を考えると禁煙しないといけないだろう?」
「まあ、そうかも知れないけど、いきなり止めるのはキツイんじゃないの?」
「まあ、確かにね。俺は誰かさんみたく意志は強くないから、スッパリと止める自信はないんだけどね」
「誰かさん?」
──と。
ネスが首を捻ったのとほぼ同時に、背後から誰かに両肩を掴まれた。
エリックが柔らかく微笑んだのを見て、ネスは背後にいるのが誰なのかを理解した。
「……どうしたの、アンナ」
「どうしたの、じゃないわよ、ネス」
呆れ顔のアンナはネスの肩から手を離すと、腰に手を当てて大きな溜め息をついた。
「話があるから、着いてらっしゃい」
「……恐怖しかないんだけど」
「大丈夫よ」
大丈夫だと言い張る、その根拠は何なのか。
「ごめん、エリック。あなたにも話さなければいけないことはあるんだけど……」
「大丈夫だよ。後でゆっくり話そう」
「ええ、ってネス、逃げてんじゃないわよ!」
優しげな口調だったのが一転、アンナの声は厳しいものになった。ネスがその場から忍び足で逃げ出そうとしたからである。
「まさかバレるとは……」
「つまらないこと言ってないで、さっさと行くわよ」
ネスはずるずるとアンナに引きずられて行く。一体どこへ連れて行かれるのだろうか。




