第六話 見事な押し倒しっぷり
「忘れ物はない? ハンカチ持った? ティッシュもよ? 無限空間の認証コードの設定はちゃんとしてあるの?」
「母さん、そんなに心配しなくても大丈夫だって」
部屋の中をぐるぐると歩き回りながら、レノアは家のあちこちから様々な物を持ってきた。昨夜準備するつもりだったのに、とぶつぶつ言いながらあれもこれもと荷物を持ってきては、ネスの前に積み重ねてゆく。
どうやら昨夜は日付が変わるまで、アンナと二人で飲み続けていたらしい。レノアにしては珍しく、食器類が置き去りにされていた。シンクに下げていないグラスまであったほどだ。どうやら、昨夜の酒豪対決の軍配はアンナに上がったようだった。洗い物の山がそれを物語っていた。対決に敗れた母は、息子の出立の準備をしそこなったようで、バタバタと朝から騒がしい。
ネスはテーブルに置かれたままのグラスを下げ、まとめて洗いながらレノアに声を掛けた。
「ところで母さん、アンナは?」
「あぁ、アンナちゃんなら今朝早く散歩に出かけたわ」
服の山を手にレノアが振り返る。これを全部持たせるつもりなのかという量だ。
「散歩ぉ?」
「かれこれ二時間近く経つわねえ」
「あ」と何か別の事を思い出したのか、レノアは服の山を部屋の隅に置くと、パタパタと足音を立て部屋を出ていった。
ネスは洗い物を済ますと、必要な服だけ選別して無限空間に放り込んだ。残された山は母にバレぬよう、こっそり自分のクローゼットにしまった。
*
ネスが自室を出てリビングへ戻ると、何やら騒がしい声が聞こえた。どうやら、アンナは散歩から戻って来たようだ。
室内に入ると、椅子に腰掛けたレノアと壁にもたれ掛かったアンナが向かい合い、低い声で何か言い合っていた。
──嫌な予感がした。
アンナがネスに気が付き視線を向けると、待っていましたと言わんばかりのレノアの蹴りがヒュン、とアンナの頭上を掠めた。サッと身を屈めてアンナはそれを躱す。
「よっと」
レノアは身を翻し、すかさず反対の足でアンナの足元を払う。それを軽く飛び跳ねて躱すと、アンナはネスの目の前に着地した。
「あんたの母さんどうにかしてよ。朝から元気すぎるわ」
昨日とは違う、胸元が強調されたデザインの黒色のミドルドレス。着地と同時に大きなスリットの入った裾がふわりと揺れた。目のやり場に困るが、泳いだ視線はついついその長い脚へと引きつけられてしまう。
「二人共、喧嘩でもしてたの? 部屋の外まで声が響いてた」
「あら喧嘩じゃないわよ」
アンナに向って振り上げた拳を引っ込めて、レノアはにこりと口角を上げる。説得力のない母の言葉に、ネスは思わず苦笑した。
「昔のことでちょっと言い争っていただけよ」
「それ、喧嘩じゃないか……」
どうしてこの二人は昨日から、顔を合わせては揉め事になるのだろうか。ひょっとしたら昨夜も飲み交わしていたのではなく、こんな風に拳を合わせていたのかもしれない。
「……何をそんなに揉めることがあるんだよ」
口にしたことを瞬時に後悔する程の、刺さるような視線が双方から飛んできた。身動きが取れなくなるほど、強烈な視線であった。
「……第一印象が最悪だったのよね」
唐突に張りつめた空気を破ったのは、いつもとは違う母の、ぽつりと消え入りそうな声だった。
「最悪?」
「ええ、母さん達はね、戦場で出会ったの」
レノアはゆっくりと椅子に腰掛けると俯き、堰を切ったように話し始めた。
「二十年近く前の戦争……軍人だった母さんからみて、敵国に雇われていたのが父さん達と、アンナちゃんだったの」
そう言ってレノアは横目でアンナを見た。彼女は出窓の横の壁に背を預け、腕を組んで立っている。そんな彼女の表情はなんとも冷やかなものだった。瞳は氷のように冷たく、ネスはほんの数秒でさえも彼女と目を合わすことが出来ない。
「お互い、色んな理由があって戦争してるんです」
「ふん、殺し屋風情がよく言うわ」
「あたしは仕事をしただけですから」
「……なんですって?」
そう言って勢いよく立ち上がったレノアの足元で、木製の椅子が音を立てて倒れた。それを気に止めることもなく、レノアはアンナを睨み付けた。
「憎いわ、この女が。いくらシムノンと出会うきっかけがこの女にあったとはいえ、目の前で家族を全員殺されたんだもの、心底憎い」
「それじゃあ、あたしを殺してみる? 息子の見ている目の前で」
言い終えたアンナは、レノアに向かって一歩踏み出した。それにつられてレノアは一歩後退する。二歩目を踏み出す──また一歩後退する。
それを数回繰り返し、レノアはとうとう壁際にまで追い詰められた。アンナとレノアが向かい合っている様は、さながら捕食者が被食者を喰らおうと爪を立てているようであった。
「やめろ!」
自分でも無意識のうちにネスはアンナに飛びかかっていた。想定外の乱入者に、壁際の二人がフッとネスの方を向く。しかし当のネスはといえば、自分とアンナがぶつかる一歩手前で、大きく振り払った彼女の右手に体を往なされた。刹那、ネスはアンナとの間にあるダイニングテーブルに衝突し、その反動で勢いよく前のめりに倒れた。
「うわ!」
「なっ……!!」
流石にアンナも振り払ったネスが自分の方に倒れてくるとは思わなかったのだろう、反応が出来ずネスに押し倒される形になる。ドスン、と大きな音が部屋に響いた。
「……おい」
誰がどう見ても如何わしい場面を想像するような、見事な押し倒しっぷりだった。床を捉えたはずのネスの右手は見事なまでにアンナの左手を押さえ込み、左手は右の乳房を鷲掴みにしていた。ドレスからこぼれ落ちそうな胸がネスの視界を埋め尽くし、思考を支配する。
「ご、ご、ごめんなさいっ!!」
慌てて飛び退いたが、アンナの顔はみるみる紅潮していく。さっきまでの冷たい表情は一変、なんとも可愛らしい顔つきになる。初めて見るその表情に、ネスはドキリとしたのも束の間、アンナはゆらりと起き上がり、右手でネスの首を絞めた。
「……お前、わざとだろう」
紅潮し、可愛らしかった表情は消え失せ、氷の表情に戻る。ネスの体はぐいと空中に持ち上げられ、呼吸が苦しくなった。首を絞めるアンナの右手をぱしぱしと叩くと、彼女に乱暴に床に投げ付けられた。
体を起こし、呼吸を整えた後、ネスは叫ぶ。
「ね……狙って出来るようなもんじゃねえよ!」
「ふーん。あっそ」
「めちゃくちゃ疑ってるじゃないか!」
アンナは口先を尖らせたまま、リビングまで移動してソファに腰掛ける。近寄りがたく、ネスはダイニングに立ち尽くしてしまう。
そんなやり取りの中、ネスの後ろに移動していたレノアはというと、この光景を目の当たりにし、腹を抱えて笑っていた。目には涙まで浮かべている。
「何が可笑しいのよ!」
ソファに腰掛けたままのアンナが怒鳴る。肘掛けを激しく殴りつけた彼女の顔が、顔が再び赤くなった。
「あっはっはっは……だって……なんなの今の。ネスも芸達者になったわねえ」
そう言ってレノアは再び笑い出す。
「だからわざとじゃないって!」
「はいはい。もうわかったから。あー面白い。ところであなた達、いつ出発するの?」
壁の時計を見ると既に午前九時を回っている。
すく、と立ち上がったアンナは、わざとらしく咳払いをしながらネスの横に歩み寄った。
「準備が出来ているのなら今すぐに出発するわ」
アンナが取り出したデジタルマップに、立体映像のガミール村の地形が映し出される。その間アンナはネスと目を合わそうとせず、近寄ってきたにも関わらず、今までよりほんの少しだけ距離を取って横にいるように思えた。
「ここがガミールね」
アンナが指で映像を弾くと、それは平面地図画面に変化した。その平面地図を縮小すると、地図全体にアブヤドゥ王国が映し出される。画面の右隅に、赤枠で囲まれているのがガミール村だ。
「とりあえずアマルの森を抜けて『ノル』を目指すわ」
アマルの森というのはガミール村に隣接する、鬱蒼とした森のことだ。昼間でも薄暗く、ほとんど光は届かない。この近辺の村人達は村の外に用があったとしても、アマルの森を経由することは基本的にはない。
「アマルの森はアグリーの巣窟だって噂だぞ。そんな所を通っていくのかよ」
「あら、最短ルートよ?」
「いや、そうじゃなくて……」
アンナはネスの顔を見ると、ニヤリと笑った。
「怖いの?」
「べ、別に……」
「大丈夫よ、襲われたら殺せばいい。あんたにとってはいい修業になるわ」
   
この人は、本当に恐ろしいことをさらりという。アンナはデジタルマップをしまうと、椅子に腰掛けていたレノアに向かって一礼した。想定外の行動にレノアは驚き目を見開いた。
「レノアさん、シムノンとの約束です……御子息の命は必ず守ります。どうかご安心を」
レノアは椅子から立ち上がり、しっかりとアンナを見据えた。
「アンナちゃん……頼んだわよ」
そしてネスに視線を向ける。ネスは母の目にうっすらと水溜まりができていることに気が付いた。
「ネス、しっかりやりなさい」
「母さん……」
「この子といれば、絶対に大丈夫だから」
何故そう断言出来るのか。アンナとレノアは昨夜から揉めっぱなしで、先程も心底憎いと言っていたのに──何だかんだ言って、信頼しているのだろうか。
(過去に何があったのだろう──?)
「さあさあ、湿っぽいのはごめんよ~」
顔の前でパンと手を打つと、レノアはネスとアンナの背中をぐいぐいと押した。
「え、ちょっと、母さん? なになに!?」
にっこりと笑顔を浮かべる母の目からは、いつのまにか水溜まりが消えていた。レノアは玄関ドアの前まで二人を押しやり前に回り込むと、ドアを素早く開けるやいなや外に二人を突き飛ばした。あまりの力強さに二人の体が宙に浮く。
「さあ! いってらっしゃい!」
 
辺り一帯に大きく響き渡る声。ネスが振り向きざまに見た母の顔はとびきりの笑顔だった。




