第五十九話 幸せな家庭
想像していたよりもその室内を広く感じたのは、恐らくリビングルームからバルコニーへと続く、大きな窓の効果なのだろう。
小さな庭へと続くそのガラス窓の先では、リヴェとリュードが楽しそうに駆けずり回っている。
壁紙を貼っていない剥き出しの板張りの壁は、優しいスキンカラーで、初めてこの家に入ったネスとレスカの高揚した心を落ち着かせた。絨毯を敷いていない床も壁と同系色で、所々に子供達の落書きの跡が見える。
ガラス製のティーポットの中で、薄萌葱色の葉っぱがゆらゆらと踊り、それよりも少し薄い色の液体がたぷんと揺れる。木製の盆に載せられたポットと揃いのティーカップにルークがそれを注ぐと、鼻腔をくすぐる爽やかな香りが辺りに広がった。
「マドレーヌを焼いたんだ。持ってくるから少し待っていてくれ」
並んでダイニングテーブルの椅子に腰かけるネスとレスカは、黙ってそれに従った。
ルークは、ティーポットと同じガラス製のピッチャーに入ったオレンジ色の飲み物を、割れにくそうな質感のグラスに注ぎ、それを両手に持って庭へと向かう。ネスがピッチャーを見ると、付箋に日付が書いて貼ってあった。これは手作りだ──書いてある日付は、作った日。兄は昔から、恐ろしいほど料理が上手かった。
「リヴェ、リュード」
二人の息子に声を掛けると、ルークは両手に持った飲み物を差し出した。
「ありがとう若父様」
「ありがとおー」
息子達がグラスを受け取ったその瞬間、ルークの口許がゆっくりと綻び──彼は──うっすらと微笑んだ。
(えっ──)
その光景にネスは驚く。ブエノレスパに向かう途中、自分達を襲撃してきたあの能面のような兄の表情からは、想像も出来なかった柔らかな微笑み。
なんて幸せそうな光景なのだろう。
(これじゃあまるで、俺達が平穏をぶち壊しに来たみたいじゃないか……)
兄はあの時「こんな世界、もうどうだっていい」と言った。しかし今のルークの姿を見ると、とてもあの発言が本心だったとは思えない。
(兄さんの本当の目的を知りたい。俺が破壊者に選ばれたことについても話がしたい……)
レスカもまた、同じようなことを考えていた。
(母様をたぶらかした男が、よりにもよってネスのお兄さんだなんて……その上、子供まで。アタシ達、この幸せそうな家庭に踏み込んでいいのかしら)
俯いた二人をよそに、ルークは運んできたマドレーヌの乗った皿を二人の息子に差し出す。
「|父様は今から大事なお話があるから、お外で遊んでいてくれ」
「はーい」
「はあい」
「良い子だ」
息子達の頭を撫でカラカラと窓を閉めると、ルークは「さてと」と言い、ネスとレスカの正面に座った。
「ハーブティーは口に合ったかな。自家製なんだが」
言いながらルークは、自分のマグカップに注いだそれに口をつけた。「まあまあかな」と呟き、両手でマグカップを包み込んだ。
レスカはそんな彼を睨みながら、角砂糖を一つカップに入れる。
「ネス、一つ謝らなければならないことがある」
ルークは手の中のマグカップを覗き込みながら言った。
「……なに?」
「あの時俺は、『次に会うときはお前が本気を出せるよう、策を用意しておく』と言ったのに、まだ何も用意出来ていない。まさかこんなにも早く再開するとは思ってもみなかったからな」
「それは……別に気にしていないけれど」
「そうか、それならいいんだが」
心なしか少し明るい顔になったルークは、マグカップから顔を上げた。
「ところでネス、その髪はどうしたんだ。身長もかなり伸びたんじゃないのか。あの時は聞きそびれてしまったからな」
先程から繰り返されるあの時というのは、ブエノレスパに向かう途中の襲撃時のことだろう。あの時ネスは約四年ぶりに兄に再開したのだが、茶髪から明るい橙色の髪に変化し、身長もかなり伸びた自分を見た兄が、瞬時に「ネスだ」と判断出来たことに驚いていた。あのアンナですらあんな反応をしたのだ。兄が驚かない筈がない。
恐らくルークの手下──アマルの森でネスとアンナを見張っていた人型のアグリー達の報告が、事前に耳に届いていたのだろうとネスは推測した。
しかし今となってはそんなこと、どうでもよい。
「母さんの……ライル族の血のせいだよ。ハーフだからって、急激に成長したんじゃないかって、アンナが言ってた」
「あの鬼がか」
「兄さん、アンナのことをそういう風に呼ぶのはやめてよ」
ネスは身を乗り出してルークに抗議をした。確かにアンナは、口は悪いし目付きも悪い。なんでもすぐに殺して壊して解決しようとする乱暴な人だが、今の彼女はもう鬼などではない。
「お前は知らないだろうが……お前が生まれたばかりの時、母さんもリサおばさんもいなかったせいで、あの女はとんでもない料理を俺に食わせたんだ」ルークは顔を少し青くしながら言う。「もう絶対に食べたくない……」
「ああ、そういうこと……」
ノルの町でアンナが言っていたことを、ネスは思い出す。流行り病に罹った母の代わりに、アンナは生まれたばかりの自分と兄を一か月近く世話していたのだと、彼女は言っていた。
(その時アンナが作った食事が不味かったってことか……)
「鬼だ……あの女は。『残したら殺す』と言われたんだ。食い続けた方が死にそうな食事だったのに。おかげで俺は、あの歳で調理技術を身につける羽目になったんだからな」
「料理下手なんだ、アンナ。王族だし、仕方ないんじゃないの?」
偏見かもしれないが、王族が料理をする姿を、ネスは想像することが出来なかった。
「その話、そろそろ切り上げてくれない?」
ネスの隣でもしゃもしゃとマドレーヌを口に運んでいたレスカが、しびれを切らして声を上げた。
「あなたと母様との間に、子供が生まれた経緯を聞かせてよ。こんなの、にわかには信じられないわ!」
そう言ってレスカは激しくダイニングテーブルを叩いた。その弾みでカップとソーサーが、がしゃんと音を立てる。
「ハーブティーとマドレーヌは口に合ったかな」
「え……うん、まあ、美味しかったけど……ってそうじゃなくて!」
レスカは再びダイニングテーブルを激しく叩いた。
「どうやって子供が生まれたかなんて、そんなの、やることをやったから、としか言いようがないな」
それを聞いたネスが派手にハーブティーを吹き出すと同時に、ルークは自分のカップを口に運んだ。
「げほっ……げほっ……ちょっと、兄さん」
「ん、なんだ」
「言い方が……露骨すぎる」
「そうか、すまない」
「ちょっと! 話を逸らさないでよ!」
あまりにもレスカが大声ばかり上げるので、庭で遊んでいるリヴェがこちらに顔を向けた。「大丈夫だ」とルークが手を上げると、幼子達は笑顔で赤いボールを持って駆けて行った。
「どうやって子供を作るかなんて、聞いてないわよ! なんで? あなたいくつよ? 母様はあなたよりかなり年上でしょう? どうやって手込めにしたのよ」
興奮して一気に言葉を発したレスカとは対照的に、ルークは至って冷静だった。
そしてゆっくりと口を開く。
「俺はネスより六つ歳上だ。リュードが生まれたとき、俺は十八でリンネイは三十九だった」
ルークはテーブルに肘をつき、指を組んでそこに顎を乗せる。
「それに」
「……それに、なによ」
「男と女が愛し合うのに、理由なんて必要ないだろう」
発せられた声は、酷く冷たかった。
「……なんですって?」
「男と女が愛し合うのに、理由が必要なのか?」
レスカが言葉に詰まり、息を飲む音が聞こえた。
「違う! そうじゃない! アタシが言いたいのは……そういうことじゃないわ!」
レスカは頭を抱えて叫ぶ。
「愛し合うですって? あなたが無理矢理、一方的にしたことなんじゃないの? 母様はこんな……若い男に騙されるような人じゃなかった!」
とうとう涙声になってしまったレスカの顔をネスが見上げると、案の定彼女は瞳を潤ませ、唇を噛み締めて静かに泣いていた。そんな彼女の右手をネスはそっと握る。驚いて跳ね上がったレスカは、黙ってそれを見つめ返した。




