第四十八話 ライル族の子
やっとアグリーの説明が入ります。
この世界におけるアグリーという生き物は、言わば悪の権化である。
いつの頃からか、なんの前触れもなく奴等は現れ始めた。普段は薄暗い場所に息を潜めているが、ひとたび人を見つけると襲いかかり、同時に自然も破壊する。怒り狂ったように暴れまわる姿は正に悪魔の化身。まるで行き場のない人々の怒りや不満を代弁するかのように、奴等は破壊し尽くすまで踊るように暴れまわる。
世界政府直属の研究機関「月の雫」は、このアグリーと名付けられた怪物が現れた直後に設立された。アグリーが何故、どのようにして、どこで生まれるのか──それらを調査し、研究するのが月の雫の目的であり、使命である。
「アグリーは人の心の負のエネルギーが蓄積し、その歪みから生まれたってのが俺達の見解だ」
これはウェズの言葉だ。海賊でありながら、月の雫に所属する変わり者の少年。
彼は金髪頭を大胆に掻きむしると、手元のグラスに入ったミネラルウォーターを豪快に呷った。
ネスははじめ、ウェズがよく飲んでいるこれは、酒の一種なのだろうと思っていたのだが、どうやら勘違いをしていたようで、ウェズに酷く睨まれた。
「お前、俺がこの年で酒なんて飲むわけねぇだろうがよ。まだまだこの頭で考えねぇといけねぇことが多いんだよ」
そう言ってウェズは、キンキンに冷やされた野菜のスティックをかじった。
彼は意外と実直且つ健康志向な人間のようだった。
同行者ネスを含むミリュベル海賊団一行は、現在ジュサン海を南下中。ファイアランス王国を目指して航海を進めている。
そんなある日の夜。ネスはいつものようにウェズと一緒に彼の部屋で談笑に花を咲かせていた。この後決まって一時間後にレスカが風呂に入るのだが、その二時間の間(レスカは非常に長風呂だ)、毎晩修行をするエディンにネスは付き合うようになっていた。レスカの前でエディンが神力を使うことはない。どういうわけかエディンは、自分がライル族であることをレスカに隠している。
「すまなかったな」
窓の外をぼんやりと眺めていると、ウェズがネスに声を掛けた。
「なにが?」
神妙な面持ちのウェズは、何を思い出しているのだろう、ネスの問いかけに答えることなく、暫くの間天井を仰いでいた。
「お前の兄貴達の襲撃の後、取り乱しちまってよ……」
「……いや」
ブエノレスパに到着する前夜──ネスの兄ルーク達「無名」がネス達三人の持つ神石を奪おうと攻めこんできた、あの夜の惨劇の後、ネスはひどく狼狽したウェズに捕まった。
彼を錯乱させた原因はルークがネスの誕生日を祝うために披露したある「歌」だった。
「俺は一年前、アグリーの生態調査任務で他の世界に行ったんだ。あの歌はその地で聞いた」
「……どういう意味だ? 他の世界って一体……」
ウェズの思いもよらぬ告白にネスは困惑した。
「信じねぇならそれでもいいさ。でも俺は実際そこに行って、帰ってきた」
「……」
「あの歌は……『あいつ』が俺のために歌ってくれた。あの世界で俺が愛した『あいつ』が」
「……」
「……っと、悪いな、つい変な話しちまって」
「いや……」
さてと、と大きく伸びをしたウェズの顔はただ暗く、それはまるで過去に縛られているアンナと同じ表情だった。
「もうその世界にはいけないのか?」
ネスの問いにテーブルに額をくっつけて目を閉じていたウェズは、そのままの姿勢で口を開く。
「もう滅びた世界だ。あいつも恐らくは……」
「そうか……」
「もしももう一度会えるなら、俺はあいつに……」
ウェズはそこで言葉を切った。
人には語らずにはいられない過去があるのだ。ウェズはそれを話してくれた。
ネスにこれ以上深入り出来るはずもなかった。かける言葉も見出だせなかった。
(父さんみたいな立派な賢者なら、こんな時どんな言葉をかけるのだろう)
ネスはゆっくりと目を閉じた。そして考える。
心の中で触れまいと、隅に追いやっていた抱いていた疑問の蓋を開く。
(どうして……どうして皆、アンナも──エリックも──ウェズだって──俺にこんなことを話すんだ)
自らの生い立ちに苦悩する彼女。愛する人を殺された彼。そして──今回のウェズの話。
(俺に……何かあるっていうのか? 話しやすいからとか、そんな感じじゃないしな──なにか──一体何が──)
『──い──て──────の』
(────!? なんだ!?)
『き────い────の』
(だれだ────?)
アマルの森で神力を使った、あの時の感覚だ。あの時も意識の底で、誰かがネスの名を呼んだ。
(誰なんだ──? いや、何なんだこの力は──!?)
ネスが考え込んでいた、わずかの沈黙の後、ノックと共に部屋の扉がゆっくりと開いた。
「ウェズ、ネスさん、すぐに来てくれ!」
騒々しい声と共に現れたのは、この船の船医助手を務めるルイズだった。実年齢よりもずっと幼く見える彼は、その童顔を隠すために掛けている大きな黒ぶちのだて眼鏡をかけ直して言った。
「リヴェとリュードの意識が戻ったんだ!」
ルイズの言葉によって、強制的にネスの疑問の蓋は閉じられた。
そしてネスがこのことを思い出すのは、しばらく先のことになる。
ルイズに連れられてネスとウェズが医務室に着くと、そこにはすでにエディンとレスカが到着していた。レスカは、三日ぶりに目を覚ました弟の手を握り、安堵の表情を浮かべている。
そんなリヴェの横で小さな瞳を忙しなく動かしているリュードは、知らない人間に囲まれているせいか、不安げな表情だ。そんなリュードの短い髪を、レスカは母のような眼差しで、愛おしそうに撫でた。
*
リヴェとリュード、幼い二人がこの船に拾われたのは、ミリュベル海賊団一行がブエノレスパを出航して二日が経った頃だった。昼下がり時、一行の遥か前方に進路を塞ぐ巨大な廃船が現れた。黒塗りのメインマストは所々破れ、船体にも傷が目立つ。
「なんだ……ありゃ」
メインマストによじ登り、スコープチューブで船内を確認したウェズは、驚いて声を上げた。その声を聞きつけたレスカは、ウェズの傍まで大きく飛び上がると、彼の手からチューブを奪い取り自分の指に塗って輪を作り、その先の光景に目をやった。
「敵船……ん、廃船?」
破れてはいるが、廃船のマストには特徴的なドクロマークが描かれていた。
「そのようだな……って! おい! レスカ!」
マストのてっぺんから飛び降りたレスカは、ウェズの方を振り返りながら叫ぶ。
「進路ずらさなきゃ! エディンに知らせたら偵察に行ってくるー!」
好奇心旺盛なレスカは、現状をエディンに伝えた後、彼が引き留めるのを聞き入れることもせず一人で廃船へ飛んでいった。
「生き残りがいたら殲滅、宝があれば奪取、アタシはこの船の戦闘員よ、任せて!」
レスカの姿が小さくなった後、廃船の脇に浮かぶ小さな二つの人影にネスは気が付いた。片腕で廃材に必死にしがみつく少年は、もう片方の腕で廃材の上に横たわる幼子が振り落とされぬよう、しっかりと廃材に押さえつけている。
周りの乗組員達も、そんな海上の二人に気がつき始め、船上が騒然となった。
「俺が助けるよ」
そう言って身を乗り出したネスは、海上の二人の周りに意識を集中させた。周りの海水で揺りかごのように優しく二人を包み込むと、ゆっくりとそれを持ち上げて船上まで導いた。
「何事だ」
海上の二人が無事に船上まで辿り着き、皆の歓声が上がると、その輪の中にエディンが顔を出した。
「漂流していたんスよ」
一人の乗組員が言うと、その声に呼応して「ネスが助けたんだぜ!」と誰かが言った。
「ん? こいつらは……ライル族か」
意識を失っている幼子を抱え込み、今にも倒れてしまいそうな少年は、エディンが「ライル族」と言うやいなや、目の色を変えて幼子を差し出した。
「……た……頼む……僕のことはいい、だから……この子は……リュードは助けて下さい……!」
お願いします、お願いしますと繰り返し叫んだ少年の腕からエディンが幼子を受け取ると、少年はホッとしたのか、その場にふらりと倒れた。
「早くこいつらを医務室へ」
エディンか幼子を抱え直した、その時だった。
「おーい!」
レスカが海上で叫びながらこちらに向かって飛んできた。甲板に着地した彼女は、背中に担いだ大きな袋の中から黄金の杯を取り出した。
「聞いてよ! 乗組員みんな殺されてたの! それにさ、見てみてー! お宝いっぱい!」
続いて取り出した冠を頭に乗せたレスカは、皆の様子がおかしいことに気が付き、輪の中に割って入った。
「ネス、何事?」
「あぁ、レスカ……おかえり」
この二人が漂流していて助けたところなんだ、とネスが言おうとした刹那、レスカの手から黄金の杯が滑り落ちた。
「リヴェ!」
甲板に倒れた少年に駆け寄ったレスカは、リヴェの肩を掴んで揺すぶるも、彼は目を覚まさない。
「レスカ、知り合いなのか」
エディンの言葉が耳に届くよりも早く、真っ青になったレスカは、リヴェを抱き抱えて医務室へ向かって走り出したのだった。
*
「レスカ姉……」
「リヴェ」
ぼんやりと目を開いたリヴェは、姉の姿を見るやいなや、うっすらと微笑んだ。
「あれ、夢でもみてるのか、僕は」
「夢じゃないわよ」
「…………リュード!」
そう叫んで飛び起きたリヴェは、隣で横たわるリュードの姿を確認すると、大きく胸を撫で下ろした。
「よかったあ」
すやすやと気持ち良さそうに眠るこの幼子は二、三歳くらいに見える。
「さっきまで起きてたんだけど、すぐに寝ちゃった」
その幼子──リュードの汗ばんだ橙色の髪を繰り返し撫で付けるレスカは、不思議そうな面持ちで彼を見つめた。
「レスカ、改めて紹介してくれないか」
窓際に背を預けたエディンが言った。
治療用のベッドの四方を囲む、淡いクリーム色のカーテンが、窓から入る海風に撫でられてふわりと揺れた。そう広くはない仕切られた空間には、ネス、エディン、レスカ、リヴェ、リュード、そして船医のハクラの 六人がいるだけだった。
「私は席を外しましょうかね」
「構わないわ、ハクラ」
レスカが言うと、ハクラは「そうですか」と言い、再び椅子に腰掛けた。
「この子はリヴェ。アタシの四つ下の弟。六人兄妹の内、生き残っているのはアタシとこの子と、それに姉が一人」
戦闘民族ライル族──戦いの中に生きる彼等は短命であるということを、ネスはレスカから聞いていた。
レスカが言い終えると、リヴェは何か言いたげに少しだけ口を開いたが、唇を噛んでその言葉を飲み込むと「姉がいつもお世話になっています」と、ぺこりと頭を下げた。「ところでレスカ姉、ここはどこでこの人たちは誰?」
年齢のわりにはしっかりとした子だ。ベッドに腰掛けたリヴェは、自分を取り囲む四人の顔を順に見た。
「ここはミリュベル海賊団の船上。この人たちはアタシの仲間」
レスカはエディンから順に名前の紹介もした。ネスのところでライル族と人間のハーフだと言った後に「あんたの兄になる人よ」とレスカが言うと、リヴェは目を輝かせてネスの手を握った。
「我が一族の繁栄のため、よろしくお願いします、兄さん」
「誰が兄さんだ!」
「違うの?」
「違うわ! 君の姉さんが勝手に言っているだけだ!」
レスカの頬が膨らむのを尻目に、ネスは改めて自己紹介をした。水の破壊者ということは伏せておいた。こんな子供に、おっかない事実を敢えて話す必要はないだろうと思っての判断だった。
「ねえ、ところでリヴェ、この子は誰?」
レスカは薔薇色の頬の幼子を見ながら言った。
「そっかあ、レスカ姉は知らないのか」
「どういう意味?」
「レスカ姉が村を出てからの話だからね」
首を傾げる姉を可笑しそうに見つめたリヴェは、指先で頭を掻きながら言った。
「この子は僕たちの弟だよ」
「……弟? ……リヴェ、何言ってるの? 父様はもう……」
混乱状態のレスカは言葉を切った。
ネスはレスカの顔色をみてそれとなく状況を察する。きっと彼女達の父親は既に亡くなっているのだろうと。
そんなレスカの肩にエディンがそっと手を置いた。レスカは驚いて顔を上げたが、目が合うやいなやエディンは口を真一文字に結び、レスカから顔を背けた。
「リュードは僕たちとは種が違うんだ、レスカ姉」
この子は本当に十一歳なのだろうか。ネスとハクラが目を丸くすると、それを見たレスカは派手に笑った。
「ライル族の子供たちは、そうね……十歳を過ぎるくらいから、みんなこんな感じよ」
「どんな教育方針なんだよ」
「まあ、一族を繁栄させるための知識は早めにってことよ」
ひょっとするとリヴェは、ネスよりもませているのかもしれない。
「それでリヴェ、母様はどこの男をたぶらかしたの?」
「違うよレスカ姉、母様がたぶらかしたんじゃなくて、若父様が付け入ったんだよ」
「付け入ったって……リヴェ、もう少し子供らしい言い回しは出来ないのか?」
エディンがすかさず口を挟む。エディンが言わなければネスがその台詞を吐いていたかもしれない。
呆れて溜め息をつくエディンにリヴェは「ごめんなさい」と頭を下げた。
「不愉快でしたら、他所で話します」
「いや……構わない。続けてくれ」
はい、とリヴェはレスカに向き直った。
「それで、『付け入られた』母様はあんた達を置いて何やってんの? ……まさかその男と」
「──違うよ」
小さな声を絞り出し、リヴェは顔を伏せてしまった。
「リヴェ?」
レスカがリヴェの肩に手を置くと、彼はゆっくりと顔を上げた。目にはうっすらと涙が溜まり、瑠璃色の瞳がその中で揺らめいている。
「母様は──母様とレイシャ姉は、僕たちを守って、戦って……」
「──まさか」
レスカの顔からは一瞬で血の気が引き、真っ青になった。
「母様とレイシャ姉は……死んだんだ」
ぎりり、と誰かが歯を軋ませる音が聞こえた。直後エディンが顔を伏せて部屋から出ていった。乱暴に扉が閉まると、レスカは静かに泣いた。
レスカの涙は強烈だった。ネスは彼女の涙を堪える姿に釘付けになった。レスカは泣きじゃくることもせず、ただ静かに自分の涙が止まるのを待った。
「若父様は……その時何をしていたのよ」
「それは……」
「母様とレイシャ姉が死ぬってときに……何をしていたのよ!」
怒りに震えたレスカの声。それは何も知らずにのうのうと生きていた自分に対する怒りだった。彼女は望んで里を出たわけではないが、自らの意思で里に戻らなかった。
(──あたしがいれば守れたのかもしれないのに)
「レスカ姉は悪くない。それに若父様は……僕たちを守って、逃がしてくれたんだ。あの時からもうずっと、二年近くずっと、僕たちを守り続けてくれている」
「それなら! なんであんた達は漂流していたのよ! 若父様とやらは何をしているのよ!」
涙を流しながら怒るレスカの両肩を、ネスは後ろから掴んだ。
「レスカ、落ち着けって」
「これが……これが落ち着ける状況なわけないでしょ!」
レスカは体を大きく捩ってネスの腕を振り払った。
「しっかりしろよレスカ! こいつらの姉なんだろ? だったらお前が取り乱してどうするんだよ……リヴェの目を見てみろよ」
レスカがハッとして見たリヴェの目は、不安とも恐怖とも言い難い淀んだ色を宿していた。とても十一歳の少年の目には見えない。
目の前のこの子供が見てきた、ネスには想像も出来ない地獄──戦闘民族と呼ばれているのだ、それ相応の修羅場は潜り抜けてきたのだろうが、彼はまだ戦士と呼ぶには幼すぎた。
ネスからすればレスカとて同じようなものだった。自分よりたった一つ年下なだけの普通の女の子だ。それがあんな大きな武器を振り回し、 信じられない顔つきで敵を斬り殺す──
「ごめ……リヴェ……ごめん……」
再び涙を流したレスカは、弟の手を握りその場に崩れ混んだ。
ネスにはそれが、ごく普通の姉弟のように見えたのであった。
後書き、何か書きたいことがあった気がするのですが眠くてそれどころじゃ…また加筆するかもしれません…。




