第四十話 終焉の地
ブエノレスパが聖域と呼ばれる由縁はいくつかあるが、とりわけ有名なものとして四方を囲むジュサン海に張り巡らされている、天然の結界が上げられる。邪悪なものは入ることが許されないその結界は、長年専属の調査隊があらゆる手を尽くして調べたが、いつから、何故、そこに存在しているのか、結局分からず仕舞いであった。
*
アンナがエディンに言われて、医務室に向かう少し前──。
無名の襲撃による死者は六名。その日の深夜、皆が黒い服に身を包むと、船長のエディンは手厚く死者を葬った。傷の手当てを済ませたアンナとレスカの姿もそこにはあった。
アンナは負傷した左肩に負担のかからない、ワンショルダーのドレスに身を包んでいた。彼女の長い足を隠すほどある丈のドレスはいつも通り真っ黒で、ネスはなんとなく──何故彼女が黒いドレスしか身に付けないのか、分かったような気がした。
そんなアンナにネスは、声を掛けたくて仕方がなかった。先日からの彼女の体調不良や、戦いで負った傷の具合も心配だったし、何より兄と刃を交えた事について、話を聞いて欲しかった。
(なんだか、母親に話を聞いて欲しがる子供みたいだ)
そう気が付いた時どうしようもない羞恥心がネスの心を飲み込み、翌朝まで自然と彼女を避けて過ごした。
*
翌日、五月二十日──。
夜が明け正午を少し過ぎた頃、何事もなく海賊船はブエノレスパに到着した。アグリーが侵入出来ないにしても、再び無名単独による襲撃があるかもしれないと、アンナとウェズは一晩中警戒体制を取っていたが、幸い二度目の襲撃はなかった。エディンはといえば、睡魔に勝てなかったようで、船長だというのに朝までぐっすりと熟睡していたようであった。
無事に着岸した船の足元から少し離れた所に、群青色の長い髪を複雑に束ねた女性が立っていた。以前会ったアイザックやベルリナと同じ、グレーの軍服を身に纏っていることから、騎士団であることは一目瞭然であった。
「イリス・イベリス、第五騎士団長です」
三十歳前後といったところだろうか──ビシッと美しく敬礼をした彼女は、船上のネス、アンナ、エディンの三人を順番に見て、もう一度敬礼をした。
「……」
気のせいだろうか。ネスには一瞬、イリスが物凄い形相でこちらを睨んだように見えた。
(なんだ……? この違和感は)
横目でアンナを見ると、彼女は何とも複雑な表情をしていた。睨み返すでもなく、動揺するでもなく──申し訳ないような顔、というのが一番しっくりくるかもしれない。
「御待ちしておりました、破壊者様方。それに──ミリュベル海賊団の皆様方」
そんなネスの心配を他所に、上品な笑みを湛えたイリスは、軽く膝を折って挨拶をした。
思いがけない歓迎の言葉に船上の乗組員達は、指笛を鳴らして騒がしく歓声を上げた。美しいイリスの姿を目に焼き付けようと、皆必死に身を乗り出している。顔を赤くしたイリスは、恥ずかしそうに下を向いてしまった。
「お前達、静かにしろ」
エディンが言うと、乗組員達は皆不満そうに声を上げた。
「本当に騒がしいわね、あんたの仲間は」
大胆なVネックから胸がこぼれ落ちそうな、プランジングネックのドレスを身に纏ったアンナは、足早にタラップを降りて行った。ネスとレスカ、それにエディンとウェズがそれに続いた。
「お前たちは留守番だ」
エディンが言うと、乗組員達は皆不満そうに声を荒げた。流石にこれほどの大所帯で押しかけるわけにもいかないだろう。
船を下りるとネスはイリスに頭を下げて名乗り、挨拶をした。やはり見間違いだったのだろう。こんなにも美しい人が、鬼のような形相で人を睨むわけがない。
(実際、イリスさんの横をアンナが通りすぎた時だって、何事もなかったのだし……やっぱり、気のせいだったんだ)
立ち込めるビリビリとした殺意にネスは気がつくこともなく、アンナの背を追った。
*
程なくして城門に到着した。見上げるほど大きな城門の内側には黒い石畳が広がり、その奥には壮麗な城が構えていた。城というより要塞に近いその建物には、政府の主要施設や騎士団の本拠地などが寄り集まっているそうで、歩きながらイリスが丁寧に説明をしてくれた。
(たしかに物凄い美人だけど、アンナに比べたら……)
そんな視線を感じ取ったのか、振り返ったアンナにネスは睨まれた。しかしそれは今までの突き刺すような睨み方ではなく、少しだけ穏やかに感じられるものだった。
さらに進むと、城の内部に通じる大扉の真ん中に一人の女性が立っていた。長い槍を右手に持った彼女は、丁寧に切り揃えられたセルリアンブルーの髪を海風に揺らしている。イリスよりも少し年下に見える彼女は、左目の眼帯を擦るとにこやかに笑った。
「イリス、お疲れ様ですわ」
「ゼアもお疲れ様。こちら、破壊者様御一行よ」
「申し遅れました。第六騎士団長ゼア・ゼフィランサスと申します。今週の門番守ですわ」
穏やかな口調の挨拶に、ネスはイリスにしたのと同様、挨拶をした。
「まあ、ご丁寧に。可愛い破壊者様」
「か、可愛い……?」
「ふふ、可愛らしい坊やですこと」
思いがけないゼアの言葉に、ネスは動揺して顔が熱くなる。年上の女性に「可愛い」などと言われた経験は、これが初めてのことであった。にこやかに笑みを返すゼアに見つめられ、ネスが動けなくなっていると、横手から大声を上げながら駆け寄ってくる人影が見えた。
「なんだ……?」
ネスが言うと、隣でウェズが「げっ」と後退りをした。
「うおおおおおおお────いっ! ウェーズーッ! てめぇっ!」
叫び続ける乱入者はウェズの姿を見つけると、加速して彼の頬に飛び蹴りを打ち込んだ。
「ぎゃぁぁぁっ!」
派手な音を上げ、ウェズの体が吹っ飛んだ。扉脇にある彫像の足元に衝突して停止すると、彼は飛び上がって、自分を蹴り飛ばした犯人を同じように蹴り飛ばした。
「何すんだてめぇ!」
「こっちの台詞だイダール!」
「お前が悪いんだろうが!」
その光景を見てエディンが頭を抱え大きな溜め息をついた。アンナも、呆れて何も言えない様子であった。
「なんで俺が悪いんだよ!」
「はぁ? ふざけんなウェズ! お前が調査報告書の提出期限を守らないからだろ! 上に叱られるのは俺なんだぞ」
状況が飲み込めず、ぽかんとその光景に見入っていたネスに、アンナが小声で耳打ちをした。
「イダールはウェズの所属しているアグリー研究機関の上官なのよ」
「なるほど……そういうこと」
「ウェズもあの若さにしては優秀だけど、イダールはもっと優秀よ」
「そうなんだ……」
人は見かけによらないなと思う。口に出すと巻き込まれかねないので、流石のネスも我慢をした。
「いい加減になさい」
そんなウェズとイダールの取っ組み合いの喧嘩に、終止符を打ったのはゼアだった。彼女はあろうことか槍の先端を、二人の間に振り下ろした。目を剥いた二人は慌てて後ろへ飛び退いた。
「見苦しいですわ、イダール。それにまだ私、話している途中でしたのに」
そう言ってイダールを睨むと、彼は口を噤んでたじろいだ。
「御姉様に叱って頂きます」
「そ、それだけは勘弁して……下さい」
「聞き入れません」
血の気の引いたイダールの顔は、彼の髪と同じように真っ青になった。
「お前が悪いんだぞ」
小声で耳打ちしたイダールの額を、ウェズは「うっせぇよ」と鬱陶しそうに押し退けた。
「んなことより、あんたがネス・カートスか?」
エメラルドグリーンの三白眼──睨まれるとそれはなかなか強烈だった。イダールはウェズを押し退けて、舐め回すようにネスに視線を飛ばす。大した身長差はないのに、その目力に圧倒されてしまう。
「あんた、イリスとゼアには自分から名乗ったくせして、俺のことは無視なんだな。俺はティリスだ、耳はいいからよ、全部聞こえてたんだぜ?」
「す、すみません」
名乗る隙を与えなかったのは誰だよ!と口から出かかったが、ネスは寸前のところでその言葉を飲み込んだ。彼を刺激するのはあまりにも危険そうだ。
「久しぶりね、イダール」
「げっ! アンナさん!」
「あんた、なに調子に乗ってるの?」
「すみません……」
「大人しかった頃が懐かしいわね」
ネスを庇うように前に出たアンナは、イダールを睨み付けた。
「アンナさん、なんでこんな奴を庇うんですか……」
後ろにいたレスカがムッと顔をしかめたのを、エディンが即座に制止した。
「これでもこいつはシムノン・カートスの息子よ。もう少し敬意を払いなさい」
「けっ……そうだったな」
不機嫌そうに言うとイダールは、ゼアとイリスを一瞥し、城に向かって歩き出したのだった。
*
レスカとウェズは、城に入ってすぐの待合室に待機している。着いて来たいと駄々をこねたレスカの機嫌は良くなっているだろうか──
ネスがそんなことを考えていると、第七騎士団長イダール・インパチエンスは、
「この回廊を抜けると大広間に出る。そこから個別に階段を上ってもらうぜ。階段を上って、儀式が済むまでは、他者との接触は出来ないからな」
と、乱暴だが先程よりも丁寧な口調で言った。
「風、地の二人はもう到着してっから先を急ぐぜ」
着崩した制服のズボンの両ポケットに手を突っ込み、彼はずんずんと足を進める。本当にこの人は騎士団長なのだろうか、というくらいだらしがない印象だ。彼が歩くとその動きにあわせて、両耳の軽やかなピアスがふわふわと揺れる。
そんなイダールの後ろにエディンが続いた。ネスの前を行くアンナは、足取りこそしっかりしていたが、左肩にびっしりと巻かれた包帯には血が滲み、なんとも痛々しい姿だった。ネスはその光景から逃げるように、殺風景な中庭の真ん中に不自然に設置された噴水を見つめながら回廊を抜けた。
回廊が終わり、城の内部に入る。目を見張るほどの大広間──高い天井には天国を模した壮麗な絵が描かれている。一面に広がる真っ赤な絨毯には、壁づたいに並んだ窓から差し込む光が格子形の影を作り、その上には彫刻の施された太く立派な石柱が、行儀よく列をなしている。
「二人は他の破壊者と面識はあるのか?」
「ないわね」
壁一面の窓から差し込む光に目を細めながらアンナは言った。
「俺も破壊者に就任して五年も経っていないからな……アンナとしか面識はない」
「ふうん……」
(他の破壊者って、一体どんな人達なんだろう。優しい雰囲気の人達だったらいいな──)
ネスが言い終えると、ようやく広間の終わりが見えてきた。四人の騎士が観音開きの真っ白な扉の前に控えている。彼らが寸分の狂いもなく敬礼をしたのでネスは、立ち止まって深めのお辞儀をした。イダールが「ご苦労」と言い、扉を開ける。
「そろそろ着くぜ」
幅の広いガラス張りの廊下を進む。緊張のせいか、ネスは掌にじっとりと汗をかいていた。
廊下を進みきると、目の前に再び扉が現れた。イダールは重そうなその扉を、両手を広げて強く押した。鈍い音を上げて扉がゆっくりと開く。
「早く中に入れ……入って下さい」
何故言い直したのかと、ネスがイダールを見ると、アンナがイダールを睨んでいた。「ゼアに言いつけるわよ」と言わんばかりの視線だ。
全員が中に入ると、開いた時よりも大きな音を立てながら扉が閉まった。
「これは……」
──塔だ。扉の向こうは巨大な円柱の塔になっていた。廊下を抜けた先が塔の内側の根元に通じていたのだ。
四人の目の前にあるのは、先の見えない上り階段だ。その両脇から白亜の壁が弧を描くように広がっている。その壁に沿って続く無機質な通路の天井に近い壁には、正方形の明かり取り用の窓が点々と続いているだけで、ひっそりと薄暗い。
「この階段は塔の内側の壁に沿って五つある。正面のこれは雷の破壊者エディン様、左に進んで一つ目は水の破壊者ネス様、二つ目は火の破壊者アンナ様に上って頂く」
イダールが一旦言葉を切ると、アンナが左回りの通路へと歩き出した。
「アンナさん、まだ説明終わってないですよ!」
「歩きながらでも聞こえるからいいわ」
「んな、自分勝手な……」
「聞こえたわよ」
「すみません!」
アンナの姿が見えなくなると、イダールは面倒臭そうに口を開いた。
「階段を上り始めたら入口は閉ざされる。さっき説明した他者と接触出来ないってのは、そういうことだ。上りきったら塔の最上階に出る、そっからのことは多分上で説明があるからよ──以上だ」
「わかりました、ありがとうございます」
多分などという適当な言葉に突っ込みたくなるが、ネスはとりあえず礼を言うことにする。この人に突っ込みを入れるのは、なんだか怖い。
じゃあな、おつかれー、と言うとイダールは入って来た扉から出て行った。騒がしい奴だったが、いなくなるとそれはそれで寂しい気がした。
*
ネスが薄暗い通路を進んで行くと、階段の手前に人影が見えた。
「アンナ」
壁に背を預けていたアンナはネスが声を掛けると、閉じていた目を開き、組んでいた腕をほどいて、首だけでこちらを見た。
「遅いわよ」
「……ごめん」
待っている間に取り替えたのか、左肩の包帯が真っ白になっていた。
「自分の階段も上らずに、何やってんの?」
アンナの上るべき階段はネスのものより一つ奥のはずだ。
「人が待っててやったのに、その言い方はないんじゃないの」
「……悪かったよ」
彼女とこんなやり取りをする機会は、あと何回あるだろうか。そういえば昨夜の襲撃の後から、二人きりでまともな会話をするのは、これが初めてだった。
「あの、さ」
アンナは珍しく歯切れが悪かった。言いたいことは回り道をせず、いつだって直球を投げてくるくせに。
「その……」
「なんだよ」
「うん……あのね、一言だけ言わせて」
「だから、なんだよ」
足元に落としていた視線をゆっくりと上げたアンナと、目が合った。
「……お疲れ様」
ぼそりと呟くとアンナは、コツコツとこちらへ向かって歩き出した。彼女の動きに合わせて揺れる、血色の髪にネスは目を奪われる。
「よく、頑張ったわ。弱音も吐かず、苦しみながらも、こんな所まで」
アンナの右手が、ネスの頭の上に乗せられる。
(ああ──なんだか──母さんに褒められているみたいで──心地良いなあ)
ネスは目を細め、母を思い出した。
「あともう少しだから、もう少しで帰れるから、だから……」
「頑張るよ」
「うん、それでいいわ」
(いや──よくなんてない。よくなんてないだろう。俺はあの時、彼女に言ったじゃないか──あなたを助けたい、と)
家までは送るから安心しなさい、と背を向けたアンナの腕をネスは掴んだ。驚いて振り返った彼女の目を覗き込む。優しさの宿ったエメラルドグリーンの瞳。
「──なに?」
「俺、言ったよな、あなたを助けたいって」
「……」
「駄目、なのかな」
「……」
「俺が賢者になったら、アンナを……助ける。あなたが幸せになれる世界を作るまで、傍にいたら駄目なのかな」
「……」
「アンナ」
「賢者志望のくせに、殺し屋と一緒にいたいってこと?」
「簡潔に言うと、そうなるのかな」
「……馬鹿じゃないの」
「馬鹿げたことを言っているのは分かってる。それでも俺は──あなたの隣で、世界とはどんなものか見てみたい。世界を見るのならあなたの隣がいい」
これは依存────というのだろうか。
「エリックが聞いたら怒るかもね。なんだか、愛の告白に聞こえるもの」
「そ、そんなんじゃねえ!」
「分かっているわよ」
俺だって分かっているよ、と言いかけてやめた。分かりきっている、そんなことを口に出す必要などない。アンナの中で、エリックは必要不可欠、絶対的存在なのだから。
「あたしには……あの人しかいない。あんたには、あの子しかいないものね」
「そうだよ」
「というか、冷静な目で見たらあたし達、なんて会話をしているのかしらね」
「それもそうだな」
「でも──」
アンナは握手を求めるように右手を差し出すと、ネスが今まで見た中で一番の笑顔を作った。
「大仕事の最後に、あんたとこんな話が出来てよかった」
ネスは笑顔を返すと、差し出されたアンナの右手を強く握った。
アンナとイリスの関係は、もう少し先で明らかにするつもりです。




