第三十七話 兄
「ハッピバースデートゥーユゥ、
ハッピバースデートゥーユゥ、
ハッピバースデーディア、ネースー……
ハッピバースデートゥーユゥ……イェーイッ!」
「……なんか……すごい盛り上がっているけど……なんだこれ……って! 兄さん! なんなんだよ一体!」
周りの皆が聞き覚えのない歌を披露した後、ルークと一組の男女が手を繋ぎ、ネスの前でポーズを決めた。
「うん、今度は完璧だな。これは異国の歌で、誕生日を祝う歌らしいんだ。仲間に教えてもらった」
賑やかな歌とは対照的に、無表情なネスの兄──ルーク。
(──あれは本当に兄さんなのか)
彼は、ネスの記憶にある兄ではなかった。兄が故郷を去って三年──柔らかで美しかった瞳は淀み、優しさの欠片もない。並べる言葉に感情がこもっているようにも聞こえない。
「異国の、というよりも異世界と言った方が良いのか……うん、まあ、少し遅れてしまったがネス、誕生日おめでとう」
故郷を破壊し、母を傷付けた兄。三年の間に一体何があったというのだろう。
「えへへー」
手を繋いだ体勢のまま、桜色の髪の美しい、細身の少女が口を開いた。
「私はね、テーベ。で、こっちはナルビーだよ。ルーク様の右腕と……左腕だよ!」
「おいおいテーベ、全部言ってしまうなんて酷いじゃないか」
ナルビーと呼ばれた青年が、しまりのない突っ込みをいれた。
「…………」
しばしの静寂が四人を包む。アグリーを倒してきたのか、その場に到着したレスカも、口を開けてその光景に見入っていた。
「あ……兄がお世話になっています」
思いがけず出た言葉に、自分でも驚くネス。テーベとナルビーも同じように感じたのか「こちらこそー」と、ヘラヘラと腰を折った。
──が、次の瞬間、ぬるま湯のようなこの場の空気を切り裂くように、突然テーベとナルビーがネスに斬りかかってきた。
「……っ!!」
ネスは身を引いてその攻撃を躱す。よく見ると二人の首筋にはダフニスと同じ、引っ掻き傷のような刺青がある。
(こいつらも改造型のアグリーということか……!)
ネスが浅葱を抜く一瞬の隙に、ネスを庇うように飛び出したレスカの薙刀──月欠が二人の刃を捕らえた。
「なんか、大したことなさそうね、お二人さん」
アグリーの背に飛び乗り、二人分の攻撃を刀身で受け止めるレスカ。大振りの薙刀を巧みに操ると、刃の付いていない石突き側でナルビーの心臓を貫き、引き抜いた。大量の血飛沫が上がる中、振り上げた刀身で彼の首を斬り落とすと、首を失ったナルビーの体は、紙切れのようにひらひらと海へと落下した。
「よっと!」
レスカは、隣のテーベに攻撃をさせる隙も与えず、振り上げた刀身をそのまま彼女の首へと振り下ろす。月欠をくるりと持ち替えると、テーベの心臓にそれを突き立てた。レスカの朱色のシャツに、真っ青なネクタイに、真っ白なエプロンに、二人分の血飛沫が染みを作った。
「すごい……」
船上から今日一番の大歓声が上がった。目の端でルークを捉えたまま、レスカは仲間に向かって大きく手を振った。
「ねえネス、アタシあっち斬りにいくけど、どーする?」
迫り来るアグリーの大群に、雷撃波を撃ち込みながらレスカは言った。目線をネスに向けたままとは思えないほど、彼女の攻撃は正確にアグリーを貫いてゆく。今まで見てきた彼女からは想像もつかない攻撃的な口振りに、ネスは動揺してしまう。
「に……兄さんと二人にしてくれ」
「そ、健闘を祈るわ」
レスカはルークに向かって、エプロンの裾を持ち上げて上品に挨拶をすると、猛スピードでその場を離れた。
船にアグリーの群れが迫っていた。レスカはアグリー達の放つ獄光を躱しながら、その群れに向かって雷撃波を撃ち込んだ。撃ち漏らしたアグリーには容赦なく月欠を振り下ろす。
「まるで狂戦士だな」
ルークの背後で、主を失った二匹のアグリーが、主を弔っているのか──耳障りな高い声で鳴いた。
「母さんみたいだな、あの少女……」
「兄さん」
「ん、なんだ」
間違いない。目の前にいるのは間違いなく兄、ルークだ。母を傷つけ、故郷を滅ぼした、残忍な姿に成り果てた兄なのだ。
「俺がガミール村にしたことを怒っているのか?」
「当たり前だ!」
ネスは浅葱を握る手に力を込めると、意を決してルークに斬りかかった。ルークは驚きながらも、抜刀しネスの攻撃を受け止めた。
「どうして! どうしてあんなことを!」
何度浅葱を振り下ろしても、ルークには届かない。ネスは浅葱を鞘に戻し、ルークと距離をとると、生成した複数の水柱を連続的に撃ち込んだ。
──ザザザザッ! バシュッ!
ルークは体を捻り全てを避けきったが、Uターンしたその内の二つがルークの背中に命中した。迫ってくる兄の頬に、ネスは拳を撃ち込んだ。
「……」
声も上げずその場に踏みとどまったルークは、折れた歯を海へと吐き捨てる。ネスとの距離をゆっくりと詰めると、彼の胸倉に掴みかかった。
「お前が浅葱も、神石も、全てを継承したからだ」
ルークの瞳に感情の色は何もなかった。全ての感情を捨て去ってしまったような、澄んだ瑠璃色の瞳。
「俺が継承するはずだったんだ。それなのに何故、父さんも母さんも俺を認めてくれない。なあネス、何故だと思う」
ドンッ──と、二人の足元で大きな音がした。
ネスが首だけで振り返ると、船上の壁から舞い上がる埃の中から飛び出す、アンナの兄──レンの姿が見えた。彼は吹き飛ばされる途中に落とした刀を拾い上げ、猛スピードで前進すると、正面で陽炎を構えたアンナに刀を振り下ろした。二人は、この位置からでは捉えられない早さで、刃を交え合っている。
「それが分からなかったから、俺はあいつらと手を組んだんだ」
エウロパに引き上げられたクロウと、船上で駆け回るレンに視線を移しながらルークは言った。
「こんな世界、もうどうだっていいんだ。だから、なくなってしまってもいいんだ」
「兄さん、何を……」
ネスの問いかけを無視して、ルークは続ける。
「お前、よくあの女と一緒にいられるな」
ルークは掴んでいた手をネスから離した。攻撃をしてくる様子もなく、ネスと適度な距離を保つ。
「アンナは悪い人じゃないよ」
「殺し屋のくせにか」
「兄さん、今はそんなことどうだっていいだろ」
ルークは目の前のネスなど見ておらず、それよりももっと遠くのものを眺めていた。ネスの目には映らない、何が遠くのものを。
「──聞くが、お前はその浅葱と神石を俺に渡す気はあるのか」
抑揚のない兄の声。なんだ──一体何が兄をここまで変えてしまったのだ。
「ないよ」
「──そうか」
ルークは一旦目を閉じ、ゆっくり開いた。
「それならば戦わなければならないな。俺にはどうしてもそれが必要なのでな」
そして母にしたのと同じように、弟に向かって氷の刃の雨を浴びせた。
*
埃にまみれたレンの攻撃を受け止めながら、アンナは彼の右頭部に足蹴りを打ち込んだ。甲板に叩きつけられるも素早く起き上がったレンの胸に、手加減なしの拳を打ち込む。身を引いて体勢を整えようとする彼の足を払い、突っ伏したその背に陽炎を突き立てようとしたところで、彼は身を翻しそれを回避した。
(まずいな……このままじゃ船を破壊し尽くしてしまう)
アンナは突き差した陽炎を引き抜くと、空中に逃げたレンと同じ高さまで飛び上がった。あっちが空中戦を希望するというのなら、望むところだった。
「しかしアンナ、お前の腕のやつ随分と成長したな」
アンナは何も答えず、レンを睨み付ける。憎くて憎くて仕方のない、変わり果てた兄の姿を。
「俺のものになれよ、アンナ。そうしたらその呪いも解いてやる。俺を殺して解くより、手っ取り早いだろ?」
これ以上、兄と会話などしたくなかった。一気に距離を詰め、首筋をめがけて陽炎を振り下ろす。刃と刃がぶつかり合い、ぎりぎりと音を立てる。
「兄上、諦めたら? 分かっているんでしょ……あたしはあなたより強いのよ」
事実、戦闘における実力は、総合的にみればアンナの方がレンよりも勝っていた。単純に腕力だけならばレンの方が上なのだが、アンナの戦力の前で、そんなものは比べるだけ無駄であった。
「ふん、そうだろうな──けどな、アンナ、お前に剣術を教えたのは父上だが、お前に戦闘ってモンを教えたのはこの俺だぜ」
「だったらなによ」
「お前は殺し屋としては一流だが戦士としては、まだまだってことだ」
「なに訳の分からないことを────なっ……」
レンは刀の柄から左手だけ離すと、瞬時に作り出した複数の炎の球を、足元の船に向かって打ち落とした。
「くそっ!」
いくら海上にいるとはいえ、木製の船にあれほどの炎が降り注いだら一溜まりもない。アンナは身を翻して炎の球に追い付き、手前に回り込むと、それが船に衝突する寸前で、自らの作り出した炎で全てを打ち消した。
「こういうのはネスの仕事でしょ……」
空を見上げると、懸命にルークと交戦するネスの姿があった。
(あんたも兄と戦う道を選んだのね)
と──
「お前ともあろう奴が、余所見すんなよ、なあ、アンナ」
「────っ!」
腹を蹴られ、アンナは背中から甲板に叩きつけられる。背負っている黒椿のお陰で、背骨にダメージは受けなかったが、反動で頭を強く打った。身を起こそうと反らした左肩に、レンの投げつけた刀が突き刺さる。
「──ぐっ……ッ!」
甲板との間に串刺しにされたアンナは、素早くそれを引き抜き乱暴に投げ捨てた──刹那、目の前のレンと目が合った。
「よう──」
アンナの両肩を掴んだレンは、力一杯彼女を甲板に叩き付けた。アンナは再び頭を強く打った。
(くっ……意識が──)
レンは転がっている刀を拾い上げると、先程アンナが引き抜いた傷口と同じ場所に、もう一度それを突き刺した。
「──────ぐぅ゙ぅ゙っ……!」
アンナの体が跳ね上がり、閉じかけていた目がじわりと開いた。
「感謝しろよ。意識が飛ばずに済んだだろう?」
レンは左手でアンナの頬に触れると、首筋から太腿にかけて何度もいやらしくその手を滑らせた。
「ハァ……ハァ……この……ハァ……変態ッ野郎が……」
「一国の姫がそんな汚い言葉を使うもんじゃないぞ」
俺はこういうやり方でないと、お前に敵わないからなあ、とレンは激しく上下するアンナの胸の上──鎖骨を撫でまわす。
「お前も堕ちたな、アンナ」
「どういう……意味よ……」
レンはアンナの頭を掴むと、その瞳を覗き込んで言った。
「くだらない仲間意識などのせいで、己がここまで傷付くことになんの意味がある? お前らしくもない。甘くなったもんだなぁ、おい」
胸を這っていたレンの手が首から下げた神石に触れると、アンナは目を見開き彼の額に頭突きを食らわせた。
「……っ! こいつ……!」
レンは立ち上がりアンナの体を蹴り飛ばす。アンナが壁に衝突し、起き上がろうとした所で、彼は彼女を押し倒しその上に跨がった。
「おい、アンナ。世間がお前のことを何と呼んでいるか、知っているのか? 戦姫だぞ。それなのに、なんだ。お前はこんなにも素晴らしい戦闘を繰り広げられるのに、最強の殺し屋という称号だけで満足なのか。昔のようにもっと見境なく働いたらどうなんだ」
両腕を拘束されて、アンナは身動きが取れなくなった。左腕は拘束せずとも、もう動かないだろうに──レンは──アンナを恐れるかのように、必死に彼女を拘束する。
「戦姫なんて。父上が……あたしを戦場に……駆り出すことが多かったから……付いた……あだ名でしょ」
アンナは息を整えながら兄を睨む。
「世間がなんと言おうと……兄上。あたしたちは殺し屋──戦士だなんて……呼ばれて喜ぶものではないでしょ……」
掴まれている両腕を外に引き、レンの体を自分に引き付けると、アンナは不満げに眉をひそめるレンの眉間に再び頭突きを打ち込んだ。
「ぐっ──このッ!」
激痛の走る左肩はこれ以上動きそうにもない。アンナは素早く身を起こし、よろけたレンの右半身に一太刀────
( ──殺してやる! 殺してやる! 皆の、仇を──!)
「うっ──」
レンを斬ったと同時に、アンナは斬られた──右脇腹に痛みが走る。
「この程度────ッ!」
犬歯で唇を噛み、踏みとどまって体を反転させる。背を向けている兄に、とどめの一撃を──とアンナが振り返った先に──レンの姿はなく、呆然と立ち尽くす彼女の目の前には、彼の残した血痕だけが、朽葉色の甲板に点々と染みを残していた。
「兄上ッ!」
顔を上げると、星の瞬く夜空に吸い込まれるように去っていく兄の背中があった。
「次に会う時にはお前と、その神石も頂く……覚悟していろ」
独り言のように呟くと、レンは生き残ったアグリーの背に乗って去っていった。アンナはその場に蹲ることしか出来なかった。




