第三十六話 歪んだ愛
「兄上……何をしにきたのよ」
溢れ出る憎悪の渦を隠すことなく、歯を剥き出しにしてアンナは兄を睨み付けた。固く握りしめた筈の刀はカタカタと音を立て、彼女の手の中で震えていた。
「俺も『無名』の一員だ。政府の奴等が仮称でそう呼んでいるらしいな」
「そんなこと聞いていないわよ」
「皆、その呼び名が気に入ってな。そう名乗らせてもらうことにした」
「そんなこと聞いていないって言っているでしょっ!!」
アンナが食ってかかると、兄──レンは口を歪めていやらしく笑った。
「何をしにって──もちろん、『君に会いに』」
「……な……なんですって……?」
兄の一言で、アンナは全てを理解した。兄が自分のことを「君」と呼ぶのは、昔からいつだって、決まって、そういう時だった。
──エリックが自分に向けた言葉の、真似をする時だった。
「見ていたんだぜ、ずっと──可愛い俺の妹が、憎たらしいあの男に抱かれる姿をな」
目を細め、いやらしい顔でレンは言う。兄が妹に向ける表情とは言いがたい──その醜悪な顔。
それを聞いたアンナの顔は紅潮した後、真っ青になった。
(本当に──この人は──昔から、ずっと、そう。異常なまでの愛情で、あたしを飲み込もうとする)
「おいアンナ。聞いているのか?」
(──いいや、違う。──ずっと、ではなかった。まだ幼かったあの頃──あの頃の兄上は、こんな風ではなかった。いつからだ──いつから兄上はこんな風に──)
「そのガキにも聞かせてやりたかったな、お前がエリックに──」
「……やめてよ、兄上」
アンナはか細い声で呟いた。レンの低い声が、それを上書きするように塗り重ねられる。
「何をだ?」
「……ネスの前でそんなことを言うのはやめて!」
耳を塞いで縮こまり、アンナは叫んだ。レンから視線を逸らした彼女とネスは、自然に目が合った。
「お願い、ネス……そんな目で、見ないで」
「アンナ、俺は何も……」
「お願い………何も言わないで!」
ネスの目に映る自分を想像することが怖かった。アンナはネスの視線から逃げるように、背を向けて彼の前に出た。ネスにその表情を見ることは出来ない──それでよかったと思う。今のネスは、彼女をどんな風に見つめればいいのか、分からなくなっていたのだから。
「アンナ、そんなガキ、捨てちまえ。全てを捨て、一人の女として俺達の所へ来い。そうすれば何もせず大人しくこの場を去ってやるぞ」
どうだ? とレンは右手を差し出した。その手に向かってアンナは、吹っ切れたように陽炎を振り下ろした。
「だれがあんたなんかと……」
大きく息を吐きながら、アンナはレンとの間合いを詰める。
「さあ、早く来い!」
「……黙れ!」
抜刀したレンとアンナの斬り合いが始まった。間合いはすぐに詰められ、二人の刃がギチギチと肉薄する。
──キイン! キンッ!
鍔迫り合いの最中、アンナはハッと目を見開き、兄の言葉を思い出した。
「俺達、ですって……?」
レンの口が歪んだのを見て、アンナは振り返る。
「……ネス!」
アンナの振り返った先には、三人の人影に囲まれるネスの姿──それに、無数のアグリーが見えた。先程自分が燃やし尽くした大群の倍以上はいるように見える。
「ネス! 逃げろ!」
いくらネスが成長したといっても、三対一で敵う筈がない。
(早く兄上をどうにかしないと──!)
「こっちを見ろよ、アンナ」
アンナが視線を戻すと、鼻のぶつかる距離にレンの顔があった。息を呑んだ一瞬の隙に、半回転するレンの体から、鋭い回し蹴りが繰り出された。
「くっ────!」
ドンッ──と、船まで吹き飛ばされたアンナは、メインマストの根元に背中から勢いよく衝突し、倒れ込んだ。彼女が衝突した瞬間、夜空にまで届くほどの大きな音が響き渡った。
「アンナっ!」
ネスはアンナの方を振り返り駆けつけようとするが、目の前にいる三人組はそこを通してくれる気配などなかった。
「くそっ……!」
悪態をつくことしか出来ぬ己が情けなくて仕方がない。床に伏せたままのアンナが動く気配は、未だなかった。
*
「レスカ!」
倒れこんだアンナに駆け寄りながら、エディンは厨房で皿洗いをしている彼女の名を呼んだ。
「レスカ! 来いっ!」
それを聞いて飛び出してきたレスカは、可愛らしい白いフリルのエプロンを身に付けたままの姿だった。彼女は四方に視線を投げ、瞬時に現状を把握した。
「船長、指示は」
無限空間から飛行盤と、ライル族特有の武器──薙刀 月欠を取り出しながら、レスカは駆け出した。
「ネスの援護だ! 平行してアグリーの殲滅! 打ち漏らしはこちらで何とかする!」
「りょーかいっ!」
圧倒的不利なこの状況下においても、戦闘狂のレスカにとってみれば、身の危機を感じる程のことではなかった。それと同時に、倒れていたアンナの起き上がる気配。
「うっ……くそっ!」
レスカが夜空へ到達したタイミングで、倒れていたアンナが体を起こした。立ち上がり血を吐き捨てると、自分を見つめる兄を目一杯睨みつける。駆けつけたエディンは、久しぶりに見るアンナのその目に、一瞬だけ背筋が凍った。
「アンナ、あいつは……」
「あたしの兄よ」
「……そうか」
そこそこ長い付き合いではあるが、エディンはアンナの兄について、彼女の口から直接話を聞いたことは殆どなかった。彼女の家族への仕打ちは耳にしたことがあったが、人となりまでは知るところではなく、初めて見るその風貌に、言いようのない不安が押し寄せていた。
「悪いわね、エディン。結局迷惑かけちゃうみたいで」
アンナは陽炎の刃の部分を口に咥え、髪を頭の高い位置で結い上げた。彼女が長い髪を結い戦うのは、本気を出すという証であった。
「フーッ……」
アンナが短く息を吐き空を見上げると、こちらに迫ってくるレンの姿が見えた。数年ぶりの邂逅だ──今度こそ必ずとどめを刺すという決意を胸に、刀を握る手に力を込めた。




