第三十三話 ようこそ、ミリュベル海賊団へ
この船の名が、何だったかはもう忘れた。進水式の時の、エディンの嬉しそうな顔しか記憶にない。あの時、あたしの瞳はまだ血色だった──と思う。
船首には…………名前は思い出せないが、穏やかな顔の海の女神がくっついている。
(──お前に似ているだろ)
まだ二十歳にもなっていなかったエディンは、たしかそんなことを言っていた。
あれからもう十年……三年ぶりに会う二十七歳になったこの近海の覇者は、一体どんな海賊になっているだろう。
「ちょ……はやっ……待って下さいよ、アンナさん!」
アンナの背を追うこの金髪の少年はウェズ・レッダ。この船が出来る少し前にエディンが戦場で拾った人間の子──戦争の遺児。
船のタラップを上るのさえ煩わしいのか、アンナは走る勢いそのまま、数十メートル飛び上がり、船の甲板に大袈裟に着地した。ドン、という着地音が周囲に響き、足元がぐらりと揺れる。
「え、ちょ、アンナさん!」
人間のウェズにこんな芸当が出来るわけもなく、彼は息を切らしてタラップを駆け上がってくる。
(……どこだ?)
ウェズを置き去りにしたままアンナがぐるりと首を回すと、少し先の階段を上った角にある扉の前に人だかりが見えた。
(──あそこか)
ぐっと踏み込んで甲板から階段のてっぺんまで飛び上がって着地し、走る。着地の瞬間、船がまたぐらりと揺れた。ウェズの声も足音も、もうアンナの耳には届かない。
「そこをどけ!」
人だかりに向かって突っ込むと、周りにいた乗組員達は珍しそうに声を上げ、アンナの体に手を伸ばした。
「触ったらぶっ殺す!」
後腰の陽炎を抜くと、彼等は青ざめ一斉に後方へ退いた。ドアノブを回すのさえ手間なのか、アンナは力一杯ドアに回し蹴りをお見舞いした。
「ネスッ!」
大きな音をたてながらドアが勢いよく吹き飛ぶ。可愛らしい部屋の右隅にアンナが視線を投げると、ベッド上のネスと目が合った。
──全裸のネスと目が合った。
「やっ……いやあああああああああああああっ!」
正確に言えばネスの腰の上には、これまた全裸の少女が跨がり、ネスの体に、顔を──埋めていた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁああっ!」
顔を上げた少女と目が合うと、彼女は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして叫んだのだった。
*
「全く、何をやっているんだお前は!」
船内の一室。ここはどうやら船長室のようで、彼は部屋に入って来るなりレスカに向かって怒鳴った後、彼女の額を指で弾いた。
「いったーいっ!」
背が高く、筋肉質な彼の瞳は黒い。頭に巻いた白く長いバンダナの隙間から、少し癖のついた明るい茶髪が見え隠れしている。そこから覗く左耳には、錆色の神石の付いたピアス。肩当てのついたコートを肩に掛け、海賊ということがひと目でわかる、そんな雰囲気だった。
「だってー!」
「だってもクソもあるか! 恥を知れ、恥を!」
彼は光沢のある木製の執務机を叩いた。反動で机の上のグラスが倒れ、中身が机を伝って床に溢れる。
「あーぁ、なにやってんだ……エディン」
駆け寄ったウェズはグラスを起こし、何か拭くものがないかと首を回した。なかなか見つからないようだったので、見兼ねたネスは離れた距離から溢れた飲み物に意識を集中させ、グラスの中に引き戻した。
「おぉ……流石だな」
「ハッ! お前、なにモンだよ」
感心したエディンが声を上げた直後、ネスに詰め寄ってきたこの金髪の男は、先程酒場で隣に座ったレスカの連れだった。何故ここにいるのか、今のネスには理解できなかった──あんなことの後だ。
部屋の入口近くで腕を組み、壁にもたれ掛かったアンナは、ネスが振り返ると恥ずかしそうに目を伏せた。
(あんな光景を見たら、そりゃそういう反応になるよな……まあそういう俺もレスカの顔を見るのも恥ずかしいんだけど)
「まあ、とりあえず自己紹介だ。俺はエディン・スーラ。この海賊団の船長で雷の破壊者だ。ネス・カートス、この度はすまなかったな。うちの者が迷惑を掛けて」
「いえ、そんな……」
「自己紹介の続きだが、俺の趣味は……」
「趣味はいいって」
頭を下げたエディンを脇に押しやり、金髪の男が会話に割って入る。
「俺はウェズ・レッダ。副船長で、十六だ。んで、こっちがレスカ」
レスカを顎でしゃくったウェズは、お前は? とネスを挑発するように睨み付けた。
「ネス・カートス。水の破壊者だ」
「お前がぁ?」
ウェズは、ゆったりとしたハーフパンツのポケットに手を突っ込みながら、更にネスに近寄ってきた。
「見るからにライル族ってかんじなのにな」
「色々事情があるんだよ」
事情ねぇ、と物珍しそうにネスを見るウェズの視線は、あまり心地の良いものではない。
「ねえねえ、ところでさ! あのキレイなおねーさんは、どちら様?」」
大人しくしていたレスカが、目を輝かせながらその間に割って入った。目を伏せたままのアンナは、レスカの声にゆっくりと顔を上げた。
「聞いたらびっくりするぞ、レスカ。俺の部屋に貼ってある手配書、覚えてるか?」
「あのコレクションの?」
ウェズが得意気に言うと、レスカは細い首を傾げた。それにつられてツインテールが揺れる。
「お前の一番のお気に入り、誰だったか?」
「……え!」
まさか、でも、と言うとレスカは、アンナの顔をじっと見つめた。
「え……うそ……」
「嘘じゃない、この人こそ俺たちの憧れ──戦姫と呼ばれたアンナ・F・グランヴィさんだ」
*
エディンが出航合図を出しに数分間席を外している間、レスカはアンナの手を取り、きゃあきゃあと嬉しそうに跳び回った。アンナの大ファンだそうだ。
「ひょっとしてネスの恋人ってあなた?」
クロスホルターのドレスから覗くアンナの胸を見つめながら、レスカは呟いた。
「違うわよっ!」
「違うってっ!」
アンナとネスが同時に叫んだ。
「うーん、これには敵わないかなあ」
言いながらレスカは自分の胸を見下ろした。
「……?」
アンナが不思議そうに首を捻る。自分の胸の大きさを指しているのだと気が付いていないようだ。
「アタシもきっとすぐに追いつくから、待っててよね!」
「返す言葉が見つからねえよ……」
レスカの屈託のない笑顔が向けられると、ネスとウェズが大きく溜め息をついた。直後、船が動き出しす。
果てしなく広いジュサン海を、船は進む。行き先はブエノレスパ──この旅の終着点。
その後エディンにこっ酷く叱られたレスカは、船長命令だという彼の言葉に従って、皆が宴会で騒いでいる最中、厨房で皿洗いの刑を食らっていた。
ネスはウェズに連れられ、彼の部屋のテラスで料理をつつきながら、談笑に花を咲かせていた。窓から離れた壁には、彼のコレクションだという悪党達の手配書が十数枚、丁寧に貼られていた。ネスはコレクションの真ん中に、あの恐ろしいアンナの手配書を見つけた。
(何度見てもこれは強烈だな……)
眼下では総勢五十名程の乗組員達が、酒を片手にどんちゃん騒ぎだ。ネスとアンナの歓迎会だといって始まったこの宴会だったが、あまりにも騒がしいので、ネスはこっそりその輪から抜け出していた。
ウェズは彼等の騒ぐ声に時折、手を叩いて笑い声を上げている。少し強烈な彼の身なりに、初めは警戒していたネスだったが、これがなかなか話の合う奴だった。彼は海賊として海に生きる傍ら、政府の研究員として任務をこなす異色の経歴の持ち主だった。木製の椅子に白衣が掛けられ、隅の机上に積み重ねられた書類の束の上には、縁なしの眼鏡が置かれている。
「専門はアグリーの生態追跡なんだけどな、けっこう辛いことも多いんだ」
今は話せないけどまた今度な、と言ったウェズの瞳は悲しみの色に満ちていた。黙りこんだ彼は、手元のグラスに入った透明の液体を呷った。
アンナがエディンとウェズに会うのは三年ぶり。エディンがレスカを拾ったのは二年前なので、レスカとアンナは初対面なのです。
ちなみにウェズの右腕の刺青は、彼が昔アンナに憧れて彫ったものという設定です。




