第二十一話 柔らかな夢の淵で
夢と現実の間で誰かが自分の名前を呼んでいる。
──目の前にいる彼女の声だ。
今の自分にはそれしか聞こえない。彼女の甘い声しか聞こえないのだから──と、はじめはそう思っていた。
彼女の頬に触れていた手を首筋へと伸ばし、それから再びそれよりも下へ伸ばそうと──したところで頭上から名前を呼ばれていることに気が付く。
「どうしたの?」
眼下にいる彼女は不思議がって首を傾げた。その姿が愛おしくて、ネスは彼女の首筋に唇で触れた。
「──どうもしないよ」
ネスの吐く息がくすぐったいのか、彼女は小さく声を漏らした。その声がネスを再び欲情させる。
『……ネス様!』
聞き覚えのある澄みきった静かな声。明らかに彼女の声ではない。これは現実で誰かが自分を呼び戻そうと、必死になって叫んでいる声だ。
「ねえ、早く」
彼女は待っている。
見たこともない姿で。
聞いたこともない声を出して。
これは夢なのに──全てが自分の描く妄想なのに、抜け出せないのは何故だ。目覚めたくても出来ないのは何故だ。
「──いや、だめだ」
彼女と体が離れる。つられて彼女も身を起こす。
「だめなんだ」
「どうして?」
身を起こした彼女はそのままネスの体を押し倒し、拘束するようにその上に跨がると、ネスの体を抱き寄せた。
「夢なんだから、あたしに何をしたっていいじゃない」
耳元で、甘い声で囁かれると、自分の行為が肯定されているようで心地よかった。でも──
「違うんだ……。俺はあなたとこうなりたかったわけじゃないんだ」
「本当に?」
「本当だ」
「本当の本当に?」
「そうだよ」
「本当なのね」
「そうだよ」
「そう──じゃあ、さよなら」
夢の中の彼女は霧になって風に流され、そして姿を消した。
*
「ネス様ッ!」
ネスが目を開けると、血相を変えたシナブルが自分の顔を覗き込んでいた。
「ご無事で……よかった……」
少しだけ乱れた髪に、緩めたネクタイ。シャツの襟周りが血で染まっている。安堵の色を浮かべたシナブルは、その場にぺたりと座り込んだ。
「俺は……一体」
そう言ってネスは思い出す。彼女の中にいた自分を思い出す。思い出した途端、恥ずかしさと情けなさでシナブルから目を逸らした。
(夢とはいえ、俺は……この人の大切な主人にとんでもないことをしてしまった)
「お怪我はありませんか」
そんなネスの気をよそにシナブルは、ネスの両肩にそっと触れた。
「うわあっ!」
触れられたと同時に彼女の肌の温もりが体に蘇り、ネスは飛び上がってしまう。
「すいません、痛みましたか?」
「いや、何でもない。それよりシナブル、血が……」
赤々と染まったシナブルのシャツをネスは指差した。
「俺の血です」
「え、うん…………で、どうしたんだそれ?」
少し困った表情になったシナブルは、ネスにどこまで話そうか少しだけ悩んで、口を開いた。
「分からないんです」
「分からない?」
「はい。ネス様の後を追っていた賞金稼ぎ達を、この辺りで蹴り飛ばして気絶させ……それからあなたは情報屋に接触しましたよね?」
「そうだな」
ここまでの二人の記憶は一致していた。確認するようにシナブルは続ける。
「ネス様はその情報屋と二人で話すために、路地へと姿を消しました。俺が覚えているのはそこまでです。その情報屋がどんな奴だったのか……男だったのか女だったのかさえ記憶にありません」
消されたように──と。
「消されたように……」
「ネス様?」
「俺も同じだよシナブル。路地に入って、それから……君に起こされるまで、夢の中にいた」
「ゆ、め…………」
「どうかした?」
見開かれたシナブルの瞳に、明らかに動揺の色が差した。しかしそれは一瞬で消え去り、彼は何事もなかったかのように話を続ける。
「恐らく魔法使いの仕業でしょう。我々の記憶を意図的に消している」
「……意図的に?」
「ええ」
目的は分かりませんが、とシナブルは立ち上がり、ネスに手を差し出した。
「歩けますか?」
「ああ、大丈夫だ」
二人は揃って歩き出した。先程垣間見えたシナブルの動揺は何だったのだろうかと、ネスは気になって仕方がなかった。しかし話をそこに戻されては困るのだと言わんばかりに、シナブルはネスを気遣う言葉を投げ続けた。
聞かれたくないのだろうか……そう思いながらもネスの好奇心は止まらない。
「ひょっとしてシナブルも気を失ってた?」
「情けない話ですが」
──肯定。
「あなたを守るよう命令を受けたのに、情けない……情けないったらない」
「そ、そこまで思い詰めなくても……」
「いいえ。姫の命令は絶対です」シナブルは断言する。「絶対なのです。俺にとって姫は、アンナ様にはそれだけの価値がある」
立ち止まり、シナブルはネスの顔を見据える。
「俺は間違っていますか?」
「え?」
「今まで誰かに──妻にだって、こんな話をしたことはなかった。賢者になるという、あなたの意見を俺は聞いてみたい」
意外だった。シナブルがこんなにも積極的に話をしてくれるなんて。それを彼に伝えると、少し照れくさそうに顔を背けながら「あなたに流れる御父上と同じ賢者の血が、そうさせるのかもしれません」と言った。
顔を下げ、シナブルは続ける。
「あなたが耳を疑い、目を背けたくなるほどの人々を殺めてきたあの御方を、世界中から非難の目を向けられ、恐れられている殺し屋を──主だといって仕えている俺の生き方は間違っているのでしょうか?」
(……シナブルは俺に何と答えて欲しいのだろう)
これは簡単な話ではない。彼の言葉を肯定し、ちょっとしたアドバイスを添えれば終了という類のものではないのだ。
だからネスは素直に、心に浮かび上がった言葉を紡ぐ。
「──シナブル・グランヴィ」
静かに名を呼ぶ。彼は顔を上げた。
「俺には殺人行為の肯定は出来ない。でも、殺し屋の主に仕えることが間違っているとは思わないよ。その行為はあなたが生きていく為に必要なことなんだろう? だったら──だったら俺にそれを判別する権利はないよ。あなたの生き方を決定する権利なんて誰にもないんだからさ」
「生き方を決定する権利は誰にもない……か」
納得したように頷くとシナブルはうっすらと微笑んだ。
「流石はシムノン様の御子息ですね……」
そう言ってシナブルは、かつて──シムノンにかけられた言葉を思い出した。
「え、何?」
小声で呟かれたので、前方に立って、正面を向いてしまっていたシナブルの声を聞き取ることは出来なかった。
「さあ、帰ったら今日は体術の稽古をしましょう」
シナブルがネスの問いかけに答えることはなかった。代わりに彼はその帰り道、いつものように姿を消すことはなく、初めてネスの後ろをついて歩いた。
その途中でネスが、記憶の片隅に残っていたシナブルのプライベートな部分について質問攻めをしたせいで、彼は精神的に疲弊することになる。
(何故ネス様がそのような事を知っているのか……話した記憶はないのだが……魔法使いによる記憶の改ざんなのか?)
好奇心の強いネスの攻撃は、二人がホテルに到着するまで続いたのだった。
シナブルは、アンナが生まれた頃から仕えているので、彼女をとても大切に思っています。過去に主と臣下という立場を越えかけたこともありました。(そのお話はまたいずれ)彼は妻子を持ち、その気持ちに区切りをつけたつもりでいたようですが……心の奥底に、まだ過去の想いが残っていたのかもしれません。




