第百二十一話 いのちのおわり
マーガレットの花言葉は「真実の愛」ダイアンサスの花言葉は「純愛」です。
神に連れて行かれたネス・カートスが己の左目、そしていくつかの内臓と引き換えに神に提示した条件は、破壊者制度の廃止、それにせかいのおわりを止めるということだった。
更に水の血族の転生も自分を最後に終わらせてほしい──と。神はこの条件をネスの寿命を数十年分奪うことで受け入れた。
『君はあと二回転生するんだからいいでしょ?』
と言って。
破壊者から取り上げた神石は神が手元に置くことにしたようだ。そんな彼女がネスを解放したのはあれから半年後。現在はネスの体から奪ったもので造り上げた彼の複製を遊び相手としているようで、しばらくは退屈しそうにないという。
あれから十五年が経っていた。
神が破壊した世界の復興は未だ完了しておらず、いかに被害が大きかったのかを物語っている。騎士団が躍起になって復興を進めてはいるが、ブエノレスパからソート大陸まで割けた空の結合に時間がかかっているようだった。
「あなた、今日は起きて平気なの?」
十五年前の少女のような声は抜け、大人びて柔らかくなった彼女の声がネスの耳を優しく撫でた。
「──サラ」
「どうしたのよ、そんな顔をして。私の顔に何か付いてる?」
「いいや」
青い三角屋根の、この村にしては大きい家。リビングの大窓の前に置かれたロッキングチェアに腰掛けたネスは、少しだけ窓を開けて外を──十五年前に完成した庭をぼんやりと眺めていた。
この庭はネスの兄ルークが息子のリヴェの手を借りて半月程で完成させたものだった。丁寧に刈られた青芝の上には季節の花々が巧みに配置され、見ていて飽きることはない。今は小さなマーガレットが咲き乱れ、隅の方では少しずつ桃色のダイアンサスが咲き始めている。
「子供たちは?」
「ディーノは隣の部屋で眠ってる。上の二人はリュード君と一緒に遊びに出掛けたわ」
「母さんと、兄さんは?」
ここ半年で、あまり長い言葉を発することが出来なくなっていた。息が続かないのだ。二年前に三人目の子を授かった時には、まだ走ることも出来たというのに──今は調子が悪いと起き上がれない日もあるほど、ネスの体は弱っていた。
「お義母さんはお買い物よ。お義兄さんはリヴェ君と──今日は漁のお手伝いですって。明日は──」
「サラ」
痩せて少し痩けた頬、それに腕──その腕を持ち上げてネスはゆるりと手招きをする。
「どうしたの、真面目な顔をして」
「──愛してる」
窓から射し込む温かな春の日差しに包まれたロッキングチェアの前で、サラは足を止めた。
「私も、愛してるわ」
明るい橙色だったネスの髪は、彼の命が終わりに近づくごとにくすんだ色へと変化していった。瑠璃色の瞳の輝きは衰えていないが、左目にはめ込まれているのは義眼。これはナサニエフ・マードックがネスのために魔法で作り出したものだった。
そんなナサニエフはネスの父シムノンと共に、今日も世界のどこかで人々を救い、導いている。
あれからネスは、父に会っていない。「自分が破壊者の地位を放棄したことによって、息子を酷く傷付けた」という自己嫌悪に陥ったシムノンは、ネスが何度会いたいと連絡をしても、会わせる顔がないと言って再会を拒絶していた。
「──アンナは元気かなあ」
「アンナさん?」
「ああ……」
「四人目が生れたばかりだもの、忙しくやってるんじゃないかしらね。それにしても、一体どうしたっていうのよ、急に──」
「──ごめん、サラ」
前屈みになって口元を抑えるネスの背を、サラは優しく撫でる。サラが少しだけ開いていた窓を更に開けて室内に風を取り込むと、ネスはその風を吸い込むように大きく深呼吸をして息を整えた。
「大丈夫?」
「少し、疲れたみたいだ」
「お茶を入れてくるわね」
ロッキングチェアの肘掛けに掛けてあったブランケットをネスの膝に掛けると、サラは早足でキッチンへと消えた。
「──あっという間だったな」
鞘に収められ、壁に飾られた浅葱を見つめながら、ネスは過去に思いを馳せる。
寿命もかなり神に差し出した。内臓がいくつも無いのに、体は意外なほど長く動いてくれた。
魔法使いや魔術師がネスの臓器を復元しようと力を尽くしたが、出来ずじまいだった。
神は世界の理だ。彼女が駄目だと言えば彼女が定めたルールに従わなければならない。臓器や左目、それに寿命を使って作り上げたネスそっくりの操り人形がいるせいで、ネスの臓器は復元不可だった。それが完全に消失していれば、魔法でなんとか作り出せたものを。
(──色んなことが……あった)
十六歳になったばかりの自分が、世界へ一歩踏み出した時のことを思い出す。アンナという美しくも横暴な殺し屋に連れられて、自分はせかいのおわりを止めるべく、この小さな村から飛び出したのだ。
結果的に賢者としてアンナと旅をしてみたい、という夢は叶えられなかったのだが──彼女と行動を共にした一月半は、何年経ってもネスの記憶の中で色褪せることはなかった。
(あと、二回か……)
神は、ネスを最後に水の血族の転生を止めると約束してくれた──が、ネス本人は別。この「生」の記憶を引き継いだまま一度転生をし、更に二度目の転生では、この「生」と一度目の「生」の記憶を引き継がなければならない。
三度目の生──その頃には、一度目に築いた家庭──家族は誰一人として────。
(止めよう、こんなことを考えるのは)
転生する度に、きっと苦しむだろう。しかし自分には人間以上の寿命を持つ仲間がいるではないか。
(辛くなったら会いに行こう。そうすればきっと──……)
ネスは目を閉じた。
キッチンではサラがカチャカチャとお茶の準備をしている音が聴こえる。玄関扉が開いたようだ。帰ってきたのは誰だろう──ネスの意識は、そこで──────。
「ねえネス、明日のあなたの誕生日なんだけど……」
ティーセットの載った盆を手にサラが振り返ると、ネスは項垂れるように顔を伏せロッキングチェアに揺られていた。
「ネス? 眠ってしまったの?」
がちゃりとリビングの扉が開く。そこにはいとこ二人を引き連れた、成人間近のリヴェの姿があった。家の近くで買い物帰りのレノアにも会ったようで、室内は一気に賑やかになった。
四月の終わり──ネスの三十一歳の誕生日前日の出来事だった。
日付が変わる頃には完結させます。




