我らというメタファーのすべてへ
我らは母音の持つメタファーを知っている。
あたたかな「あ」は、誕生の寿ぎの音。満腔の赤の色。
いいしれぬ「い」は、死の狭窄の音。夜だけに見る本当の色。
太くうめく「う」は、彼方への呼びかけの音。形なき深淵への声。
するどく切り立つ「え」は、危機への喚起。緊張とそして解放への飢えの形。
そうして最も力強き「お」は、奮い立つ闘いの雄叫び。そうして進化への衝動。
つまり我らは三原色のメタファーを知っているのだ。
血の燃える色としての赤。その色を求め興奮は収まらないのだ。どうしてこの衝動を止められようか。
死の深く沈む夜としての青。何処までも落ちていく夢の中の色。これは未来ではない。常に過去より湧き上がる静寂の香り。
ああ。そしてあの眩しさ。太陽の具現。そして黄金の光。果てしなく高い空に燃える黄の銀杏の梢。これは憧れの色だ。
我らは、固有名詞が特定情報となるために結びつく過程を見るだろう。赤い青。黄色い赤。青い黄色。それらは消し合わず溶け合う。色彩は不可視光線を含み遥か無限へと向かう光の指向性となる。それが何時消えるのか?時は何時果てるのかを問う我らの問いと等しく。
同じく母音たちが溶け合うのだ。子音たちは語り合う。プラットフォームとして母音はある。全ての子音を載せ、響きが満ちている。今も、この文章を読むあなたの中で、あなたの声が響くように。
虹彩が読み取る色彩を超えて。見えないはずの形が見えている。母色としての三原色をベースとして。記憶が具現する投影の未来。予測とは形作られた未来の姿。予測されるアフォーダンスとしての未来世界を。そうして満ち渡る聞こえぬ声の響き。我らの形なき声としての外形。我らこそが形なき未来の子音。そして子色。営々たる過去を母として我らは生まれた。そうしてこの世の響き彩るものとして在るのだ。これが今という速やか過ぎる流れの波紋の形であった。この爆発的な衝動の正体でもあった。つまりこれが我らというメタファーであった!
勿論、日本語の話です。わたしは日本語しか話せませんので。しかし、色彩は共有している。同じ色素を知覚するものならば。その意味では、半ば限定的であり、そうでない。色は感情に染まる。暮色は玄妙に彩を深め、明け色は眩く光を放つ。いつか消えてしまうとしても。それは今ではない。