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(7) in TOKYO


 カフェ&バーのローズテールは夜のバー・タイムの生演奏が売りで、曜日によって趣向が違う。ジャズであったり、クラシックであったりとさまざまで、それが幅広い層の客を呼んでいた。悦嗣は学生時代よりマスターと懇意にしていて、週に一、二度のアルバイトの他に、トラブルでステージに穴が空いたり、ヴォーカルの伴奏が急きょ必要になった時などに入ったりもしている。今夜は後者の方で、フュージョン歌手の伴奏に駆り出された。

 ヴォーカリストのステージは二回。その合間は悦嗣も休憩となっている。カウンター席の端に腰掛けて、ウーロン茶を頼んだ。仕事中にアルコールは取らない。それに口を付けて、マンションを出る間際にかかってきた曽和英介からの国際電話を思い出していた。

『もしさく也がそっちに行ったら、すぐウィーンに戻るように言ってくれ』

 英介の話によると、昨日の夕方に楽団事務所に電話をかけてきて、「明日から休む」と言ったきり音信不通らしいのだ。オケのリハーサルの合間にかけてきた英介は、用件だけを言うとさっさと切ってしまったので、詳細は不明だ。

 その電話を切った後、今度は伯母の園子の電話が入る。昨日の話の続きだった。今日になって三回目の電話なのは、次回の会う日取りを決めたがっているためである。仕事を理由にさっさと切ったが、その後でふと。

(あいつに電話したのって、昨日じゃなかったか?)

 昨日、勢いに似た感情でウィーンのさく也に電話をしたのは、伯母との電話の後だった。

 電話の内容に頬の辺りが熱くなるり、手元のウーロン茶を一気にあおった。

 ちょうど店に数人固まって入って来て、悦嗣の視線は無意識にそちらに向いた。その中に大学の恩師・立浪教授がいた。

「加納? おまえ今日、ここのバイトだったのか?」

 悦嗣と目が合い、近づいて来る。

「臨時。先生は? 若いヤツらと一緒なんですか?」

 悦嗣は席についた立浪の連れと思しき面子を窺った。彼らはゼミの学生で、新年会の二次会だと立浪は答えた。「それより」と彼はぐるりと店を見回し、「中原君は? 一緒じゃないのか?」と続ける。

「え? 中原?」

 件のさく也の名前が出て、悦嗣は少なからず驚きを含ませ聞き返した。

「おまえの所に行くって言ってたけど。会ってないのか?」

 立浪はさく也が夕方に月島芸術大学へ訪ねて来たと続ける。

「携帯電話を忘れたと言っていた。関係先が月島芸術大学くらいしかわからなくて、光栄にも私のことを思い出してくれたらしいよ。おまえの携帯と自宅に電話を入れたんだが、出なかったな?」

 連絡がつくまでここにいれば良いと言う立浪を断って、さく也は大学を去ったらしい。今日は学生オーケストラの練習日で、時間潰しに聴いてもらい、あわよくば感想なり、あるいは指導なりと言う思惑は外れたと立浪は笑ったが、その辺りの話は悦嗣の耳には入らなかった。

「それ、何時でした?」

「そうだな、六時前だったかな」

 更に彼の話は続いていたが、悦嗣は無視してピアノを弾く間は外してズボンのポケットに入れている腕時計を取り出した。午後九時半を回ったところだ。ステージは十時の一回が残っている。これはどうしても抜けられない。どう見積もっても、自宅マンションに帰りつくのは十一時を超えてしまうだろう。留守だとわかったなら、一旦はホテルに戻る可能性もある。

 悦嗣は手の中の腕時計を握り締めた。



 通路の手すりに胸を凭せて、さく也は階下を見ていた。過ぎる風はコートの襟を立てても首周りに冷たさを残す。それも慣れてしまった。 

(前にもこうして、外で彼を待ったな)

 あの時は食事の約束がキャンセルされ、来ないとわかっていた。それなのに初めて誘われたことが嬉しくて、さく也は指定された待ち合わせの場所に行ったのだ。春とは名ばかりの寒い夜で、暇潰しのスコアを持つ手が冷たかった。何時間か経ち、用事が早く終わったので会わないかと悦嗣から連絡が入った。やって来た彼はキスをしてくれた。冷えた身体が一瞬にして温まったことを覚えている。

 あのキスの意味は今もわからない。mouth to mouthとはいえ兄弟にするような軽いものだった。挨拶程度だったとも取れるが、それでもさく也には特別で、その感触を忘れずにいる。

 今日は何の連絡もせずに来てしまった。もしかしたら旅行に出ているかも知れない。しかしホテルを取って出直すと言う考えは、さく也には浮かばなかった。

(会いたい)

 ただ会いたいだけだ。会って、やさしい声を聞きたいだけだ。凍えたさく也に、「やれやれ」と言って微笑みかけて欲しいだけだ。

 ただ、ただ会いたいだけだ。



 いつもならバックで停める駐車スペースに頭から突っ込んで、悦嗣は車を降りた。ドアを乱暴に閉めた音が駐車場内に響き渡るのを背に、マンションにエントランスに向かって駆ける。

 エレベーターに飛び込むと六階と『閉』のボタンを押す。ゆっくりとした浮遊感で昇るエレベーターがもどかしく、ドアが開くや否や、自分の部屋に向かって走った。

 冷気が痛い。日中は雪がチラついたくらいに寒かった。夜になって更に気温が下がったように思う。この寒さの中、彼は待っているだろうか? ローズテールで帰り着く時間を計算した時には、きっとホテルに戻っていると自らに言い聞かせた悦嗣だが、もしさく也がここまで来ているのだとしたら、待っていると確信していた。

 そしてさく也は――やはり待っていた。

「中原!」



 さく也は自分を呼ぶ声に振り返った。加納悦嗣が走ってくるのが見えた。見る見る距離は縮まって、目の前に彼が立つ。

「どうしたんだ、いったい。エースケが電話して来たぞ」

 白い息が悦嗣の口から漏れる。さく也はしばらくその息に見とれていた。



「中原?」

「電話、もらって」

「昨日、俺がしたやつか?」

「声を聞いたら、会いたくなったから」

 さく也の息も白い。寒さのせいか言葉は震えているが、相変わらずの表情の乏しい声と顔で、何の照れもなく答えた。

 去年の春、キャンセルされたはずの待ち合わせ場所で、一人ベンチに座っていた彼を思い出す。その姿を何時間後かに偶然見つけてしまった悦嗣は、電話せずにはいられなかった。離れた所で、その電話を嬉しそうに受けるさく也の様子を見て、可愛くて愛おしかった。だからキスをした。抱きしめたい衝動を辛うじて抑えたあの時―――すでに自分は惹かれていたのだ 

 悦嗣はさく也を見つめた。それから、抱きしめる。頬にあたる髪までも冷たかった。それを感じて、尚更に強く抱きしめた。



 悦嗣の腕の中のさく也はと言えば動けなかった。

(温かい)

 タバコの匂いのする胸は、間違いなく悦嗣の物で温かかった。

 自分を抱きしめてくれている。

 彼の肩先に額を擦り付け、さく也は目を閉じた。



 さく也の体重が胸にかかったことを悦嗣は感じた。背中に回された彼の手が、躊躇いがちに悦嗣のコートを掴む。

 口元にはさく也の耳。悦嗣はそれに向けて囁いた。

「好きだ」

 さく也が伏せていた顔を上げる。心持ち見開いた目に、複雑な表情が浮かんだ。

「なに?」

 と問い返すために動く唇に、答える代わりに口づける。彼の唇は冷たかった。

 その凍えた唇を温める。長く、長く。目元に、頬に、こめかみに、そしてまた唇に戻って、悦嗣は愛おしむようにキスをした。



 彼の唇の熱は、さく也の体を温めてくれた。目元から、頬から、こめかみから、温かさが広がって行く。唇に戻った深くやさしいキスは、眩暈を感じるほどに甘かった。



 カクリと、さく也の膝の力が抜けた。悦嗣は腰に回した腕で支える。唇を離してさく也を見ると、耳まで赤くなっていた。

「中に入ろう」

 一度、きつく抱きしめて悦嗣が言うと、さく也は目を伏せてただ頷いた。


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