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(5) in TOKYO


 喉の乾きで夜中に目が覚めた夏希は、自室を出て台所に向かう途中、離れのレッスン室の灯りに気がついた。

 レッスン室と母屋を繋ぐ短い廊下を渡り、ドアの小窓で中を覗くと、

「エツ兄?」

ピアノの前に座る次兄・悦嗣の姿が見えた。

 夏希はドア・ノブに手をかけた。常日頃ノックもせずに乱暴にドアを開けて部屋に入る彼女なのだが、今夜は慎重だ。なぜかそっと開けなければいけないと思った。兄の横顔がいつもと違って見えたからだ。

 防音の扉を開けると音が溢れ出す。慌ててドアを閉めた。

 兄は演奏中にドアが開くとすぐに演奏を止める。しかし今夜、彼の指は止まらなかった。夏希の気配など全く気づく様子はない。

 音が部屋を満たしている。曲は『幻想即興曲』 ショパンの華麗な旋律に、夏希の体はドアに縫いとめられた。

(本気の、エツ兄だ)

 彼女の目は彼の指の動きを追う。生み出だされる音楽が見える気がした。耳を通して体中に音が浸透していく。

 兄の本気の演奏を聴くのは数える程しかない。九才離れているので、夏希が真剣に音楽を意識し始めた頃には、兄はもう社会人――それもピアノと関係のない――になっていて、ステージでの演奏はほとんど記憶になかった。妹のために弾いてくれたことはあったが、それはあくまでもお遊び。同じ大学の音楽学部に入って、技術系の教授達が夏希を妹と知るや「あの加納悦嗣の」と冠して兄を誉めそやすので、その才能を知ったようなものだった。

 一昨年の六月に代役で出たアンサンブル・コンサート、同じ年に中原さく也と弾いた母校での模範演奏で、夏希はその『本気』に触れた。前者はクインテットの一人だったし、後者は言わば中原さく也の伴奏だった。つまりソロでの本気を聴くのは初めてであり、夏希は興奮した。

(エツ兄、かっこいい)

 曲は途切れなく続いていく。『夜想曲』、『マズルカ』、『ポロネーズ』、ショパンにチャイコフスキー、ラフマニノフと、悦嗣の指はまるで、何かに憑かれたように鍵盤の上を走った。

 夏希は息を殺して聴き入っていた。自分の気配に気がついたなら曲が止んでしまうかも知れない。

 ピアノの音は冬の明け方、遅い朝の気配が東の空に見える頃まで、途切れることはなかった。

「夏希、おい、風邪ひくぞ」

 膝を抱いて床に座りこんでいた夏希は揺り起こされた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目を開けると、自分の前にかがむ兄の姿が見えた。

「エツ兄」

「いったいいつからいたんだ? 声かけろよ」

「だって声かけたら弾くの止めちゃうでしょ。それに、いつもなら気づくじゃん」

 兄は苦笑した。

「お兄ちゃんのピアノ、初めて聴いた」

「いつも弾いてるじゃねーか」

「違うよ、本気のピアノだよ」

 夏希の腕を掴んで立つように促す。『真夜中のコンサート』の余韻は、すでに消え失せていた。

 兄は昨日の夜遅くにいきなり帰ってきた。ピアノの調律のためと言って来るなりレッスン室にこもってしまったのだが、年末に調律したばかりなので夏希も母も不思議に思った。第一、手ぶらだった。外の入り口から運び入れたとも考えられるが、レッスン室に仕事道具はなかった。昨日のお見合いで何かあったのだろうか?

(でも、エツ兄は断るつもりだったし)

 見合いの付録のコンサートはヴァイオリン系だと聞いている。刺激されたわけでもないだろう。何がこの兄を本気にさせたのか。 

「ねえねえ、何かあったの? 実は相手の人が好みだったとか? でも園子おばさんが持ってきた話だから、断っちゃったとか?」

「何にもねーよ。変なこと考えるな。おまえ、今日、仕事だろ? 少し寝ておけよ。俺も帰って寝る」

「泊まってけばいいじゃん」

「夏希がうるさいから、帰る」

「あ、やっぱり何かあったんだ?」

「疑り深いヤツだな。俺はこっちから出る。鍵、閉めとけよ」

 兄は母屋側とは違うドア・ノブに手をかけた。

 ピアノはきちんと片付けられているが、一晩中、兄は確かにここで弾いていたのだ。

「エツ兄、かっこ良かったよ」

 今しも出て行こうとしていた兄は、振り返った。

「さんきゅ」

 照れた表情で応えた後、ドアを押し開けて出て行った。

 夏希は閉まりかけたそれに手を伸ばした。ドアはもう一度、押し開かれた。冷気が入ってきたが、気にしない。

 夏希は薄暗い冬の朝へ消えて行く、兄の姿を見送った――耳の奥に残る音を反芻しながら。


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