12
妖の翡翠色の瞳が光を放った瞬間、彼の両の肩甲骨あたりの皮膚が弾け、そこから闇が噴き出した。
おお。
その闇は、漆黒の、艶やかな光沢のある天鵞絨の如き二枚の巨きな翼となり、妖の背中で優雅に波打った。
闇を支配する者〝ダーク〟の名にふさわしき、それは漆黒の翼であった。
妖は翼を大きく広げると、軽く膝を曲げ、タンッと跳躍した。
刹那――
ぐんぐんと身体が天に向かって飛んでいく。
漆黒の、闇の破片をまき散らして。
思わず、笑みがこぼれてしまう。
魔道門の顕現を阻止するため、妖気の放出をかなり抑えてはいるが、それでも己が体内でふつふつと煮え立つ魔力の凄さはわかる。
以前であれば空中を飛行するときは、結界を張り、飛翔の呪文を唱えていた。だが、本来の魔力を取り戻した今、呪文も結界も必要なかった。
翼を大きく広げるだけで、重力が遮断され、身体が浮き上がる。
あとは反動をつけるだけで良かった。
また、超高速で上昇や移動をしても、息苦しくなるということもなかった。以前なら、結界で自分の周囲の空間を包み込み、呼吸できる空気を確保していたのだが。
妖は、自分の周囲から音が途絶え、暗くなりつつあることに気づいた。
「――!?」
そうか。俺は今、空気の壁にぶつかっているというのか。
そうと知って、新たな歓喜が湧き上がる。
俺は、呪文に頼ることなく、己れの魔力だけで、音速の世界に突入したのだ!
その歓喜が、妖の飛翔スピードを更に上げる。そして、一気に成層圏を超えた。
「ここは――」
妖は、宇宙空間にいた。
無重力の虚空に飛び出したことを知り、妖は翼の向きを変化させ、急停止した。
「素晴らしい――。侯爵の言った通りだ。本当の俺は、こんなにも強い魔力を持っていたのか」
妖は口許を邪悪に歪めた後、
「――さて、と。ファレスは、何処へ行ったかな?」
妖は眼を閉じて超感覚を働かせ、死人男爵の位置を走査してみた。
位置、というより、ファレスの後ろ姿が、一瞬、脳裡に閃いた。
それだけで、充分だった。
「――逃がさんよ」
妖の姿が宇宙空間から、
ふっ
と消えた。
転瞬、妖はめくるめく幻想の世界を突っ切っていた。次々に世界が変貌していく。遙かな太古もあれば、超未来都市もあった。
大噴火を起こす火山や恐竜の群れ、超文明を誇る古代都市が一瞬で現れては、また一瞬で後方に流れ去っていく。
時空連続体を、妖は恐ろしいスピードで飛び越えているのだ。
光があった。
闇もあった。
やがて、前方に小さな点が現れた。
蝙蝠の翼を羽ばたかせて逃げる悪魔。
その尻の辺りで、長い尻尾が頼りなさそうに揺れている。
見つけた――
ニヤリと笑った瞬間、妖の飛行のスピードが増した。
姿が見えなくなり、一条の光と化して、妖はファレスの前に立った。
「げぇっ!?」
ファレスが、突然目の前に姿を現した妖の姿に、驚愕の声を上げる。
眼は大きく、皿のように見開かれ、信じらぬ様子で妖を見ている。
「そ、そ、そんな、馬鹿な!?」
「言った筈だ。必ず見つけ出してやるとな」
うろたえるファレスの醜い鼻面に〝夜魅〟を突きつけて、妖が言う。
「ここらで幕を下ろすかい? それとも、まだ逃げてみるかい?」
「ちぃ!」
再び、ファレスの姿が目の前から消えた。
瞬間転移したのだ。
「往生際の悪い奴っちゃな~」
大阪弁で言ってみる。
ちょっとイントネーションがおかしい。
どうやら、紀羅の真似をしてみたようだ。
「本気で、逃げ切れると思っているのか。馬鹿め」
吐き捨て、妖はファレスの後を追って跳んだ。
妖が次元を超えて跳ぶたびに、絶対時空を流れ続ける時間の矢のスピードが、ほんの二のマイナス十乗ずつずれていく。
全ては、次元転移の際に生じる次元震動の所為であった。
今度は、すぐ近くの次元にファレスの気配が発見された。
先回りしてやる。
決着をつけるべく、妖は跳躍のスピードを速めた。
自分の次元的背後に、妖――ダークの気配を感じなくなり、ファレスは逃げ切れたと錯覚した。
だが、次に跳んだ次元で、妖の姿を発見したとき、あまりの戦慄に立ち尽くすしかなかった。
妖が、魔剣を構えて待っていたのである。
「はい。お疲れ」
妖が、ニヤリと笑う。
「それで、逃げ回っているつもりかい、ファレス」
「ば、馬鹿な…。どうして、先回りが出来るんだ。俺が次に何処へ跳ぶのかなんて、わかる筈ないのに……」
「わかるさ。貴様の考えていることなんて、手に取るようにな。これが、俺とお前の間に開いた、避けられぬ絶対の現実さ。魔力の差。霊格の差。――所詮、男爵程度の魔力では、その差を埋めることなど、いや、縮めることなど出来はしないのだよ」
「…………」
「――貴様は、如来の掌の上で粋がっていただけの猿の化け物と同じさ」
「く……」
「たとえ、那由陀の果てにまで逃げようとも、俺から逃れることなど出来はしない」
「ち、ちくしょう!」
馬鹿にしやがって!
叫んで、ファレスは妖目がけて飛びかかった。死を賭けた、分のない攻撃である。
覚悟を決めていた。
もう、こうするしかなかった。
ファレスの眼に見えるものは、無惨な死を遂げた自分の最期であり、暗黒であった。
鋭く伸びた爪を突き出すファレスは、冷然と微笑む妖を見つめていた。
八双に構えられた魔剣が美しいまでの銀弧を描き、ファレスの右腕を肘の部分で切断する。
一瞬で、切断された前腕部分を闇が侵蝕し、吸い尽くし、闇そのものと化すのをファレスは見た。
悲鳴を上げる暇もなかった。
妖が、返す刀で死人男爵の頭頂から股間までを、一気に切り下ろしたのである。
ファレスは、闇の一部と化して散った。
曖昧な彩りの世界の中に闇の破片が散りゆく光景は、実に幻想的なものであった。
と、空中を漂う妖の更に頭上を、一匹の巨大な竜が行く。
遙か足許の地上近くを、妖精たちが笑いながら飛ぶのが見えた。
妖は眼を閉じた。
そして、もとの世界――愛する女のいる地上世界への帰還を願ったのである。
――
次に眼を開いたとき、妖は、あの空き地にいることを知った。
漆黒の翼の力によって跳躍するときにいた地点と寸分の狂いもない。
闇の姿が、背中に吸い込まれるようにして消え、双眸の色ももとの漆黒に戻っている。
長い溜め息をついた後、妖は肩越しに背後に眼をやった。
ヘリのライトに照らされて黒煙が立ち上っている。火はどうやら消火されたらしい。
しかし、妖が見ようとしたのは、そんなものではなかった。
凄まじく邪悪な、怨念の波動が身体にひしひしと伝わってくる。
悪想念の塊が、ついに生まれ落ちたのか。
「――玲花」
そう心配そうに呟いた男の美貌には、先刻までの悪魔の如き微笑みは毫もなかった。
怨念の風が吹き渡っていた。




