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怨念の異形神  作者: 神月裕二
第6章 暗黒の支配者
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2

 

 自宅で家族と一緒に夕食を摂っていた高田亜樹は、TVのニュースで報道されている殺人鬼が、同じクラスの少年小林裕介であることを知って、箸をポロリと床に落とした。

「どうしたの、亜樹」

 TVの画面を茫然と見つめ続ける娘を怪訝そうに、母親がそっと声をかける。

 TVでは、少年殺人鬼の形相を遠くから映し、殺害した人間の数、主な死亡者の氏名などを、若手のリポーターが興奮しながらまくし立てている。

「いやねぇ、ほんとに」

 とTVを消そうとする母親を制して、亜樹はなおも液晶画面を凝視し続けた。

「どうしたの、震えてるわよ」

 と母親が不審そうに声をかけてくるが、その声ももはや亜樹の耳には届いていない。

 なに…? 何なの、これ…。

 亜樹は、TVから垂れ流しになっている憎悪、恐怖の波動を感じていた。

 何か真っ黒いものが迫ってくる感覚がある。

 しかし、それが何であるのか理解出来ず、少女は困惑しているのだ。

 ただ、これに巻き込まれてはいけない。

 それだけはわかる。

「亜樹ちゃん!」

 母親のヒステリックな声が、少女の耳朶を打った。

 我に返った少女は、振り向いて母親の顔を見、小さな悲鳴を上げた。

 母親が、見たこともない表情を浮かべていた。優しい笑みを絶やしたことのなかった母親、怒るよりも諭す方を選ぶ母親が、このとき、顔中に血を上らせ、眉間にシワを深く刻みつけていた。

 鬼だ。

 優しかった母親が一転して鬼女になり、口の端から泡を吹いて、突然聞くに堪えない声で喚き散らした。

「いい加減にしねぇか! このガキィ! オレの作ったメシが食えねぇってのかああ!」

 そう叫んで、鬼女は手にした包丁を逆手に振り上げ、我が娘に肉迫した。

 そのとき、亜樹は見た。いや、見えたのだ。

 母親の全身を、TVから垂れ流しになっていた黒いものが取り巻き、口や鼻腔から体内に吸い込まれていくのが。

 ああ。母さんは、あの黒いものに囚われてしまったのだ。

 亜樹は、悲鳴を上げながらも、そう悟っていた。

 茶碗を放り出し、出鱈目に流れる銀光を何とか躱しながら、亜樹は家を飛び出した。

 裕介くんの所に行こう!

 お気に入りの靴をひっ掴み、表に飛び出したとき、亜樹は何故かそう思った。

 後ろを振り返ったが、母親は追いかけては来ていない。

 靴を履き、再び走り出す。

 裕介くんの所に行けば、何かがわかるかも知れない。

 そう直感したのだ。

 どんよりと重い雨雲が天を覆い、悪意の波動が風となって流れる街は、今や全き暗黒に封じられているようだった。

 何故、今までこんな重苦しい風景に気づかなかったのだろう。

 走りながら亜樹は思った。

 そして、真っ黒な風が流れ来る方角に、裕介がいることも知った。

 そう感じ取れるのだ。

 人々の放つ悪想念流は、街、いや会津盆地の全てを風となって走り抜け、人を狂気に誘い、天に昇って裕介――怨念の異形神のもとへ下る。人々の怨念を吸収し続けた裕介は、再び悪の波動を放射して、人の悪想念をさらに掻き立てる。

 やがて人間は悪想念に巻かれて、互いに殺し合いを始める。

 痛み、叫び、苦しみも、悪意の波動の稼働に大きな役割を占めている。

 このままでは、街は滅びてしまう!?

 亜樹は唐突にそのことを悟り、愕然と鳴った。街が、あの近畿のように無惨な骸と化した光景が、突如目の前に浮かび上がったのだ。

 幻覚か、と亜樹は思わず眼をこすった。

 そのとき、遙か前方で爆発が起こった。

 見れば、赤い炎の舌が暗黒の空に挑んでいる。

 亜樹は、その炎の向こう側に、街の末路を見た気がした。

 ようやく、自分の身体が震えているのに気づいた。

 戦慄だ。

 恐怖だ。

 震えは止まらなかった。

 あまりにも現実感が湧かない。

 あちこちで火の手が上がる。

 地獄――

 亜樹の、大きく見開かれた瞳から、ポロリと涙が落ちた。

 思い出が消えていく…。

 茫然と立ち尽くす亜樹は、あちこちの家から悲鳴と哄笑が上がるのを夢のように聞いていた。

 親が子を殺し、子が親を殺す。

 街は、一瞬にして地獄と化していた。

 今までの現実は、虚構でしかなかったのだ。

 裕介にとって今までの街が地獄であったのなら、この狂気の支配者となった彼が創ろうとしているものは、彼にとっての天国なのか。

 つまり、地獄か。

 あの真っ黒い怒濤は、裕介の恨みの涙だ。

 そう悟ったとき、亜樹は涙が止まらなくなった。

 何という怨念。

 何という苦しみ。

 何という痛み…。

 誰にもそれらをうち明けることが出来なかったのは、全ての人間が信じられなかったため。信じられたのは、祖母と己れ自身のみ…。

 ああ、彼の悩みを、自分が聞いてあげさえすれば、彼の凍りついた心は氷解し、ここまで辛い思いをさせずに済んだものを…。

「…ごめんね…ごめんね、裕介くん…」

 亜樹は、胸が張り裂けそうな思いでいた。

 人を愛していれば、この世に不可能なことなどない。

 それは、間違いではないだろう。だが、今重要なことは、如何にして裕介の悩みを聞くかではなく、如何にして裕介に人を信じさせるかである。

 裕介が人を信じなければ、悩みなど誰にうち明けるものか。

 亜樹は、そのことに気づいていないのだ。

 そのとき、彼女の背後で人の気配がした。

 亜樹は、飛び上がらんばかりに驚いた。

 自分の世界に没入していて、周りの音が耳に入らなくなっていたのだ。

 あの真っ黒いものに取り憑かれた人かしら…。

 もしそうであれば、自分に待つのは死だ。

 涙はピタリと止まり、かわりに冷や汗が流れ落ちた。

「――あれ? 高田じゃないのか?」

 聞き覚えのある男の声だった。

「先生!?」

 振り向いた亜樹の目の前に、二人の男が立っていた。

 黒部哲と保険医の熊谷だ。

 ああ、この人たちは、黒いものに取り憑かれていない。

 そう直感した途端、安堵感が急速に広がり、亜樹はその場にペタンとお尻をついてしまった。

「おいおい、どうしたんだ?」

 口許に笑いを浮かべながら、黒部は手を差し出した。

 その大きな、ゴツゴツした手を握ったとき、亜樹は大切なことを思い出した。

「先生! 裕介くんが、裕介くんが!」

 勘定の爆発を抑えられない。

「わかっている」

 黒部は、教え子を抱きしめ、赤ん坊をあやすように背中をなでてやった。

 その隣で、熊谷が羨ましそうに黒部を見ている。

「――俺たちも、裕介の所へ行くんだ。一緒に行こう。行って、裕介(あいつ)を止めるんだ」

 少女が、小さく頷く。

 まだしゃくり上げている亜樹の頭をなでてやると、黒部は言った。

「――行こう」

 そのとき、三人の頭上をヘリが五機、彼等の進む先へ轟音とともに飛び去っていく。

 空から巨大なサーチライトで、裕介の居場所を照らしている。

 その頃、少年はすでにあるビルの中へと姿を消していた。

 人の波は荒れ狂う激浪となって、あちこちで暴動を起こしている。

 もう誰も、自分の感情を抑えることが出来ないのだ。

 誰もが悪想念に巻かれ、正常な判断能力を奪われ、暴れ狂っている。

 今飛んでいったヘリの何台かは、暴徒鎮圧部隊の応援にまわることになるだろう。

 しかし、暴徒も、それを鎮圧する機動隊も、対してかわりはない状態だった。

 全ての人間が、怨念の異形神の放つ妖気によって衝き動かされている限り、そこには正義などかけらもなかった。

 あるのは、殺してやりたいという衝動と、それを掻き立てる無限の悪想念のみである。

 三人は、ゆっくりと歩き出した。

 彼等を待ち受けるのは地獄か、それとも…。


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