16
そのとき、小林裕介は、ジュラルミンの盾を持った武装集団に追いつめられていた。
いや、追いつめられたように見えていた。
少なくとも、追いつめられた本人はそうは思っていない様子だ。
嗤っている。
血と破壊の快感に酔い、高らかに哄笑している。
機動隊は、必死の形相で裕介を囲む円陣の輪を狭めていった。
化け物だ――
俺たちの目の前にいるのは、化け物なのだ。
すでに裕介は、二つもの地元暴力団事務所を襲撃し、そこにいた数十人のヤクザを血祭りに上げている。それからすぐに幹部の邸に正面から堂々と乗り込み、これまた四十数名を素手で惨殺していた。
朱に染まった全身には、しかし、弾痕も刀で切られた傷もない。
無数のヤクザにドスを抜かせ、拳銃を構える暇すら与えずに、裕介は殺したのだ。
そんな化け物相手に、どう戦えばいい?
機動隊員は、恐怖でガチガチと震える手で、必死に警棒を握っていた。
あの殺人鬼とは違った、底知れぬ恐怖感が全身を絡め取っている。
あいつとは、眼が違っていた。
あいつは、ただ狂っていただけだ。
だが、こいつは、狂っていない。
こいつの眼を見ると、地獄の底を垣間見た気になるのだ。
すでに、銃器の使用は許可されている。
しかし、誰も使おうとしない。
無駄とわかっているからだ。
有効なら、ヤクザの手によってすでに殺されている筈だ。その事実が理解出来ないのか、機動隊の背後では、鬼のような形相で怒り心頭のヤクザどもが、銃を乱射し、日本刀や匕首を振りまわして、「殺したる!」と喚いている。
すでに何十人ものヤクザが逮捕されたが、その数は減るどころか増える一方だ。
周辺住民は強制退去を命じられ、人影はない。だが、誰もが屋内から息を潜めてことの成り行きを見守っているのが、ひしひしと伝わってくる。
ヤクザの暴走のあおりを食って、住民にも多数の被害者が出ていた。人死も何件か当局に報告されている。
狂気だ――
この街は、狂気という名の死神に取り憑かれたのだ。
獅天、光炎は、少年が佇む交差点を見下ろせるビルの屋上にいた。
その背後で、紀羅は膝を抱えて、その膝の間に顔を埋めていた。
義親が、心配そうに少年に付き添っている。
止められなかったのが、悔しいのだ。
目の前で殺人を犯す少年。
それを止めることも出来ず、事態をここまで深刻化してしまったのだ。
悔し涙がこぼれていた。
獅天たちは、少年たちの心境を察しているのか何も言わず、眼下で展開されている光景に眼をやっていた。
向かいのビルの十階から、狙撃手が長い銃身を覗かせているが、撃つ気配はない。
無論、引き金を引いた瞬間に、そいつはあの世行きだ。
それを悟っているのか、それとも全身を寒からしめる凄まじい恐怖のためか、誰も発砲しようとはしないし、突撃もない。
獅天と光炎が到着し、二人の少年と合流してから、すでに一時間近くが経つ。
すでに、雨は上がっていた。
が、まだ上空では、ごろごろと低い雷音が続いている。
「凄まじいエネルギーだな」
獅天が、呻くように言う。
「どいつもこいつも、それに巻き込まれて退こうとしやがらねぇ」
「それもあるでしょうが、恐らく県警が〝美槌〟からの命令を無視しているのでしょうね。――地元の意地で」
「ああ。――見ろよ、獅天。どんどん人の輪が膨れ上がっていくぜ。マスコミ連中も、地元の住民も、悪想念に誘き出されて来やがった」
獅天の言う通りだった。
人々は、裕介のまわりに集まりつつあった。
何が起こりつつあるのか知りたい。
その衝動は、裕介の放つ妖波動によって刺激され、わざわざ死地に足を向けさせているのだ。
妖波動の影響は、それだけではない。
人々の心に潜む負のエネルギーを増大させ、ほんの些細なことでそれを爆発させることも出来る。
つまり、足を踏まれただけでも親友同士に殴り合いの喧嘩をさせることも出来るのだ。
現に、そういった小競り合いが、円の最も外側ではいくつも生じていた。
やがて、それらは暴力団のささくれ立った神経をも逆撫でし、大混乱に至るまで数分と経たなかった。
円の外周で生じた殴り合いの喧嘩は、やがて徐々に円の中心へと移っていき、負のエネルギーの爆発もより過激なものへと変化していった。
再びパニックに陥った人の波は、もはや留まることなど出来ずに、裕介をも巻き込まん勢いで流れ始めた。
それは、まさに奔流であった。
しかし、その奔流は中央の裕介を巻き込むことなく砕け散った。
まるで、そこに巨大な岩が存在しているかのように、人の波は裕介の身体に触れる直前で弾かれていったのだ。
「シールドだ!?」
義親が叫んでいた。
よほど猛烈な勢いで裕介の周囲に発生している妖波動によるシールドに激突したのか、少年の周囲にはバラバラに砕け散った人の死体が無数に散乱していた。
瞬間、凄まじい恐怖が渦を巻いた。
「な、何て奴だ。人の吐き出す波動と生体エネルギーを食い物にしてやがる!」
彼等には見えたのだ。
爆裂し、バラバラになった死体から根こそぎ生体エネルギーを奪い、今また、人々の恐怖を吸収している妖魔の姿が。
「しかし…今、あの少年のまわりに一瞬浮かび上がった異形のものは…いったい…」
光炎の声も恐怖で震えていた。
喉がカラカラだった。
「――見えたかい、光炎?」
そのとき、彼等の背後で霊道が開き、二つの人影が姿を現した。
「どういうことだ、妖。お前、知っているのか?」
獅天は、月輪を思わせる冷ややかな美貌に訊いた。
「人々の悪意の波動を啖い、成長する妖魔。名前は確か〝ロゲス〟と言ったか」
「ロゲス…?」
「魔界のある地方で使われている太古の言葉で、〝混沌〟を意味する。別名、〝怨念の異形神〟とも言うがね」
「…………」
獅天の喉が音を立てた。
「それはそうと、紀羅、ご苦労だったね」
妖の言葉に、少年が顔を上げる。
泣きはらして、眼が真っ赤だった。
「――妖、俺にとどめを刺させてくれへんか。あいつは、俺の友だちやったんや」
紀羅は、涙を浮かべた大きな瞳で、妖を見つめ返していった。
鼻をすすり上げる。
「ああ。いいとも。だが、とどめを刺すのは、本当に最後の最後だよ」
「――助けられるんか!?」
「それは、彼次第だ」
「彼?」
「――さて、ここは、任せるよ。俺は、あいつと話があるのでね」
そのとき、妖は口許に凄まじい笑みを浮かべていた。
妖の切れ長の双眸は、裕介の真上の虚空を見つめている。
そこに、小さな染みのような闇が見える。
そして、その歪空間に中年のイギリス人紳士の顔をした悪魔が腰かけていた。
死人男爵ファレス。
決戦の到来を告げるように、上空で光の龍が哭いた。




