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その少し前のことであった。
小林家は、二人の訪問者を、人知れず迎えていた。
彼等は、邪悪な波動を身にまとい、まさに悪魔の如き微笑を唇にたたえ、しばしの間、玄関の扉の前で佇んでいた。
男と女。
武雄と由花。
人智を超えた力を欲し、その力の波動に冒され、人としての心を喪った者たち。
二人の双眸は、殺人の悦びに、爛々と光り輝いていた。
血が燃えていた。
あの男の苦しみを、心が欲しているのだ。
奴を殺して血をすすらねぇと、この心の渇きはおさまらねぇ。
武雄は、心の中でそう叫んでいた。
裕介が在宅していないことは、すでに確認済みだ。
武雄が電話をかけたとき、裕介のお婆ちゃんが電話をとったのである。
苦しそうな声で、老婆は孫の不在と「友人」たちに告げた。
由花は、日を変えようかといった。
武雄はしかし、それを拒否した。
「いいや。構わんさ。いなくても関係ねえ」
「――?」
由花が、かわいらしい仕種で首を傾げる。
「婆あを殺って、あいつの帰りを待つのさ。くく。どんな表情をするか、楽しみだぜ。それから、奴をぶち殺してくれる。くく。最高の復讐さ。くくく」
「――悪魔ね、本当に」
媚びた口調でいう。
「そこがいいんだろう?」
「ふふ。燃えてきちゃった」
「抱いてやるよ。奴を殺して、死体の前でやってやるよ」
それが、数分前のことであった。
裕介は今なお帰宅していない。
時刻は午後七時を少し経過している。
空は雨雲が一段と厚く垂れ下がってきている。
遠雷を聞いた気がした。
「――行くぜ」
二人は家の横にまわり、カーテンが閉められた部屋を発見した。
音も立てずにガラス戸に近寄ると、武雄は右拳でガラスを撃ち抜いた。拳大の穴が、ガラスにぽっかりと開く。大した破砕音も鳴らず、また破片も散っていないし、穴のまわりに亀裂さえも入っていない。
悪魔の力のおかげなのか。
武雄は穴から手を入れ、ガラス戸にかかったカギを外すと、素早く侵入する。
今、地獄の釜が、大きくその口を開け始めた。
会津の街が、人の精神が、大きく音を立てて崩壊し始めたのである。
武雄は、その崩壊の跫音を聞いた気がした。
――
老婆が眼を覚ましたのは、ガラス戸の割れるほんの微かな音であった。
いつもはその程度では眼を覚ますことなどないのに、このときに限って妙に耳がよく聞こえたのだ。
それでも最初は雷鳴の音かと思っていた。が、雷がまだ遠くで鳴っているのを知って、ようやくガラスが割れた音ではないかと思い出したのである。
しかし、気づいたところで、老婆に出来ることなど何もなかった。
先程、裕介の「友人」からの電話に、無理して起き上がったことが、今まで以上に身体の調子をおかしくしてしまっていた。
もう長くはないのかも知れない。
医者たちは施設への入所をしきりに薦めるが、老婆はそれを拒否し続けていた。
経済的な問題もある。
それに、死ぬときはやはりこの家で死にたいと思っていたし、何よりも、孫を独りにしたくないのだった。こんな自分でも、いないよりはましだと思っていたからだ。
「…ハァ…」
老婆は、深い溜め息を一つついた。
「何だ、この婆あ、今にも死にそうだぜ」
その声は、冷たい氷のように老婆の肺腑をえぐり、突き刺さった。
雷鳴が天を揺るがし、光竜が駆けた。
光の中に、二つの人影が一瞬浮かび上がったのを、老婆は見えなくなりつつある眼で、確かに見た。
「ど、どなたかの…」
老婆は、咳き込みながら問いかける。
何とか上体を起こしたのだが、心臓の弱いながらも速くなった鼓動が、老婆の耳にも聞こえてきた。
老婆は胸を押さえて、侵入者を見ていた。
何度も生木を裂くような雷鳴が起こり、光と闇とが雷光によって逆転した。
「こりゃあ、嵐になるなぁ」
そういって、男――武雄はカーテンの向こう側から音もなく姿を現したのだった。
「裕介は、まだ戻らないの?」
もう一人の侵入者、由花が邪悪な笑みを浮かべていう。
「ま、孫は、今アルバイトにいっとる。か、買い物をついでに、してくるから、もうじき帰るじゃろ…。それより、お、お前さんら――」
とまでいったとき、老婆はヒッと小さな悲鳴を上げ、眼を大きく見開いた。
喉に、冷たく鋭いものが当てられている。
刃物だ。
そう直感したのだ。
「それ以上喋るなよ。喋ると…殺すぜ。俺たちはな、裕介を殺しに来たのよ。大人しく俺たちに殴られて、ピィピィ啼いてりゃよかったものを、余計なことをするから、こんな事になるんだ」
ここまで来たら、これは完全な逆恨みであった。しかも、二人は完璧にそう思いこんでいるのだった。
彼等を別の学校に転校させようとしたのは、自分たちの両親なのに、裕介がやったと信じ込んでしまっているのだ。
記憶がバラバラになり、自分たちの都合のいいように再構築されていた。これも、悪意の波動の為せる技なのか。それとも、人間の業なのか。
老婆は、二人の双眸の放つギラギラとした光に怯え、ガタガタと死の恐怖に震えていた。
そのとき、余計な記憶が、ふっと頭の中をよぎった。
「もしもし、あの、裕介くんの友だちの三井と申しますが、裕介くんはご在宅でしょうか」
「あ、あんた、もしかして三井――」
「喋ったな」
冷ややかにそう宣告して、武雄は右手を素早く滑らせた。
右手に握られたゾリンゲンのナイフの刃が、老婆のシワだらけの死斑の浮いた皮膚を、何の逡巡もなく切り裂いていった。
ぶしゅう。
音を立てて、切断された頸動脈から血が迸る。
血は瀑布のように天井に叩きつけられ、天井を真っ赤に染めた。
武雄が血を浴びて哄笑する。
由花は、ブラウスの胸を開き、ブラジャーを着けていない白い肌に、狂ったように血を浴びていた。
「ククク。裕介! 早く帰ってこい! 血祭りは、まだ、始まったばかりだぜ!」
武雄の右手が翻り、老婆の胸にナイフが深々とめり込んだ。
すでに、血は涸れていた。




