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怨念の異形神  作者: 神月裕二
第5章 悪想念激浪
42/74

3

 

 信じられない行為であった。

 温厚そうな店長の顔が瞬時にして殺人狂のそれへと変貌し、少女に襲いかかったのである。

 女の子は、腰かけていたストールもろとも、床に転げ落ちていた。

 店用の服の胸元がざっくりと裂け、豊かな乳房がそこからこぼれ落ちていた。

 奇蹟のように傷を負っていなかった。

 一瞬にして店内が大混乱に陥った。

 客たちはそれぞれが奇声を放って、この店から我先に出ていこうとする。

 つまずいて転んだ者は、誰であろうと踏みつけられて、肋骨や手足の骨を折った。

 アルバイトの女の子は青ざめた顔で、カウンターの上に座って嗤う死神を見つめていた。

「ギヒヒイヒヒイ! お前がここに初めて来たときから、ずっと殺してやろうと思っていたんだよ! 何しろ、お前はかわいいからなぁ。内臓もきっと綺麗だろうよ!」

 マスターであった男は喚いた。

 女の子は、すでにしゃくり上げていた。

 頭が混乱していて、逃げることも出来ないでいる。

「何てかわいらしいおっぱいなんだろう! くくく。ちぎりとってやりたくなるぜ!」

 男は、泡を吹きながら笑った。

 狂っていた。

 これが、由花の力か。

 手に入れた力を他人に与え、そいつの負のエネルギーを強化させ、狂わせる。

 そうなったら、行く末は殺人狂か精神錯乱による発狂死だ。

 武雄は、ゾクゾクした快感に身を震わせ、マスターの凶行を見守っていた。

「ヒャハハハ! 死ねぇ!」

 一閃の銀光。

 それが冷ややかに彼女の脳裡に突き刺さった瞬間、女の子はバネに弾かれたように動いていた。

 背を向けて逃げ出す。しかし、一瞬遅れた。

 包丁の刃は、女の子の右の肩胛骨あたりの肉をえぐっていた。

 そして、女の子が逃げようと前進するにつれ、服や下着もろとも瑞々しい肌を切り裂いていく。

 血飛沫が散り、床を激しく濡らす。

「――!?」

 彼女は声にならぬ悲鳴を上げ、ほとんど全裸になりながら、店の外にまろび出た。

 悲鳴が上がった。

 店内にいた客たちが、店の外で遠巻きにして、中の様子をうかがっていたのだ。悲鳴は、彼等から上がった。

 殺人鬼が彼女を追って店の外に出た。

 身体の一部が血で赤く染まっていた。

「ギャーー!? ヒィーー!?」

 ようやく、女の子が悲鳴を上げた。

 凄まじい激痛にのたうち回る姿は、凄愴そのものであり、一種の美しささえ伴っていた。

 血にまみれ、全裸でのたうち回る美少女。

 武雄と由花は、サディスティックな恍惚感に我を忘れていた。

 殺人鬼が、包丁に付いた血を舐め取って哄笑する。

「――動くな!」

 そのとき、人混みをかき分けて、五人の警察官が男の前に立ちはだかった。

 威嚇のために、すでに拳銃を引き抜いて、銃口を殺人鬼に向けている。

 警官たちもまた、恐怖を感じていた。

 男の放つ凄まじい狂気に呑まれ、震えている。顔面が蒼白だった。

「どうした、撃てよ」

 男が挑発する。

 足許の女の子は、出血多量で気を失っている。時間がない。これ以上長引けば、死んでしまうかも知れない。

 身体の色が、ロウ人形のように白い。

「くく。震えてるぜ」

 男は笑いながら、無造作に歩き出した。

 恐怖と悪意、そして憎悪の波動が動く。

 人々が騒ぎ始める。

 はやく助けてやれよ!

 何やってるんだ!

 びびってんじゃねぇよ!

 税金ドロボー!

 無責任な罵倒の中、しかし、警官たちは後退った。

 男が、ひょいと一人の警官の拳銃に手を伸ばし、恐怖で硬直した手からそれを奪い取っていた。

 そして、何の逡巡もなくその警官の眉間を撃ち抜いていた。

 空気が刹那のうちに凍りつき――

 後頭部に穿たれた大きな射出孔から、脳漿が後方へぶちまけられる。

 瞬間、凄まじい波動が爆発し、人々はパニックに陥った。一人の男が、何の躊躇もなく警官の銃を奪い、警官を射殺した。

 甲高い、狂った声で笑っている。

 男は狂っていた。そうとしか思えなかった。

 そのパニックの中、二人目の警官を射殺。

 恐怖に駆られて、他の警官たちが銃を乱射した。

 盲撃ちが命中する筈もなく、殺人鬼は容易に別の警官の懐に入り、包丁でそいつの首を一気に水平に掻き切った。

 ザンッ、と血が大地を叩く。

 男が(あけ)に染まる。

「こ、こ、この野郎!」

 鶏のように喚き、残った二人の警官が男に襲いかかった。

 手にはそれぞれ警棒を握りしめている。

「馬鹿め! そんなに死にたいか!」

 男が笑った。

 そして、交互に繰り出される警棒を、狂人とは思えぬ見切りで躱し、下腹部に拳銃を突きつけた。

 引き金をしぼり、一人の腹を噴き飛ばす。

 そのときには、最後に生き残った警官の方を向いていた。

「ヒィー」

「死ね」

 と宣告し、頭部を弾いた。

 ほんのわずかな時間に、五人の警官がたった一人の狂人によって殺された。

 その事実がますます人の心を寒からしめ、恐怖を刻み込んだ。

 人は波と化し、揺れ動いた。

 背後で銃声が聞こえるたびに、人々の顔に狂気めいた引きつれが生じていた。

 殺される!? 死ぬ!?

 いやだ! 死にたくない!

 その思いが、我先にと逃げる人々の口から咆哮となって迸り、そこに叫喚地獄が出現した。

 事情を知らぬ通行人は何事かと足を止め、次の瞬間、尋常ならざる事態の発生を悟った。

 そんな彼等をも巻き込み、人々の波は巨大な渦を巻いた。

 平穏な日常生活から突如地獄へ叩き落とされた人々の負のエネルギーは、殺人鬼の放つ波動と街に充満する悪想念流とに挟み込まれ、凝縮し、一気に爆発した。

 もはや、止めることなど不可能であった。

 止めようと思って人波の前に立ちはだかった警官隊は、一瞬のうちに波に呑み込まれ、踏み潰されていた。

 喫茶店の再来だった。

 また、すぐ後ろで銃声が聞こえ、人々は殺人鬼が執拗に追って来ていることを知った。

「くっくっくっく。すげぇ。ものすげぇ波動だ。たまらねぇぜ」

 武雄は、喫茶店の入口の前で身を震わせて笑っていた。

 すぐそばに、息も絶え絶えの女の子が倒れている。

「この女、どうするの?」

 由花が訊いてきた。

「ほっとけよ。どうせ、長くないさ」

 武雄が冷たい、刃のような笑みを浮かべる。

 女の子には、その声すらも届いていないようだ。

「そうね。――ま、運がなかったのよ」

 由花も凄絶な笑いを浮かべたとき、救急車のサイレンが二人の耳に届いた。

 誰かが通報していたようだ。

「立ち去るぞ、由花」

「ええ」

 これ以上、ここにいるわけにはいかなかった。

 余計なことで事情聴取されては、後々厄介なことになる。

 救急車が、少女の元に辿り着いたのは、武雄と由花がその場から姿を消した数十秒後のことであった。

 その晩のニュースで、その少女が出血多量で間も亡くなくなったという報道がなされた。

 また、人々の憎悪の波動が膨れ上がった。


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