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怨念の異形神  作者: 神月裕二
第4章 血と引き金
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9

 

 近畿一円を突如襲ったあの大災厄の日からわずか数日、安田圭一はずいぶんと成長した。

 それは、かなりな変化を伴っていたのだが、圭一本人にはその自覚は全くなかった。

 変わろうと思って変わったのではない。

 あの日を生き延びたことで、圭一の内奥で変化を遂げたものがあるのだ。

 それが何であるかわからないが、とにかく何かが変わった。

 自覚があったのはいうなればそれだけで、あとの変化はそこから自然に派生したものだった。

 例えば、圭一はビデオを見なくなった。

 以前はあれほど映画を観ていたというのに、その部分が欠損したのかと思われるほど、圭一の生活から完全に抜け落ちていた。

 他人から指摘されてようやく本人が気づき、首を傾げる始末だ。

 しかし、それだけだ。

 そして最大の変化は、内にこもりがちであった圭一が、一日中外に出て自然の中で生活するようになったことである。

 天気の良い日は外に出て、流れゆく雲をぼーっと見つめていたり、森の中を歩いて自然の息吹を呼吸したり、田畑を耕したり…。

 圭一の中で何かが変わり、目覚め始めたのだと優子は悟っていた。

 善き覚醒(めざめ)だ。

 あの日、あの綺麗な男の人――妖がいった「人の革新」を、彼は迎えつつあるのか。

 人間は、大自然に育まれて進化し、進歩してきた。しかし、現代人はその偉大な恩恵さえも忘却し、物質主義に走った。それが過ちであったのかはわからない。だが、より善き方向を見出した者が、地球を救う時代が訪れたのである。

 人類は、今まさに変革の(とき)を迎えつつあるのだ。

 他人の苦しみを知る者だけが得られる深い洞察力と無上の愛のみが、あらゆる生命を破滅から救うことが出来るのだ。

 悪魔の侵略をもはねのけ、神々の清らかなる光と慈愛に満ちた世界を創ることが、人類に課せられた使命であり、背負った業でもあるのだ。

 その日も、安田圭一は外に出て、広々としたなだらかな斜面に寝転がっていた。

 遙か彼方には、荒々しく波頭の砕ける気仙沼湾が、そしてさらに遠くには広大な太平洋が見晴るかせる。

 なんて大きいのだろう。

 圭一は大地に寝転びながら思う。

 何と世界は広いのだろうか。

 海は遙かな昔より無数の生命を生み出し、大地は神世の時代よりその豊穣なる恵みにより、無数の生命を育み、そして宇宙は始原の瞬間から生命の進化を見守ってきた。

 気の遠くなる、永劫にも似た昔から、それらは永遠無限に息づき、営みを繰り返してきた。

 それらに比べて、人の何と小さいことよ。

 たかだか八〇歳そこそこの人生を、あがき、苦しみ、もがき、やがて死んでいく。

 人間の苦しみには四つの基本があるという。

 生きる苦しみ。

 老いる苦しみ。

 病む苦しみ。

 死ぬ苦しみ。

 四苦。

 それらに加えて、

 愛するものとの別れる苦しみ。

 愛別離苦あいべつりく

 嫌いなものと結びつけられる苦しみ。

 怨憎会苦おんぞうえく

 求めるものが得られない苦しみ。

 求不得苦ぐふとくく

 人間の肉体と精神が思うがままにならない苦しみ。

 五蘊盛苦ごうんじょうく

 あわせて四苦八苦。

 輪廻転生の輪にある限り、あらゆる生命は死にゆく魂と言える。

 そのため、死は恐怖でしかない。

 そして死が訪れるその瞬間まで、人は一生懸命に生きようとする。

 それはよい。

 その姿は美しいものだ。

 しかし、それならば何故争うのか。

 人それぞれが、己れそのままで生命の限りを生きれば、争いなど今この瞬間にも消え去る筈だ。

 あの(ひと)――妖がいった「人の革新」とは、仏教でいうところの「智慧」を意味するのではないか。

 圭一は、この頃身を寄せていた祖母の家にあった仏教経典を読みふけり、やがてそう思うようになっていた。

 智慧(プラジュニャー)は、煩悩に汚れた我々人間の、知性的な分別や思慮を超越した純粋な働きであるという。

 人は常に、誤ったものの見方をし、他人と比較し、他人の作った価値観にしがみつこうとするところに、苦しみの生じる原因がある。

 智慧は、()に迷い、煩悩に振りまわされる我々の姿を照らし、正しい在り方を映し出す鏡である。人が知恵を得たとき、その光によって己れを識り、本当に進む路を知るのだ。

 煩悩を断って真理の世界に突入することは、人の変革と同義である。煩悩を断ち迷いの世界から離れ、全ての苦しみや悲しみなどから離脱する「解脱」と、「人の革新」論の行き着くところは同じなのだ。

 人の革新――それを成し遂げた覚醒者とは、「覚者(ブッダ)」に他ならないのだから。

 覚者には深い洞察力と大きな慈悲がある。それ故に、争いのない、慈愛に満ちた世界を創ることが出来るのだ。

 それが、人の使命なのだ。

「それなのに、人は自分の使命を見失い、我欲に走り、争いを続け、地球を破壊しようとしている――!」

 何と愚かしいことか。

「――どうやら、俺は本当に変わり始めているらしい。それが人の革新へと続く路なのかわからない。だけど、歩き続けるしかない。それが、俺の役目だ」

 圭一が呟いたとき、その決意を祝福するかのように一陣の風が吹いた。

 涼やかな風であった。


「圭一さん――?」

 彼とは血のつながりのない妹、優子が、圭一の姿がいつの間にか見えないことに気づき、彼を呼んだ。

 返事はない。

「何処に行ったか知らない? お婆ちゃん」

 縁側に座って庭に眼をやっていた老婆が顔を上げる。

 ふくよかな顔に刻まれたしわの数々が、老婆の人生をしのばせる。

「圭一なら、また山の方へいったよ」

 お婆ちゃんは、優しい笑顔でそう答えた。

「またぁ? このところ、毎日じゃない」

 呆れたようにいう優子であったが、別に本当に呆れ返っていたわけではない。

 圭一が革新の路を歩みつつあるのを一番よく知っているのは、優子に他ならないからだ。

 それはよいことだったのだが、優子としては少し寂しかったのである。

「よほど、あの山が気に入ったようじゃのう」

 お婆ちゃんのいう山とは、この村落の裏にある小高い山のことで、これといって名前はついていない。しかし、老婆たち村の住人も、その山に何かがあることは知っていた。というよりも、伝説として残っていたのである。

 この村を守る「守り神」がある、と。

 その山を、村に来て数日の若者がこよなく愛している。

 それが意味するものは何か。

 残念ながら、老婆の細い眼からは読み取ることは出来なかった。

 そんな伝説の存在など知る筈もなく、優子は木造平屋の安田家から飛び出していった。

 息を弾ませ、優子が駆けていく。

 その山は、若い肢体を持つ少女に対し、登るのに苦労は要求しなかった。が、それでも頂上に着くまでに三〇分近くかかり、優子はブラウスの上からでもそうとわかるほど、少し大きくなった胸を軽く上下させていた。

 うっすらと額に浮いた汗を優子は手で拭い、圭一の姿を求めた。

 義兄――いや、愛する男の姿は、優子のいるところから少し下った所にあった。

 足音を忍ばせて近づき、圭一の顔を覗き込んでみると、圭一は寝息を立てていた。

 思わず笑みがこぼれてしまう。

 優子は眠りこける圭一のすぐそばに腰を下ろし、風に長い髪をなびかせていた。

 あの惨劇の夜から、まだ数日だというのに。

 私たちは、ずいぶん変わってしまった。

 この広大な自然に身を任せることで、人はこんなにも心が安らぐものなのか。

 思えば、今まで本当の安らぎなど――

「ん――?」

 圭一が大あくびをして眼を覚ました。

「あれ、優子。いつの間に?」

「今来たところよ。よく眠っていたわね」

「いやぁ」

 照れ隠しに、頭を掻く圭一であった。

 優子は、くすくす笑って、

「――ねぇ、いつも、ここで何をしているの?」

「感じているのさ」

「感じている?」

「そう。この世界を形づくる全てのものを見、感じているんだ」

 そう圭一がいうのを聞いたとき、優子は思った。

 ああ、やはり、この人は変わりつつあるのだ。

 それは、彼女の肢体を歓喜に震わせるほどの感動であった。

 だが、変わりつつあると感じているのは、優子だけではない。

 彼女を見つめる圭一もまた、優子が変わりつつあるのに気づいていた。

 少女から大人の女へ変わりつつあるというのももちろんであるが、やはり、圭一同様に精神的にも常人とは異なる存在へと成長しつつあるのだ。

 そう、彼女もまた、自分本来の路を進むべく覚醒を始めているのだった。

 だからこそ、圭一は、自分たちに課せられた使命の大きさなど、問題にしていなかったのだ。

 それは、優子も同じ思いであったろう。

 愛する者と同じ路を歩んでいけるなら、たとえどのような試練が待ち受けていようとも、必ず乗り越えてみせる。

 そう思えるのだ。

 圭一は優子の顔を見つめ、

「――!?」

「帰ろうか、優子」

 にこっと笑った。

「うん」

 優子は圭一の手を取って立たせてやった。

 二人が、お婆ちゃんの家に戻る頃には、夕陽が西の山の端に沈みゆこうとしていた。

「綺麗ね」

 真っ赤に染まる大空。

 巣に戻る鳥たちのシルエット。

 沈みゆく生命の象徴。

「ああ」

 二人は足を止めて、夕陽が山の向こう側に姿を消し去るまで、凝っと見つめていた。

 夕陽の余波の隙間から星辰の輝きが地上にもたらされ始めるのを見て、圭一は時間の経過を知った。

 ふと、風にいい匂いが混じる。

 ご飯の匂いだ。

 そう悟ると、急に腹が減ってきた。

「ああ、腹減った」

 圭一はいった。


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